今夜も冷えるなあと、心のなかで思う。 今夜もとは言ったが、雪山に潜む孤城に暖かな夜などなく、そもそもサーヴァントに冷えやなんだのによる影響は生じない。 それでも今夜はとくに冷えると、ファントムは思う。 それはいつもの虚言であるか、それとも。 消灯後のカルデアは実に静かである。 廊下を歩く者はいない。あらゆる生命の気配はない。昼間の賑やかさが幻だったかのように閑散とする。英霊が集い、喧騒の代名詞である食堂も例にもれず、今はオルタの一騎もいやしなかった。 無人だった食堂に、明かりを灯したのはファントムだ。燭台を片手にフラフラと現れ、部屋の一角にひっそりと腰をおろしている。 そもそも、明かりなどなくても、サーヴァントには何の問題もない。ある程度の夜目は効く。そういう風にできている。それでも明かりを点けたのは、なぜだろう。寒かったから、かもしれない。 ファントムは何をするわけでもなく、そこらにあった椅子に座り、天井の一点を見つめていた。ただ、「今夜は冷えるなあ」と考えながら。 とうとうファントムの向かいにある椅子が引かれた。 「夜ふかし?」 いたずらっ子のようにわらうのは、ひとりの少女。 「クリスティーヌ……」 「あ、だめ。行かないで。もうファントムの分も用意しちゃったの」 令呪の印の気配をちらつかせることはなく、立ち上がったファントムを止める。少女はケトルからマグカップ二つに熱湯を注いだ。 湯気が立ちのぼる。淑やかさをオレンジピールで薄めたような香りと一緒に、少女は片方のマグカップをファントムのほうへ押した。 「よければ飲んで。寒いでしょ? あ、もしかしてファントム猫舌?」 何度も言うが、寒いとか熱いとか、そういうものから影響を受けることはないのだ。もちろん、空腹がなにかの支障をきたすなんてことも一切ない。 だがファントムはマグカップを引き寄せた。何とはなしにそれを両手で包み、ただぼんやりと、あたたかいと思った。 すぐに口をつけない様子を見て、少女は「あ、やっぱり猫舌なんだ」とケラケラ笑った。 またひとり、何者かが食堂に入ってくる気配がする。 「マスター。それからアサシン、ファントム・オブ・ジ・オペラとお見受けする」 いったい何の光に反射したのか、男の胸元がキラリと赤く光った。 施しの英霊。太陽神の子ともなれば、自身を光らせることなど容易いのかもしれない。 ファントムはとうとう席を立った。 「あ、ファントム」 少女の慌てた様子を確認した施しの英霊は、その施し対応も手早い。 「待てアサシン。不快な思いをさせてしまったのならば謝ろう。俺の考慮不足だ。非はこちらにある。お前が去る必要はない」 「違う違う。そうじゃなくて、カルナも待って」 どうやらカルナの気づかいは、少々ピントがずれていたようだ。 少女はファントムに目配せをする。 正直なところを言うと、ファントムは彼女のそういうところが嫌いではなかった。加えてカルナの思慮深さと紳士的な物腰は、ファントム的にはかなり好印象。 ファントムは目配せの通り少女の意に従い、またひっそりと椅子に座る。 聡い少女はその様子に安心し、今度はカルナを見た。 「カルナも一緒にどう?」 「俺がいては邪魔になろう」 「邪魔なら邪魔だって、とっくに追い出してるよ」 「……そうか。では失礼するとしよう。お前からの誘いを無下に断るほど、俺も野暮ではない」 カルナはこちらに軽く会釈をして座ったが、ファントムの身体が震えたのは寒かったからではない。カルナが、さも当然のようにファントムの横に座ったからだ。 予想外のことにファントムは戸惑ったが、カルナの表情に変化はない。向かいの席の少女は、またいたずらっ子の顔をしている。 そうしながら少女はもう一つマグカップを用意して、ケトルからお湯を注いだ。 「カルナも飲むよね?」 「いただこう。今夜は冷える」 太陽を背負ったような男も、今夜は冷えるようだ。 「これはこれは、珍しい面々だ」 たおやかなほほえみとともに食堂へやって来たのは、皆が「ルーラー」と呼ぶ男だった。東洋の英霊であったか。 「非行少女たちのたまり場かと思いました」 「かくいうお前もその口だろう、ルーラー」 「滅相もない。我々は非行などできない。そうでしょう、マスター」 ルーラーの男は、少女に向かって目を細めた。 男の皮肉に気づいていないのか、それとも今さら気がつけるほどの目新しいことでもないのか。すでに少女はマグカップをもう一つ持ってきていた。 「はいはい。よくわからないけど、眠れないなら天草くんも一緒にどうですか? インスタントの紅茶だけど」 と訊きながらも、少女はすでに紅茶を淹れている。 重複するが、彼女のそういうところは嫌いじゃない。 「眠れないのならと訊いておいて、紅茶を勧めるのはいかがなものかと思いますが。いただきましょう」 天草クンと呼ばれた男は「こんばんは、ファントム・オブ・ジ・オペラ」と礼儀正しく挨拶をくれた。 