涙目のクランケ



「ッアーーー! 待って! 一旦待ってくださいね先生!」
「いや、もう五旦くらい待ってるけど」
「いいからちょっと! ストップ、です」
「怖いんならそんなにじっくり見なければいいんじゃないの?」
「だって! おっきいし!」
「そんなことないよ」

 やれやれといった表情、などは一切せずに先生は視線をこちらに戻した。
 場所は診察室。清潔さの代名詞のような白いカーテンに隔離された空間で、二人向かい合う。

 男はきまって瞳に憂いを浮かべ、すみれ色の長い髪を耳にかける。
 そして、手には注射器。
 まくし上げられた服の袖が二の腕周りを締めつけた。それが異様に窮屈に感じられて、そういうのって多分、本当にだめなやつだ。

「……絶対痛いですもん」
「痛くないよ。チクッとするだけ」
「そのチクッとが嫌なんです!」
「そう? ……じゃあチクチクッと」
「嫌なのが倍増してんですけど先生〜〜」

 「困ったな…」と先生は目を伏せた。そう言いつつ注射器は持ったままなので、引き下がる気はないのだろうが。
 いや正しい。先生は何も間違っていないし、何も悪くない。むしろ名医中の名医である神宮寺寂雷に注射をうってもらえる自分はさぞ幸せ者なのだろう。
 が、だめなものはだめなのだ。
 いくら善良な存在だからといってゴキブリを愛でられるかという話だ。愛でられないだろう。そういうことだ。理解と認識は必ずしも直結するとはかぎらない。

「せ、せめて何か面白い話をしてください、先生」
「面白い、か……。その手の話はどうにも苦手なんだけど、でもそうだな。君にとって面白いかどうかはわからないけど。友人とね、釣りに行った話をしようか」
「えええ……」

 つかみから不安しかないよ先生。
 話の片手間で手遊びするみたいに、わたしの二の腕をもみもみしながら言葉をしたためる神宮寺寂雷。ひょろりとした指がやわりやわりと肉に埋まる。
 友人、と言ったか。
 その表情は穏やかでやさしい。彼の持ついつもの包容力が、また色を変えたようだった。

「不思議な縁でね、彼とは」
「仲良しなんですか?」
「仲良し……? うん……まあ……どうだろう。ただ、僕にとっては好印象で、何より興味深い青年ではあるよ」
「ふうん?」
「先々週はね、彼、アロワナを釣って」
「アロワナ!」
「うん。2匹」
「2匹! どこまで行ったんですか」
「川だね」
「どうぶつの森感覚で古代魚釣らないでくださいよ」
「今度一緒にどうかな? どうやら君はアロワナに興味があるようだし」
「興味っていうか脅威は感じてます、先生のお友だちに」
「ふふ、そう? チク。それにしても君はいいリリックを思いつくものだ。感心するよ」
「なに言ってるんです、そんなの……………チク? え? アッ!」

 カチャリとあたたかみのあの字もないような音をたてて、使用済みの注射器は処分されていった。
 再び先生が針を刺した部分の肉をもみもみする。
 状況を把握するのにしばらくかかった。さらにその状況を受け入れるのにも少々。

「先生……」
「よく我慢したね。えらいよ」
「……どうも」
「おや、泣いてるのかい? ……痛かった?」
「痛くはないです、ただ、その、突然だったもので、ちょっと、驚いただけです」
「そう?」

 足音がして先生は立ち上がった。次の患者が入ってきたのだ。
 ドアが閉まる振動でカーテンが揺れる。
 誰からも見えない場所で、二人にしか聞こえない声量で、そう話しているとなんだか特別な気分にされてしまうからだめだ。わたしはお医者の治療を受けているだけだし、先生は患者に治療を施してるだけで、このかたちはありふれたものであるはずなのに。あるべきはずなのに。

「それじゃあ僕は行くけど……」
「はい」
「君はここにいる?」
「いてもいいですか?」
「うん、いいよ。診察が一段落ついたら家まで送ろう」
「そんな」
「僕の運転でよければ、だけど」
「とんでもない。ほら先生、早く行かないと」
「最後に見せてごらん」
「ん」
「いや腕じゃなくてだね。目を」
「目? です?」

 あっと言う前に顎をつままれた。顔がくいっと上を向く。先生にしては強引で、有無を言わせぬ力加減に為すすべはない。
 憂いを含んだ瞳が近づく。すみれ色の髪が降ってきてわたしを閉じこめる。ぬっとかかる影が少し怖くて、でもそのまま閉じこめておいてほしい気もするから不思議だ。

「先生?」
「……かわいそうに。怖かったね。せめて……いや、形はどうあれ君の泣き顔は目に毒だな」

 悩ましいため息とほぼ同時に、柔らかなものがふにっと瞼を撫でていった。
 「おまじないだよ」と去っていく大きな背中を見送る。

……お医者さんがおまじないなんて、変なの。