白い吐息がかたまりになって冬の夜に溶ける。寒い季節はひもじくて嫌いだったけれど、今では寒さのしのぎかたさえ忘れてしまった。
「デンジ、Stay」
いい気分で帰ってきたのに、ぴたりとデンジの足は残り二段を残して止められた。聞き馴染んだ声に、眉をしかめる。
ひんやりとした夜の空と同じ濃い青い目が、階段を上りきった先でデンジを待ち構えていた。
「言う相手、間違ってんじゃねェのぉ」
ぼりぼり頬をかきながら、デンジは口を尖らせた。Stayのコマンドが効くのは[Sub]性の人間だけだ。
生まれた時のことは知らないが、相棒の悪魔と一つの体になってからのデンジは、ダイナミクスレベルの簡易測定値をぶっ壊すほどの[Dom]性をもっている。最近知ったことなので、デンジに自覚は殆どない。
今、この世でデンジの足を言葉の力だけで本当に止められるのは、おそらく金の瞳の美しい女性ただ一人。マキマさんだけ、らしい。
「間違ってねぇよ。いいからそこで止まれ」
薄くひかる月を背負って、アキが睨んでいる。髪を結んでいるので、今の彼はデンジと同じ第二性だ。
両性を自由に行き来する稀有な[Swich]のアキは、社会生活上の利便性からなのか、基本的には支配級で過ごしていることが多い。
うなじを隠して髪をおろした[Sub]性のアキを支配下におけるのは、彼と契約する悪魔数体と、彼の高い気位をおさえこめるほど強大な[Dom]性の持ち主に限られる。たとえば、デンジとか。
「さみぃんですケド」
デンジは仕方なしに、中途半端な位置に片足をおいたまま、ポケットに手を突っ込んだ。
「そこ、どいてく……――」
「おまえ、今日、学校サボっただろ」
ぎく、とデンジの両肩が揺れる。ンで知ってんだよ、と口の中で濁すと、すかさずアキの叱責が頭上から飛んでくる。
「授業中ほとんど寝てるくせに一丁前にサボってんじゃねえ」
「お、俺にもなぁ、ツゴーってもんがあんだよ!」
思わず反論したせいで、さらにアキの怒りの火に油を注いでしまった。
今にもその長い脚が伸びてきて、せっかく上ってきた階段の一番下まで蹴り落とされそうな勢いで叱られる。
デンジは仏頂面を引っ提げたまま渋々と「悪かったってェ」とつぶやいた。
「……変な奴らと会ったりしてねえんだろうな」
アキがため息混じりに問いかけてくる。低くたしなめるような声に、デンジはちらと顔を上げてから、頷いた。
「誰とも会ってねえよ」
「だったら、どこほっつき歩いてたんだ」
「ひみつ〜」
チッ、と舌打ちをされたものの、アキはもうそれ以上追及する気がないのか、大きな溜息をもう一度吐いただけだった。
くるりと踵を返して、視界から消えてしまう。
慌ててデンジは階段を二つ飛ばしにあがりきった。このまま閉め出されてはたまらない。
今のデンジが帰る場所は、アキの住むこの家しかないのだから。
「心配しなくても明日はちゃんと行くぜ、ガッコー」
「心配はしていないし明日も明後日も毎日行けよ」
へぇへぇ、と繰り返しながら、ドアの隙間に体を捻じ込む。温かい家の空気が、デンジを包み込む。
アキはもう怒っていなかった。多分――最初から怒ってはいなかった。
早川アキはいわゆる「性を渡る性」という稀有な能力をもって生まれた[Swich]である。
ダイナミクスといわれる力量関係によって振り分けられた第二性の分類上、支配級にあたるのが[Dom]、庇護対象を[Sub]。それら二性を生まれながらに併せ持つアキは、その入れ替わりのタイミングを任意でコントロールすることができる。
トリガーは至ってシンプルだ。
