「私は君に、恋をしているんだろうね」 それはもう淡々とホームズは言った。 「………は?」 朝食をとっていた手は止まり、口元についた食べカスに気づける余裕もない。 「私は君に、恋をしているんだろうね」 いや聞き返したわけではない。 聞こえている。すごく聞こえている。聞こえてるから訊き返したのだ。 ホームズはいつも通り椅子に深く腰かけ、煙管を吹かしつつ立香が食事をする様子をながめていた。 毎朝のことだ。なんでも「君がものが食べている姿は非常に人間らしく、それは極めて“正しいもの”のように思える」とのことらしい。 いつもと変わらぬことなどなかった。 いつもみたいに朝食を受け取って、いつもみたいにホームズのところへ行き、そこにはいつもみたいに立香専用のイスがあって、いつもみたいに朝食を食べる。 立香の行動すべてを、ホームズは何ともなしに受け入れた。だってそれらはどれもただの日常だったから。起床後に洗顔するのと同じ。食事前に「いただきます」と手を合わせるのと同じ。 だから今日、いつもと違ったことなどたった一つだったのだ。 「えっと……その君っていうのは、わたし?」 「……君の食べかけたバナナに言っているとでも?」 「いや、ごめん」 「食事をつづけたまえ」と立香に言って、ホームズはまたぷかぷかと煙管を吹かしはじめた。 「しかし、いい着眼点ではある」 「はい?」 「そもそも私が、他人を私室に招き入れることなど滅多にない。意識的にそうしている。それはなぜか。……わかるかい」 「いや…」 「私は他人の干渉による錯乱を嫌悪する。その干渉が退屈なものであるなら、あるほどに。ああもちろん、そうならないよう訓練をつんだつもりではあるし、元からそうしない他人もいる。だが、その可能性がゼロでないというのなら──というかむしろ、ゼロという可能性こそ見過ごせないというのが私という概念だ。違うかね?」 「じゃあわたしはゼロでもないんですか?」 「いや違う。違うというか、現在進行形で私は君に錯乱されている」 「わあ」 「由々しき事態だ」 「で、出てこうか……?」 「こら、待ちなさい。話は最後まで聞くものだよ。由々しき事態なのは、君が私を錯乱させていることでない。私がそれを、心地よいと感じていることなのだよ」 「そ、それは……!」 「ん?」 「それはたしかに……恋、ですねえ……」 「だろう」 思うにこれは謎解き案件、ではないのだ。 それなのに職業病をこじらせているこの探偵さまは、ありふれた謎のちょっとした種明かしみたいに淡々と語っていくことしかできない。おかげでこちらの混乱は増すばかりだ。 煙管の煙がふかふかと浮いていき、いつの間にか消える。そのとりとめのなさは、まったく今の状況と類似している。 食べかけのままのバナナを持つ手が異様に汗ばんだ。 何も言い返せない。食事も進まない。ただ呆然とホームズを見ていた。 そうすると、眉をしかめて幾分バツの悪そうなホームズが腕をこちらに伸ばしてきた。そして立香の両目を手のひらで隠す。蝶の羽ばたきのようにふわりと視界が覆われる。 「そう見つめられては、穴が空いてしまう」 まるで探偵とは思えないような台詞だった。 名探偵シャーロック・ホームズ。 つまり、こんな熱っぽい台詞、ちっともホームズらしくない。 煙管の煙が鼻をかすめる気配がした。 ホームズの手や指には、陽の光を知らぬかのような淑やかさがある。 驚いたのは、その手が片手で充分に立香の両目を隠せてしまうこと。それから、人肌以上の熱を帯びていたことだ。 だから少し戸惑ってしまって、いつもの調子に戻るのに時間がかかってしまったのが悪かった。それがきっとホームズをその気にさせてしまった。 「ほ、ホームズ、ごめんって。わかったからその手どかして。何も見えない」 「……君のその、清々しい食べっぷりも気に入ってはいるのだがね」 「だから! いま口元拭きますから!」 「じっとしていなさい」 「えっ、ん」 生ぬるく湿そぼった何かが口元をなぞっていった。 ヒュッと息をのむ。 動けなかった。動けなかったのは、その何かの正体が、まあだいたい判別ついたからで。 再び開かれていった視界にホームズの息がかかる。息がかかるほどのゼロ距離に顔があれば、そりゃいくら整った顔だといったって鼻の一個や二個食いちぎってしまいたくもなるだろう。 「おっ、おまえ……!」 「うん?」 「おまえっ、今、口に……! やったなーーー!?」 「ハハ」 子供みたいにわらったホームズは、やけに満足そうにまた深く椅子に座った。 「なるほど。恋か」 そう歌うようにつぶやくのだ。 ← |