世界で最も名の知られる殺人鬼、ジャック・ザ・リッパーは幼く、彼女を寝かしつけることが立香の日課となっていた。 ベッドで横になるジャックの足元に腰掛けて、さあ今夜は何の絵本を読もうか。 「おかあさんのおはなしが聞きたいな」 ジャックは夢見るような声音で言った。 時々あるのだ。まだ幼い彼女はあまりにたくさんの世界を見たがっている。絵本のなかの世界だけでなく、立香の目に写った世界までも。 「わたしの話なんて面白くないでしょ。アンデルセン呼んでくる? シェヘラザードがいい? それともシェイクスピア…はだめか」 「ううん、おかあさんがいいの。お星さまのおはなしがいい」 「お星さま? この前の?」 「そう!」 「……しょうがない。じゃあ特別」 いったい何度目の特別だ。ジャックはキャッキャと喜んでいるが、つくづく自分はこの子に甘い。 立香はジャックの腹部をとんとんとなでながら話をはじめた。 それはすでに思い出ではなく、遥かどこかの遠い記憶。 ◇ わたしの生まれた町は、東の海に浮かんだ小さな国の小さな町で、夜になると星の光が眩しいくらい。 きらきら、ぱちぱちってソーダー水みたいなダンス。 たまに流れてくるのはポップコーン。 わたしはそれが一等好きで、毎晩こっそり家を抜けて、湖の畔まで星を見にいった。 手を伸ばせば届きそうで、そのくらい夜空が近くて、「こんばんは」って話しかけたら「こんばんは」って返してくれそうな、そんな気配が心地よくて──、 ◇ 気づけば翡翠の瞳は閉じられて、ジャックは夢のなか。はだけた布団をかけ直し、部屋を出ようとしたところだった。 「眠ったかい?」 背後からの声に身体が跳ねるが、声の主は一瞬で見当がついた。ろうそくの灯りのようにほんのり漂う、その甘い声音を愛していたから。 「すまない、驚かせてしまったか」 昨夜ぶりのアヴィケブロンはいつもの調子で、おそらく朝から工房にこもっていたのだろう。 マスターを気づかってか、アヴィケブロンは立香の背中をさすった。このひとの手は、ゴツゴツしているのにちゃんとやさしいのだから不思議だ。 立香はアヴィケブロンと一緒に寝静まったジャックの部屋を出た。日中ほど騒がしくはないものの、まだまだ物音は聞こえてくる。廊下もそれなりに人通りがあり、たまたま前を通りかかったエルキドゥが「こんばんは、マスター」と挨拶をくれた。こんばんは。 アヴィケブロンは「送ろう」とだけ言って、自室へ向かう立香の隣を歩く。何を話すというわけでもない。だが今夜、珍しくアヴィケブロンが口火を切った。 「マスター」 「うん?」 「僕は君に、星空を見せてやることはできないが、故郷に帰してやることくらいならできる」 アヴィケブロンは言い淀んだりしなかった。ただいつものように平然と言った。 なんだそれ、と思った。支離滅裂だ。おまけにアヴィケブロンにしてはひどく不手際。だけど正直驚いた。きっとこのサーヴァントは、否、このオトコは、故郷になど行かせてはくれないのだろうと勝手に思っていたから。 そういう、マグマのような誠実さをもったひとだと思っていた。 誰が何と言おうと、立香とアヴィケブロンは好意をもって契りを交わす仲だ。自分にとっても、おそらく向こうにとっても互いが最初で最後の唯一無二。 おおかたジャックとの会話を聞かれていたのだろう。嫌な気はしないが、少し戸惑う。ひどい弱音を聞かれてしまった。 「……それ、聞いてたの?」 「うん、まあ」 曖昧な相づちを残してアヴィケブロンは黙った。人差し指でこめかみをかいて、軽くうつむいている。彼はいつもことばを探す。 美しさのモノサシなんてそれぞれだ。例えば真っ赤な薔薇を美しいと言うひとがいれば、真っ青な海を美しいと言うひともいる。ドレスを着て踊るお姫さまを美しいと感じるひともいれば、泥まみれで戦場を駆ける戦士を美しいと感じるひともいる。 だから、そう。 そういうふうに立香は、海を泳ぐ魚のように言葉を紡ぐアヴィケブロンを美しいと思う。 「んー。……まあでも、いいかな。故郷の星空といっても、いうほどきれいなものでもないので」 あなたと比べれば。 アヴィケブロンは「うむ」と立香の台詞を咀嚼してから、それはもう淡々と言った。 「マスター」 「うん?」 「僕の部屋、くるかい」 「だめ」 「だめか」とさして残念そうでもなしに呟くので笑ってしまう。 「明日なら」と言うと「そうか、明日か」とまた大して嬉しそうでもなく呟くのだが、心なしか声に覇気が加わったような気がしなくもない。 「正直、ハラハラした」 「え? わたしがえっちのお誘い断ったから?」 「や、違う。いや、それにもハラハラさせられたが」 「あ、ハラハラしてたんだ」 「その、君が故郷に帰ると答えたらどうしようかと」 「……どうします?」 「うむ。僕も身支度をしなくてはならないね」 身支度。 例えば工房の手配とかゴーレムの素材とか魔力ソースがなんたら…と必要事項を指折り数えている。 「あ、そっちなんだ。アヴィケブロンもついてくるんだ」 うんぬんかんぬんと完全に骨折り損の計画を立てているアヴィケブロンには聞こえていなかったようで、完全にひとりごと化してしまった。 まあいい。立香は無機質な天井を見上げ、故郷の星空を想う。 それはすでに思い出ではなく、遥かどこかにある遠い記憶。 そのまま横目でとなりを見る。 あなたに比べれば故郷の星など。 ← |