結わえていた髪に指を通し、引く。うなじを隠す長さの黒髪が全部ほどけたら、アキはまたたき一つで支配者を悦ばせる[Sub]に変化する。存在の特質上、支配級にあたる[Dom]性が大多数を占める悪魔は、[Sub]階級の人間との契約を好む場合が多い。より強力な悪魔は、より従順な人間を好み、契約によって満たされる関係はデビルハンターとしての能力を遺憾なく発揮するうえでも重要な要素だった。
一方、従順な性分から戻ってくるトリガーもまた等しく。アキは複雑なワードや手順を踏まずとも、髪をまとめることで瞬時に[Dom]へと入れ替わることができた。二性のダイナミクスレベルそのものは中級程度だが、[Swich]という特性だけで彼の場合はおつりがくる。
支配するのも支配されるのも、決めるのは自分自身。ある意味一つの究極の自我。
それがアキの生き方で、生まれもった矜持で、揺らぐことなんてあり得ないと思っていた。
デンジと出会うまでは。
風呂から上がったデンジが素っ裸のままキッチンに向かうので、アキはテレビ画面を睨みつけながら「服を着ろ」とたしなめた。
「背中に目ん玉ついてんのかよ」
「濡れた足で台所を歩くな」
思わず裸足の爪先を見おろしているデンジの様子なんか、いちいち見なくたって分かる。
「コワ〜……」
「さっさと冷蔵庫閉めろよ」
「今日、機嫌すっげえ悪いじゃ〜ん」
間延びしたデンジの声が、台所を離れてドアの向こうへ消えていく。
苛立ちをうまく処理できなくて、八つ当たり気味にアキは手元の缶ビールの側面をへこませた。
「クソ……っ」
図星をさされて、居心地が悪かった。
デンジが学校をサボろうが、ちょっとぐらい台所を濡らそうが、本当はどうでもいい。いや、学校はサボってほしくはないけれど。一日ぐらいで目くじら立てたくない。
なのに、アキの中の何かが妙にささくれ立っていて、今日はいちいち余計な小言が止められない。
平静を装って仕事をこなしてきたが、本当は朝からずっと頭の中がぐちゃぐちゃだった。
漠然とした不安が急に押し寄せたり、小さなことが妙に気になってイライラしたり。
煙草の消費数が昨日の二倍に増えて、買ったばかりの箱の中身は夕方にはすっからかんになっていた。
おまけに偶然出くわした学校帰りのデンジの同級生から「デンジ君、風邪ですか、お大事に」なんてしれっと言われたものだから、アキの中の何かがブツッと切れたのだ。
玄関前で仁王立ちして、上機嫌に鼻歌なんか歌って帰ってきたデンジを、理由も聞かずに叱り飛ばした。
思い出すと、また腹が立ってくる。デンジにも、女々しいぐらいうるさい自分自身にも。
終わりかけているクイズ番組の中身も、さっきから全然頭に入ってこない。ビールの中身を飲み干して、アキは乱雑に缶をおく。
「アキ、なあ」
濡れた髪もろくに乾かさぬまま、デンジがすとんと向かいに座り込んできた。
途端に、口から「髪乾かせ」と小言がこぼれかけて、アキはぐっと唇を噛みしめた。
イライラする。あれこれ言いたくて堪らない。我慢するほどむしゃくしゃする。
「アキ、あーき」
「うるせえ」
「アキ、髪ほどいて」
派手に光るテレビ画面を睨みながら、アキは「嫌だ」と吐き捨てた。ふつふつと、また苛立ってくる。
風呂上がりでも律儀に髪を結んでいるのは、誰のせいだと思ってるんだと叫びたかった。
アキのテリトリーに土足で上がり込んできたデンジは、テーブルに顎をのせて、甘ったれた声で駄々をこねてくる。
「昨日も一昨日も、してねえじゃん、ケチくせえ」
「うるせえ。約束しただろ。一週間に一度。金曜か土曜。今日はまだ水曜」
主語を濁していたって、会話は成立する。二人にとって共同で「する」作業は、互いの欲求を満たしあうコマンドプレイに他ならない。
「来週の水曜まで我慢するからァ、一生のお願いぃ」
アキは瞼をおさえて、眉間を揉みこんだ。
