小さな北の町にある教会をあずかるアキは、嵐の夜に行き倒れていた少年、デンジを助ける。ブロンドの髪だけは天使のようだが中身はまるで悪童のデンジに翻弄されつつ、何だかんだと世話を焼いてしまう。それと同時に、日に日に増す得体のしれない焦燥感に、アキは悩まされていた───。
やけに冷えた空気が、足首に噛みついて纏わりつくような夜がおとずれていた。
闇に紛れて闊歩する邪悪ななにかの吐息のように、音も色もなくただ不気味な気配が教会の周りを漂っている。
戸締りをし、長い廊下を手元の蝋燭を頼りにしながら歩きつつ、アキは背中を這う寒気を未だ拭えないでいた。
月明かりがないのも心細く感じる原因の一つだろうか。それとも夕刻に顔を合わせたマキマの見慣れない横顔に驚いたせいだろうか。見間違いだったかもしれない。柔和な彼女らしからぬ、酷く……怒ったような。
アキは頭を振り払って、くだらない思考を追いやった。それより明日のことを考えなければいけない。マキマは別れ際、この町の新しい領主が決まったこと、明日にでも教会へ顔を出すだろうことを知らせてくれた。アキは潮のにおいがするこの町を気に入っているが、辺鄙な北の果ての領主をかってでた人物が、どんな気持ちでやってくるかは分からない。唯一の教会を預かるアキとしては、ぜひとも良好な関係を築きたい相手である。いささか憂鬱ではあるが……菓子でも焼いておけばよいのだろうか?
物思いにあれこれ耽りながらアキは教会の全てが閉ざされていることを確認し、ようやく一息ついて部屋へと戻った。
扉を開け放つ。―――と、驚いたことにアキの部屋には先客がいて、その予想だにしない影にアキはあやうく蝋燭を取り落としそうになった。
「! ……デンジか」
「脅かしちまった、わりぃ。 風ん音がすごくて眠れねえんだ」
ぶるぶるっと犬のように身震いしてみせながら、デンジは両腕を寒そうにさすって笑った。アキは一瞬の動揺を飲み込み、安堵させるようにわずかな微笑みを返してやった。痩せ狐のように奔放でしなやかな体で駆け回るデンジだが、年のころはまだ少年で、ひどい雷雨の時に倒れていたのだ。硝子を震わせる雨の音に耳を塞ぎたくなるようなこともあるのかもしれない、とアキは想像した。
「分かった。大人しくできるなら今夜はここで過ごしていい」
「やりぃ!」
「その代わり、ベッド汚すなよ」
「え、俺ぁそっちのソファでいいぜ」
「おまえの寝相には期待してねえよ」
夜中に転げ落ちたお前に起こされるのはごめんだ、とアキが付け加えた言葉に、デンジは悪びれもなく同意を示す。あっけらかんとしたデンジの図々しさは、一人の気楽さを愛するアキにとっても居心地の悪いものではなかった。人の顔色を読み取るのは告解室にいる時だけで十分だ。
アキは手早くケープを脱ぐと、部屋に備え付けられた小さいコンロに火をつけた。こんな暗い夜はせいぜい温めた飲み物を口にしてさっさと眠ってしまうに限る。明けない夜はなく、終わらぬ悪夢もないのだから。
茶器を準備し、お湯を火にかけ、予備のカップをさっと水で洗う。蛇口をひねって水を止めた時、アキは不意に背中に人の気配を感じて、ぴたりと止まった。
「アキ、……すげえいい匂いしてる。これが聖職者ってやつのにおいかよ」
「―――デンジ?」
蛇口に置いた右手に後ろから回された右手が重なり、もう片方の腕で腰回りに抱きつかれて、アキは硬直した。背中にぴったりと張り付いた少年の笑い声が、悪辣な響きになってそよいでいる。
「デンジ、離れろ」
「聞こえねえなァ……」
腰からへその下をなぞった左手がするりと動き、襟の合わせ目から滑り込んで来た瞬間、アキは目にも留まらぬ速さで反転しながら骨をへし折る勢いでデンジの足首を蹴り上げた。間一髪で掠めるにとどめたデンジが、後ろに飛び退りながら機嫌よく唇を鳴らした。
アキの指にはすでに年季物のカップではなく、にぶい光を放つ刺突用ピックが数本挟まれている。アキの冷えきった暗器と殺気を向けられてなお、デンジの瞳は煌々と輝いていた。
「マジか。似合うな、アキ。俺ぁますます好みだぜ」
「………おまえ、なんなんだ」
アキは目を眇めて闇に紛れて見えづらくなった少年の気配を探った。はからったかのようにチェストの蝋燭一つを残して、部屋中の灯りが消えたせいだ。隙間もないのに寒風に煽られたように炎が揺れて、向かい合う黒い影を壁にゆらゆら映し出している。
「おどろいてる? それとも怖えのかよ?」
じっとりと汗が額に浮かびあがる。アキは恐怖していたし、焦っていた。デンジの突然の行動にも、暗がりで追い詰められかけている状況にも、何よりも、今の今まで気付かなかった、“その正体にも”!!
