青い空を手に入れたくはないか、
「名前、こんなところで、何をしている。……危ないだろう」
後ろからかけられる声に目もくれず、名前はただぼうっと空を見上げていた。その空に本来ならば存在している青さはなく、ただ沈黙を貫く灰色の煙が鎮座している。
いつから青い空を見ていないのだろう。そんな疑問への答えは簡単すぎるもので、しかしそう結論づけたくなくて答えに蓋をしたまま空を見上げ続けている。
見かねたらしい声の主が、ゆっくりと名前に近づく。足音は決して明るくないもので、しかし名前にとっては安心感を覚える、大切なものだった。
「……いつアカデミアが来るかもわからない。いい加減戻れ」
「だって、あそこだと空が見えないもの。隼だって、知ってるでしょう」
くるりと振り返って、その人の顔を見る。かちり、と視線がぶつかりあった黄金の瞳は、確かに昔のような柔らかさはなかった。
……アカデミアが次元戦争と称してこの世界の侵攻を始めてどれくらい経っただろう。きっとそんなに時間は経っていないのだけれど、途方もない時間を過ごしたように思える。
青い空を見なくなったのも、隼の瞳からやわらかさが消えたのも、……瑠璃という隼の妹が、そして自分の唯一無二の親友がいなくなったのも、その頃の話だ。始まりなんて、思い出したくもないけれど。
「こんな薄汚い空を眺めて、何になる」
「少なくとも、私はまだ生きているって思えるよ。……生きていないと、この空すら見れないでしょう」
「……そうか」
出来ることならば、青い空を見たいのだけれど。そんな叶いもしない願い事を名前は嚥下した。
視線を動かす。かつて自分の住んでいた街は赤い灼熱に包まれ、煌々と醜い輝きを放っている。吹き上がる黒と灰の煙は空を覆って、この次元の空気を、人々の体を、心を侵蝕していった。
隼や名前、ユートといったレジスタンスの面々はまだいい。まだ戦うだけの気力はある。しかし他の、デュエルのできない人々は? アカデミアと戦うだけの気力を持たない人間は? ……何人も何人も、心が折れた人を見た。抗うことすら諦めて、奴らの手に落ちた人を見た。もう、あんなのは見たくない。
勿論、そのためにレジスタンスたる名前は戦っている。だが、敵はあまりにも強大すぎた。名前に出来ることなど、知れている。
「……弱いなァー、私……」
大丈夫、だと言い聞かせていたのに。どうやら自分は、存外弱っていたらしい。
立ち込める暗鬱とした灰色の空に、心を食われていたのは何も一般市民だけではなかった。自分でも気づかないほど、ゆっくりと心は疲弊していたのである。
はぁ、と大きなため息をつく。どうしようもない空虚感が襲ってきて、思わず顔を伏せた。
ぽふりと、隼が頭を撫でる。昔からこうだった。瑠璃と喧嘩して落ち込んだ日、テストの結果が悪かった日、親にこっぴどく叱られた日……、いつもこうやって彼は名前の頭を優しく撫で、気分転換を提案してくれる。
そんな隼のことを、名前は好ましく思っている。少し無理のある気分転換法だったとしても、隼と過ごすその時間はたしかに嫌なことを忘れられて──隼のことで頭がいっぱいになる。
故に。それがどれだけ突飛な発言だったとしても。
「……青い空を、手に入れたくはないか、」
「…………」
耳を傾けずにはいられなかった。
とはいえ、その意味を飲み込めはしない。顔を上げて、ふと、隼の真剣な黄金色へと目線をやる。昔のように柔らかくはない、しかし確固たる意志と強さを感じられる瞳。嘘や冗談を言っているようには思えない、真っ直ぐな視線。
「スタンダード次元に行く。そこに、アカデミアプロフェッサー、赤馬 零王の息子がいる」
「……それで?」
「その息子──赤馬 零児の身柄を確保し、赤馬 零王との取引に使う」
人の身を取引に使うなんて、とはとても言えない。彼は最愛の妹を失っているのだ、それを取り戻すためならばどんな手段でも彼は講じるだろう。それくらい、この世界の人間は追い詰められている。
……何も、弱っているのは自分だけではない。きっとこの言葉をこぼすのにだって、隼は途方もないほどの体力を使っている。その体力を、時間を、隼は名前へと捧げていてくれるのだ。その事実が、ああ、不謹慎だとはわかっていても、ほんの少しだけ嬉しく思う。
でも、彼がスタンダードに行くというのなら、それだってここまでだ。
「……そっか、気をつけて」
「何を言っている?」
「えっ?」
思ったことを口にすればそんな返答をされて、思わず間の抜けた声が出た。相変わらず彼の瞳は真剣そのもので、ふざけているようにも、まして名前の言った意味を飲み込めていないようにも思えない。
ぱちくりと目を何度かしばたかせる。呆れたように隼はため息をついて、しかしどこか優しげな声音で続けた。
「名前、お前も来るか、と俺は聞いているんだ」
「……私が? スタンダード次元に?」
「ああ。……それならば少しは、青い空を見れるだろう。それがたとえ他次元の空だとしても、気分転換にはなる」
実際のところは、お前を一人にしたくはないだけだが。
付け足すように小声で呟かれたそれは、確かに名前の耳にも入る。が、それを復唱してみれば隼が怒るのは目に見えていたので黙っておこう。
そっか、と小さく言葉をこぼして、きゅっと手のひらを握った。ポケットの中に忍ばせた赤いスカーフが、レジスタンスの証が、少しだけ恋しくなって、解いた手のひらをポケットの上へと這わせる。
深呼吸。薄汚れた空気が名前の肺を満たして、それでも少しだけ落ち着く。やがて、決意したように。
「……行こうかな」
「! ……」
「この世界に青い空を取り戻したいし、……それに」
隼のモンスターには、青い空の方が似合うし。
機械じみたあのモンスターが、灰色の空を飛ぶのは見ていて苦しいんだ。そんな言葉を飲み込んで、名前はポケットの中の赤いスカーフを手に取った。
青い空を手に入れたくはないか、
(この次元にだって青い空はあったのさ)
2016.11.29 執筆
Title...ポケットに拳銃