クイズ番組がちょうど終わって、短いニュースが始まっている。ぐらつく理性を、固いアナウンサーの声に支えてもらいながら、アキは言葉を絞り出した。頼むから、これ以上刺激して欲しくなかった。
「寝ろ。おまえ、ちゃんと明日は学校行くんだろうな」
「その気にさせてくんねえと分かんねえな〜〜」
「っ、調子に乗んじゃねえ!」
ついにほとばしった大声が止められず、アキは腰を浮かせてデンジを叱り飛ばした、つもりだった。
素早く距離をつめてきたデンジの顔が、目の前にある。あ、と思う間もなく、アキは固まった。
「アキ、【Swich】」
明確な意思をのせて発せられたひとことに、アキの思考は一瞬で彼のからだを離れていく。
デンジの目がじっとりとアキの全身を縫いとめて、その視線に心臓までぎゅうっと握られたような心地がして、アキはあえかに喘いだ。苦しくて、ほんの少し息を吐いて、その瞬間から今度はばかみたいに心臓が鳴り出して、はーはー息があがる。
「ぁ……っ、は……」
脳天から爪先まで駆け抜けた官能の電流が、アキをその場にへたり込ませた。
ふるえる自分の指が、操り人形みたいに、うなじにかかる。洗い髪がばらけて、たちまちどろどろの蜜で頭の中がいっぱいになる。
「【Look】」
「――ん……」
何気ない会話の延長のように響いても、そこにデンジの支配的な意志が混ぜ込まれている時は、脳が痺れるような独特の感覚に襲われる。そう感じるのは、アキが完全に[Sub]に傾いた証拠だ。痺れた幸福感に包まれ、動作が緩慢になる。
生まれてからずっと、性の交代を命じるのは、自分の意思だった。[Swich]とは本来、そういう生き物だ。
自我で理性を縛り、自我で欲求を満たす。
アキがデンジの規格外の[Dom]性の調整役として疑似パートナー契約を結んだのはかれこれ半年前だが、[Sub]として接するのは万が一にも仕事に支障が出ない金・土曜の夜と決めていた。主導権は、いつだってアキが握ってきた。
なのに、暴力的なほど無理やりな変化に今、アキの体も頭も最上級に悦んでいる。
こんなのは知らない。知りたくはなかった。
───まずい。この感じは、多分、すごくダメだ。
「あ、う……っ、で…んじ…」
寒気がするほど気持ちがいい。ほどけた髪の一房が頬にふれるのさえ、快感として拾いそうになる。
「Goodboy≠ソゃんと俺ん命令聞けて、イイコだなぁ、アキは」
アキの髪を、ぐしゃぐしゃと乱雑な手つきでデンジが撫で回す。頭頂部に置かれていたデンジの手が、すり、とうなじにすべって、アキは、んっ、と敏感に背を反らした。鼓膜にとどくデンジの囁きが、他の全部の音をシャットアウトする。
「よしよし、いいこいいこ〜」
腑抜けた子どもの身勝手な言い草に文句が言いたいのに、見上げた瞬間、アキの目はどろどろに溶けそうになる。
この位置関係は駄目だ。己の定めたDomが目の高さより上にあって自分を見つめている現状は、基本中の基本である「Kneel」のコマンドに近い充足を瞬時にアキにもたらす。
「……う、…ぁ」
どうにも表現しがたい快感に包み込まれながら、アキは脱力のまま前のめりに倒れ込んだ。
「おわ、あぶね」
受け止められて、途端に密着する距離感に、興奮と快感で気が狂いそうになる。
そのまま撫でて欲しくて、抱きしめて欲しくて、アキの喉は浅ましく上下した。
口中にたまっていく唾液を代わりに飲み干しても、ちっとも癒されやしない。
たった一つの命令が、こんなにもアキの体を震え上がらせる。従属の姿勢で待ち望むのは、絶対的な快楽をもたらす褒め言葉。
「はぁ…っ……ふ、ざけ、んな……」
絞り出した悪態の語尾が、情けないほど揺れている。
「ちょっと気持ちくなってるクセにぃ」
「ぜんっぜん、足りねぇ…っ、こ、のばか、……ちゃんと、責任とれ…っ…!」
ひぇ、とデンジが引きつった声をあげながら、アキの背骨を撫であげる。
