ロマンチックでもなんでもない



 お姫さまは王子さまのキスで目覚めましたとさ。



「トナカイさん!」

 鈴の音のような、というのはとくべつ比喩というわけでもなくて、鈴をシャンシャンと響かせながら転がって来たのはジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィ。
 後輩の藤丸立香は訳あって数多の英霊を召喚している。そのうちの一基、ナーサリー・ライムに絵本を読み聞かせ静かな一時を演出していた部屋が、鈴の音によって一同に色づいた。

「あれ、どうかしたの?」
「どうしたもこうしたもありませんよトナカイさん! トナカイさんが…! とにかくトナカイさんのことなので、まずはトナカイさんにお伝えしようと……トナカイさんもトナカイさんがそばにいてくれた方が、」
「リリィちゃんステイ。ステイだ。よーしよーし、そのままいい子でここにいなさい」

 なぜか自分までトナカイさんくくりにされていることはさておき、だ。
 リリィからの知らせを何一つ理解できていないまま、だがとにかく何かが起きているらしい。絵本をナーサリーに返して部屋を出た。


『***ちゃんか、いいところに来てくれた。ああいい、皆まで言うまいよ。君の言いたいことはわかるとも。君の疑問も、おそらくその答となるものも私にはわかる。一昨日一緒に来てもらったレイシフトで、いたろう?見たことないド派手なワイバーン。実は彼、そのワイバーンに傷を負わされていてね。まあ何せ彼のことだから大事には至らないと思っていたけれど、悪い。これは私のミスだ。まさかこういう類いの症状が出るとはね。とにかく今の彼は、』

 理性が侵食されている状態、なのらしい。
 バタバタと忙しない厨房でダヴィンチちゃんが言っていた。詳しいことは未だ調査中ではあるが、原因は十中八九例のド派手なワイバーンにあるだろうとのことだ。
 わたしもそう思う。だって林○ぺーみたいな色味をしていたし、鳴き声は完全に○家パー子だった。
 軽く走って彼の部屋に着く。

「ジークフリート!」

 まずはいつもの通りベルは鳴らさない。でも返事はなかった。
 いつもだったら名前を呼ぶだけでドアが開き、「あなたか」とやさしい声音に招かれる。

「ジークフリート」

 もう一度呼んだ。しかし返事はなく、結局ベルを鳴らした。それでも返事はない。

「ジークフリート。ジーク、入るよ」

 とうとう無許可でドアを開ける。
 ドアの隙間から差す光はない。部屋は暗かったが、見覚えのないふたつの赤い光が鎮座していて思わず息をのむ。

 理性が侵食される。
 理性が侵食されるってつまりどういうこと? 理性でないものに、理性が追いやられること。
 じゃあ理性でないものってなに? 野生。
 そこにいたのは明らかに野生の獣だった。

「君は、」

 誰かと尋ねようとしてやめた。
 ベッドには赤い瞳の獣がかまえている。


 ベッドサイドに立ち、その有り様をのぞけばフーッフーッと息を荒くする男、否、獣。
 「ジークフリート」と、今日で何回目かの名前を呼べば、それまで見え隠れしていた赤い光が一瞬閃光を放ち、こちらに向けられた。冷たい炎を宿しているかのような瞳は、見惚れる暇もなく襲いかかってくる。

「ウエッ」

 ことの唐突さに、色気のいの字もないような声を出した***はジークフリートに強く引き寄せられ、そのままベッドへとダイブ。
 現状を理解するまでには幾ばくかの時間を要したが、どうやら仰向けのジークフリートの体にすっぽりと倒れ込んでしまったらしい。

「ちょ、ちょい! ジークフリート!」

 返答はなく、余裕のない息の音がすぐ耳元で聞こえた。
 ジークフリートはたくましい腕を***の腰に回し、強く抱きしめる。
 ……いや、これは抱きしめるとは言わない。
 抱きしめられているというよりも、押しつけられているに近い。触れ合うというより磁石さながらくっつかざるを得ないという方が妥当な状況だ。
 思わず「痛い痛い!」と喚いてしまう。
 おまけに顔はジークフリートの胸部につぶされて、呼吸すら満足にできない状態にあった。とっさに胸部を叩くペチペチと軽快な音は、今の切羽詰まった事態とは到底釣り合わない。

「モーモモモーモ(ジークフリート)! モッモ(ちょっと)! モモモモモ(落ち着いて)!」

 ふと太股にこそばゆさを感じた。
 そのまま踵からふくらはぎ、膝裏をねっとりと、そしてまた太股。ジークフリートは***の足のラインをなぞり始めた。

「モッモー(ちょっとー)!?」

 太く頑丈な立派な尾の、その先端で舐めるように***の脚をなぞっていく。さながら動きは舌のように執拗。
 「ひっ」と声が出て、ぞわりとした何かが体を駆ける。
 いけない。これは非常にいけない。
 脳みそが縮む心地がした。それでもひたすら胸部を叩きつづけていれば、背に回された腕はかすかに緩まる。
 ここぞと顔を上げると、小さく、わずかに、線香花火のように点滅する赤い瞳と青の瞳があった。
 たしかにその青は、聡明でやさしいジークフリートの瞳の色。

「マスター……離れてくれ……」
「ジークフリート!」
「***……でないと俺は、あなたにひどいことをしてしまう」

 何かを追い出すかのように吐かれた熱い息は、声になってはいなかった。
 ***を抱く腕は力ずくで緩められている。
 ジークフリートの体は震えていた。
 赤と青に点滅する瞳も震えていた。
 ジークフリートの頬に手を伸ばしそっと触れると、ビクンと肩が大きく跳ねる。