「……あ……」
この気配。忍び寄ってきている、冷たくて熱くて痛くて恐ろしくて懐かしい。昔、昔。俺の“すぐそば”にいた―――。
「デンジ、そうだ、……おまえ、―――その名前」
あえぐアキの喉から小さく漏れた男の名前は、激しく雷鳴が落ちたせいで、完全に掻き消されてしまった。雨はもう滝のように勢いを増してガラス窓を叩いている。長躯の重心を下げて構えたアキは、動揺もあって正攻法での攻撃に意識を集中させすぎていた。
「! ん、ぐぅ……っ!!」
股間に鋭い一撃が食い込む。思い切り下半身を蹴り上げられて、さすがにアキもこんなバカみたいな弱点攻撃を受けるとは思わず、声をかみ殺すタイミングを完全に逃した。ズドンと大きく響いた落雷の音に紛れて、再度一発。冷や汗だったものが脂汗に代わり、膝をつきかけたアキは悔しさと痛みと羞恥に、罵声を上げた。
「っ、ざけんなっ…クソ!!」
「―――思い出したかよ、」
暗い闇が覆い隠して、物のあやめも定かでないのがもどかしい。一つしかない蝋の炎が、再び大きく揺らいだ。
顔をあげたアキの目の前、何もないはずの空間にじわじわと黒い靄が湧き出して、一枚の大きな丸鏡が現れた。
鱗羽根の生えた双頭の蛇がぐるりと縁取る装飾鏡の奥から、次第に靄が流れて人影が現れる。
忘れもしない。その目、その顔、その声。デンジ。―――めぐるたびに出会う、悪魔の名前。
『よぉ、アキ。久しぶり』
豪奢な椅子の足から始まり、その座にだらしなくもたれかかる少年の手足や腰や首にさえ巻き付いた重たげな鎖には、天使の祝詞で施された封印呪文がぎっちりと刻み込まれている。
禍々しい玉座に縛りつけられたまま、まるでそれを苦にせぬ様相でくつろいでさえいる少年の肩口には、ピンクがかった長い髪から二つの角を生やした美しい女が、退屈そうな顔で頬を寄せていた。唇が、好物の血色で濡れている。
『アキ、会いたかった』
いとおしげにアキの名を転がす少年の声音は、あまりの衝撃で意識の薄らぎかけたアキの鼓膜を確かに震わせた。落ちていきそうな半端な視界に、その姿を見とめる。
「デンジ、……」
『俺ぁ待ちくたびれたぜ、クソ映画もさすがに見飽きちまった』
くあ、と欠伸をしてみせる少年の目は、毒々しいほどに光り、それは悔しいことにアキが知るどんな星よりも明るく輝いて見えるものだった。こぼれる歯の鋭いその切っ先で噛まれる感触も、耳の穴にさしいれられる舌のぬるさも、鮮やかに思い出せる。幾百年の妄執の先にいる悪魔を前に、アキは唇を引き結んだ。気圧されている体を叱咤して立ち上がろうとする。悪魔のささやきに耳を傾けてはいけない。
「っ……、どのツラ下げてきやがった、おまえを地獄に送ったのは俺だろ」
浮遊する鏡の奥を気丈に睨み据えたアキだったが、がくんと膝の力が抜け、床に額から落ちかけた。驚いたのはそれで顔面をぶつけたからではなく、直前に髪をぐいと引っ張られたからだった。無理やり引き上げられた目の前に、質量をもった相手の貌がある。
信じがたいことに、地獄に縫いとめられている筈の悪魔はすでにアキの目の前に、仮初の身体を支配して存在している。
「お、まえ、そこまでもう―――?!」
『アキ、ああ、アキだ……すげえ、』
アキは柔らかく頤を掴まれ、上向いた。じゃらじゃらと鎖が床を引き摺る音を立てている。
動けないのかと思っていた玉座からデンジはすんなりと立ち上がり、こちらに降りてアキの頬に触れていた。アキの前髪が揺れて黒い影が落ちる。眼前でうれしげに微笑まれても、アキは指先一つ動かせなかった。欠伸を噛み殺したような顔をした少女が、つまらなさげに横を向いていた。そうして二人から視線を外してくれたのは、彼女なりの恩情にさえ思えた。
「……っ、んぅ……っ───ん、はぁ……」
それほどに、悪魔から与えられた口付けは甘く執拗だった。睦言ものせる気のない不遠慮な舌に、ことごとく吸い付かれる。抱きしめられて、背に回った手のひらが無い羽根をさぐる手つきで骨の形を追いかけている。腰から上へと指先が這いあがるだけで、刺激は甘ったるい官能を呼び起こした。ひどく愛撫に従順な肉体を思い知らされた。アキはよじって悶える体に送り込まれる猛毒のようなデンジの唾液に酔い溺れた。舌に嬲られる。
「っ、ぁ……!―――んっ、んっ……ふ……」
かぶりを振った首筋でさえ噛まれれば四肢に響き、息が上がり、奥の奥までむさぼられる。最後にちゅっと愛らしい音を立てて離れていった相手をようやく突き放した時、アキの瞳は潤みながら燃え上がっていた。
「い、いかげんにしろ……デンジ……!」
「気持ちよかったくせにィ」
「っ、おまえが……おまえが人間界に来ると、滅茶苦茶になるんだよ!」
怒りと恥辱に全身を染めたアキを、いっそう愛玩の目で見下ろしながら、デンジは後ずさった。靄が包んで、見る間に玉座が彼を縛り付ける。どうやらもう身動きは取れないようだった。
『もうちょっとだぜ、アキ。迎えに行くから「良い子」にしてろよな』
砂が波に浚われていくように、細かく光を放ちながら質量のある悪夢が消えていく。
大きく揺らめいた炎が、最後の命運もつきたようにフッと消えた。