【Down】のコマンドがとんでこなくても、その微かな体温だけでアキの体は完全に重力以上の何かにおしつぶされた。
這いつくばったまま、浮遊しそうな恍惚の波に爪を立ててあらがう。
「んじゃ、遠慮なくぅ……アキ、いいこだから、見せて。【present】」
ほどなく、耳元に注がれた新しいコマンドで、アキの正気は呆気なく瓦解した。
顔を上げて、キスを交わして、くすぐられて、服をまくる。
なんでこんなに、と、どうでもいいから早く、とがせめぎ合って、アキの思考を塗りつぶす。
結局、人間も動物で、本能なんて動物がコントロールできるものじゃなくて、今、デンジのものになれたらきっと堪らなく気持ちがいい。
「っ……あ…っ…、つぎ、次、よこ、せ」
甘ったるい口内に舌を突っ込んで、酸素を全部吸って、待ちきれずに結んだ指を持ち上げて唾液をたっぷり絡ませた。
浮かせた腰の下にまだよく触られた訳でもないのに、もう中がぐちょぐちょで気持ち悪い。
「寄こせ、は俺ん命令だって……あ、っ、こらアキ、ばッ、……待って、まてぇ、ステイ、【Stay】っ!」
「ぅ、ン、ぅ…っ、ふ……」
恨めし気に見つめるアキの頬を、汗ばんだ手のひらでデンジが撫でる。
「っ、んなに、なるまで我慢しなきゃ、いーのによぉ」
「……?」
「……俺ぁ、まぁ、……い〜けど、ハァ……怒ンなよな、あとで」
「おこ、…って…るのか、デンジ、っ、……おれが、うるさく、言ったから」
だからこんな生殺しみたいな【Stay】を食らってるんだろうか。たくさんキスをして、腫れぼったい目元にも触れてもらって、気持ちがいいのに、全部あげてるのに、先に進めないのは、自分のせいか。
不安定な[Sub]の揺らぎに、アキの目にみるみる不安の膜が張る。慌てふためいたデンジが、まくしたてるように「ちげぇって!」と大声を重ねた。そのまま、ちゅっと強く唇を吸われて、むきだしの肌がびりびり悦ぶ。
「今、どうせ何言ったって、聞いてねえじゃん」
「き、い、てる、……ちゃんと、きいて、るから」
「あ〜〜、もぉ! 話がきけてえらいなぁ、アキは! いーからヤろうぜ!」
「い、いかた…クソ…」
おざなりに切り上げたデンジが、再びぶつかるような勢いでキスをしかけてくる。痛みに眉をしかめたのも一瞬、思いのほか優しく撫でられて、堪らなくなる。
誘い出されて絡められて、舌がばかになるまで重ね合う。揺れる官能に溺れながら、アキは重い欲望の炎に身をよじった。
まともに言葉を紡げるようになるまで、あと数時間はかかりそうだった。
■ ■
ベッドの中は熱の余韻をはらんでまだ温かいが、部屋の空気は夜も更けて冷え始めている。
「欲求不満ってやつ、俺も、たぶん、アキも」
「―――」
「週一じゃぜんぜん足りてねぇと思う。だから、苛々してたんじゃねえの、アキ」
アキは二の句を告げずに押し黙った。
苛立ちと不調の原因が、まさか軽いサブドロップの兆候だったとは考えもしなかった。
週に一度のルーティンにようやく馴染んできたと思っていたのに、体はとうにそれを追い越していたのだ。
「……悪かった」
ぽつりと呟いたアキの素肌に、デンジの指が伸びる。
おそるおそる首筋に触れられて、心地よくひんやりした感触に、アキは目を細めた。
「アキ、……あの、さぁ、俺、学校……今日……」
言い淀んでいるデンジの声が、輪郭を失って溶けていく。
眠気の限界値をこえて、アキは呆気なく睡魔に引きずられた。急に満たされすぎて、お腹がふくらんだ子供みたいに寝息をたてる。
夢のふちで、首輪だか指輪だか、たいそうで厄介なものの響きを聞いた気がしたけれど、聞き返す気力はかけらも残っていなかった。
週一で足りなくなった次は、週に何回で丁度良くなるのか、それだけ少し気になった。