「マスター……!」

 だめだ、やめてくれと言わんばかりに首を振り、請うような目つきでこちらを見る。
 ジークフリートのそんな顔を見たのは初めてだった。

「わかった! ちょっと待って、いま考えるから!」

 瞬間、ジークフリートの身体の震えが止まる。
 瞳の点滅も止まった。
 さっきまでの獣の気配が冗談かのように消え去り、代わりに目を丸くしてこちらを見ている。


 何を考えているのだこのマスターは。
 謝罪文句が口癖のジークフリートも、さすがに反論した。心のなかで。

 何よりそれは突発性を伴ったものであったとジークフリートは思う。
 奇妙なワイバーンから攻撃を受けたとき、たしかに痺れるような刺激があった。だがそれも一瞬のことであったし、傷自体も小さなもので気にならず、戦闘が終わる頃には傷の存在すら忘れかけていた。というのも、その日のマスターの魔術礼装はかなり、その、危ういものであり、はっきり言って防御性(広義)に欠けているタイトスカートはいわゆる破廉恥というもので、ジークフリートにとっては自らの傷なんかよりもそちらの方に気が気じゃなかったからだ。

 しかしこの有り様である。
 身の貞操を案じていた自分が、今まさに彼女の貞操を犯そうとしている。

「えっ」
「え? えってなに」

 ジークフリートは目を閉じて天井を仰いだ。
 あ、もしかしてやれやれみたいな顔をしてる?

「マスター、いいだろうか。よく聞いてくれ」
「うん、わかった」
「いい返事だ。いいか、ちょっと待って、とかではないのだ。考えるとかでもない」
「そうなの?」
「すまない。俺の未熟さが招いた事態だ。罰は後で十分に受ける。だが今はとにかくここから逃げてくれマスター。そしてしばらく俺に近寄らないのが得策だろう」
「そんなことない。君は悪くない。罰なんかもない。君の権利はわたしの義務だ」
「頑固者め……」

 そう言いながらジークフリートは苦しそうに眉を歪めた。
 瞳が再び点滅を始める。「ジーク」と声をかけたときにはすでに青い瞳は消えていた。


 だって、ジークフリートのあんな顔を見たのは初めてだった。妖しい赤が灯った瞳をのぞきながら思う。
 生憎こちらは身動きがとれず、唯一動かせるのは頭の中身だけなのだ。
 どうにかしなければと脳みそを擦りきれるまでフル回転させ、ふとよぎったのはつい先程までナーサリーに読み聞かせていた童話のワンシーン。

『お姫さまは王子さまのキスで目覚めましたとさ。めでたしめでたし』

 わたしバカ。バカわたし。
 キスひとつで目覚めるならば苦労しない。
 だが情けないことに冷静になれる余裕はなかった。事は緊急を要する。
 腰に回された腕の力が再び強まっていく。きりきりと窮屈になっていくに連れて混乱が増していき、もはや思考は正常に働かない。
 もうどうにでもなれという投げやりと、考えているだけでは何も変わらないぞという空気を読まないポジティブシンキングに背中を押され、***はジークフリートにキスをした。
 ジークフリートはぱちりと目を見開く。
 警報さながら赤く光っていた目は、波が引いていくかのように理性を取り戻していく。

「え、あれ? ほんとに?」
「……マスター」
「あ、怒ってますよね」
「まさか」
「怪我は……ない?」
「あなたこそ」

 そうやさしい声音は、たしかにいつものジークフリートだった。
 まさかとは思ったが、キス一つでどうにかなってしまったのだ。
 ジークフリートが一息ついて、わたしも一安心ということで体を起こそうとするが回された腕はほどかれない。

「え」

 ジークフリートを見るといやに熱っぽい瞳がこちらに向けられている。

「離すとでも?」

 頬に手が添えられた。ふわりと包み込まれるぬくもりに酔いしれていて、ジークフリートの顔が問答無用で迫ってきていることに気づけなかった。

「えっ、えっ?」

 あと3センチ。2センチ。1センチ。
 鼻と鼻はくっついて、吐息と吐息はすでにキスをしている。そういう距離。
 混乱を無理矢理押し込めて、目を閉じようとするとジークフリートの動きが止まった。

「もう一度、口づけをしてもいいだろうか。マスター。今度は俺から」
「こ、ここまで近づいといてそういうこと聞く!?」

 「ふ」と笑ってちょんと触れるだけのキス。ジークフリートにしてはチャーミングな口づけだ。
 鼻がくっつく距離で笑い合って、またキス。
 ちゅっちゅっと部屋に響くリップ音がなんだか気恥ずかしくてジークフリートの首に腕を回し、否応にも近づいた唇にもう一度キス。
 照れ隠しでジークフリートの肩に顔を埋めると、太股に覚えのある感触があった。

「んっ」
「……***」
「あ、ちょっと!」
「すまない、拒まないでくれ。あなたが欲しい」

 そう言って***の左耳を甘噛みする。
 ぐるんと勢いよく回転させられた体がベッドを軋ませた。首元に顔を埋められれば、懐っこくマーキングされているような気分だ。
 今度は***がジークフリートを見上げる。

「や、やさしくしてくれなら……」
「……ああ。善処しよう」


 王子さまはお姫さまのキスで目覚めましたとさ。めでたしめでたし。