ファントムもお辞儀を返す。つかみはいい。好青年だと思う。が、なぜだか彼もさも当然のように自分の隣に座ったので、ファントムは鏡を前にした子猫さながら背中をビクつかせた。 少女はやはりにやついている。 「マスター」 天草クンが少女を呼んだ。 「うん?」 「紅茶には、もう少し熱された湯を注ぐのがいいでしょう。とくに今夜は冷え込んでいますから。これは善良なアドバイスです」 まるで “善良でないアドバイス” があるかのような言い草だ。 「けど、ファントムが猫舌なんだって」 「おや」 猫舌ではない。 「マスター、そう気兼ねする必要はない。確かに冷めてはいるが、これはこれでいい。そして何よりお前の、その心遣いが好ましいと俺は感じる」 彼の斜めにずれたやさしさは、このぬるい紅茶と一緒で、今日みたいな夜にはひどく心地が良い。 何億もの呪いをうけ、業火に焼かれ、それでもびくともしなかった英霊たちが、紅茶の温度一つでてんやわんやする光景は、はっきり言って奇妙だった。 奇妙だったが、嫌いではないとファントムは思った。 「もう一杯飲む?」 「いただこう」 「では私も」 「ファントムも飲むでしょう?」 ◇ 孤城にまた、朝がくる。 マグカップは空になり、底に茶色い染みができている。それを平然と見下ろして、ファントムはやはりひっそりとそこにいた。 「昨日、昔の夢をみた」「目玉焼きにはソースでしょ」「僕は醤油です」「塩だ」「林○パ○子みたいな鳴き声のワイバーンを見かけたよ」「マシュがくれたゴマ饅頭知らない?」 そんなどうしようもない話をしているうちに時間は過ぎ、夜の帳は下りていったのだ。 いつの間にやら、ファントム以外の面々は眠ってしまったようである。少女はテーブルに突っ伏し、カルナはファントムの肩に頭をあずけ、天草くんは頬杖をつくようなかたちで眠っている。 皆なにを狂ったのか、曲がりなりとも「怪人」と呼ばれる男のそばで、それはもうすやすやと眠っているのだった。 愚かだ、とファントムは思う。 しかしファントムは思い出す。それは皆がうつらうつらしてきた頃の、寝言にも近い少女の言葉。 「ねえファントム、楽しかった?」 朝を迎えたカルデアは実に静かである。 徐々に差し込む光と、そのなかで浮遊する銀色のダスト。 まずファントムは、肩にもたれて眠るカルナをなんとかして退かす。これだけでかなりのエネルギーを消費したが、ゆっくりしてはいられない。皆を起こさぬように慎重に椅子を引き、抜き足差し足で食堂を出る。それから物置化している一室へ向かい、ブランケットを数枚抱え、再び食堂へ。 ファントムは持ってきたブランケットを、それぞれにかけていった。 ーーええ、マスター。昨夜は楽しかった。皆、日々の戦いで疲れているのだろうね。風邪をひかぬように。ありがとう。 「おや? 君は」 ちょうどブランケットをかけ終えた怪人は、背後から聞こえた声に文字通り飛び上がる。 おそるおそる振り向くと、真っ赤な衣装を着た男が入り口に立ってこちらを見ていた。彼はいつかマスターが「食堂の長だよ」と紹介してくれた男だ。 職業病みたいなもので、ファントムは恭しくお辞儀をした。食堂の長もなかなかに律儀な性格をしてるようで、「これはご丁寧に」とファントムにお辞儀を返した。 しかし食堂の長は眉をしかめる。 「む」 本来無人のはずの食堂に見慣れぬファントムがいて、その後ろを見れば、今度は見慣れた数名が集まって眠っているのだ。無理もない。 「……状況は掴めんが、とにかくマスターはまた夜ふかしをしたのだな」 食堂の長いわく「まったく、癖になっては仕方がないというのに。よってたかって」とのことだ。 元凶のファントムは、身を小さくしながら食堂を出ようとするが、すぐに呼び止められた。 「これは」 食堂の長はこちらに向かいながら言う。 「このブランケットは、君が?」 視線を泳がし、少し考えてからファントムは浅くうなずく。 食堂の長は落ちかけていた少女のブランケットをかけ直してやりながら、やれやれといった感じでわらった。 「手のかかるマスターだからな。また何か、君に我がままを言ったのだろう」 ファントムは手振りも添えて異を訴える。 その様子を見ながら食堂の長は、やけに穏やかな顔をして言うのだ。 「……そうか」 君も、苦労するな。 ファントムは食堂を出る。 ひそやかに、滑るように廊下を進む。 コントラストの弱い朝のカルデアには、どこか神聖な空気さえ漂っていた。 ……ああ、クリスティーヌ。クリスティーヌ。君が、聞いてくれていればいいと思う。こんなもの、早く忘れてしまいたい。けれど、記憶にしてしまうには、もったいない。 欲張りなのだろうか。怪人には手に余るほどの、夢のような夜だった。 とてもやさしい夜だったのだ。 雪に濾過された白銀の朝日が、ファントムの進行方向を照らす。 ーーいいマスターをもちましたね。 ファントムは満足げにわらった。 ← |