2.爪/正常位

 怠い朝だった。
 喉の渇きと、どこもかしこも持ち上がらないような、ずっしりとした疲労感。昨晩、めちゃくちゃ盛り上がりすぎちまった。

 デンジは寝転んだままの視界でベッド脇の目覚まし時計を見た。わりと逼迫した時間だった。
 日曜日なので仕事に支障はないが、もう三十分もしないうちに多分パワーが、お気に入りのテレビ番組を目当てに起き出してくる。
 魔人にゃデリカシーってもんがない。『いつまで交尾しとるんじゃ、メシ!』の一言で叩き起こされたアキが、俺んことを蹴り落として勢いよくベッドから出てった先月の傷心の出来事を、俺ぁいつまでも根に持ってんだぜ。
 ぼさけた髪を掻き回しながら、仕方なく足元で丸まってるタオルケットを爪先で押しこくって、デンジはのったりと起き上がった。
 はぁ、と溜息と欠伸のあいの子みたいな息をついて、床に足を下ろす。
 ベッドの中ではまだアキが死んだように眠っていて、横向いた頬にかかる黒髪がうすく開いた唇に掠めていた。
 わりと眠りの浅いアキにしては、珍しいぐらいの熟睡だった。
 爪先でつまむように唇にかかった数本を避けてやりながら、デンジはぎゅうっと湧き上がる甘酸っぱい気持ちに喉を詰まらせる。
 無理させたしな、なんて思うのは何だか手練れた男みたいで胸がくすぐったい。もっともそんな睦言めいたことを素面のアキに聞かせたら、重低音で「は? ふざけんな」の一蹴で終わるので、想像も妄想もほどほどにしておくのが吉だ。
 現実的には、朝食の準備でもしておいてやった方がよっぽどアキにはささる。俺んことメロメロになっちまうかも。
 すうすうと寝息を立てている、幼けなさに似た無防備なアキの寝顔を名残惜しく見つめて三秒。
 それを何とか夢のふちから起こさぬよう、そろりと足音を忍ばせてデンジは部屋を出た。ひとめが無いのをいいことに、素っ裸で浴室に向かう。

 昨晩、めちゃくちゃ盛り上がったということは、めちゃくちゃ汗もかいたということだ。
 自分の中から出るのも、相手から出るのも、ぜんぶ混ざりあって溶けて愛し合う行為の副産物だ。好きだけど、朝になったら容赦なくシャワーで洗い流したい。
 デンジは蛇口を捻って、熱い湯を頭から浴びた。
「んァ?」
 背中にぴりっと違和感があって、思わず声を漏らす。しみるような痛みだった。
 濡れた右手で背骨の上下をたどって、皮膚の上を指の腹でなぞっていく。鏡に映しながら肩甲骨のあたりを念入りに探ると、細い線状の凹凸が正体だと知れた。
「ああ……」
 昨日、アキの爪が食い込んだ痕だ。皮膚の表面を薄く裂いて、うっすらと血を滲ませる赤紫色の引っかき傷。  
 けっこうしっかりやってんな。と思いながら、湯の温度を少しだけ下げて髪と体を洗い流していく。
 排水溝に泡のかたまりが渦を巻いて吸い込まれるのを見届けながら、デンジはどんな連想で至ったのかも分からぬまま、昨晩の記憶を反芻していた。
 ――アキはどんな風に俺の背中に触れてきたんだっけ。
 ばかみたいに気持ち良いのが先行しすぎるから、正直、最中の記憶はほとんど断片的だ。
 浮ついた言葉を口走って、アキの体を揺さぶりながら何度も目の前が真っ白になるほど高くぶっとんで、そんで容赦なくおちてくる。
 「イく」も「クる」も「トぶ」も。
 一緒にいて繋がって隙間もないほどぴったりしてるのに、絶頂の瞬間だけどっか一人で離れていきそうな、なんかそんな感覚。
 不安になる刹那を乗り越えようと、アキが取り澄ました顔をぐちゃぐちゃに歪ませて揺れる心を訴える。
 だから俺はいつもぎゅうぎゅうに抱きついて、もっと深くで繋がりたくなって腰を揺らす。
 回されるアキの手も、背中をえぐるみたいに掻きむしって、必死になって皮膚に爪を立てる。
 痛みと疼きと、肩口から聞こえるアキの噛み殺した低い呻き声が、切なくて苦しいくらいに気持ちいい。
 興奮しきった犬みたいに涎も構わずキスをして、舌をめちゃくちゃに絡ませて、どろどろのセックスに頭の芯から溶けていく。
「あ、あっ……デンジっ……う、ぁ、…」
「ん、うん、だいじょ〜ぶ……」
 待たせて焦らしてなんて高等テクは俺にはまだ無理で、アキの好きなところを必死に探すのがいつも精一杯だった。でも、アキはそれで良いって言いたげな目つきで俺を見上げる。
 見下ろす角度のアキは新鮮で、黒い睫毛も伏せた青い目も上気した頬も、夜のとばりの中なのに不思議とあわく光って見える。好きなものはきらきらするなんて生まれてはじめて知った。
「ん、ぁ……っ、あ……ふぁ、んんっ」
「はぁ……っ、あッ、……きっつぅ……」
 溶けたマグマの中に突っ込んで、掻き回すのが、脳みそまで茹だるほど気持ちいい。
 ぐちゅぐちゅやらしい水音と肌を打つ音が混ざり合って、体の端から端までアキと溶け合ってる実感がわいてくる。二回目も、三回目も、アキはやっぱり俺の背中に爪を立てた。俺もアキの肩に噛みついて、歯を立てた。
 触れ合う、なんて生やさしい感覚じゃない。死にそう。イク。逝く。
「あ、ぁっ……デンジっ……イ、く! い、く、ひッ、ィっ…!!」
「ん、おれっも、イク……!」
 アキの体をぎゅうっと抱き締めて、深く繋がったところで熱い精液をどくどくと注ぎ込んだ。
 喉の奥で悲鳴を押し殺したみたいに掠れた喘ぎを出して、同じくらいたくさん精を出したアキが、小刻みに腰を痙攣させるのが――。


 ごぽっ、と排水溝の中から湯の音がやけに生々しく聞こえて、デンジははっと我に返った。
 出しっぱなしのシャワーを思いきって水に切り替えて、情熱の余韻を無理やり流しきる。
 しみる傷口は、水にしてもやっぱりまだ痛かった。

 痛いんだけど。……消えちまうんだよな。すぐ。
 治癒どころではない、デンジは死んだら生き返る。肉体は全部一から生まれ変わる。
 どんな深い傷も痛みも、肉体に刻まれたものはすべからく消え失せる。
 だから最後の最後になって、どうしようもないって顔して必死で縋りつくアキの手が、もっと例えばすごく鋭利で、肉も骨も抉るほどの凶器になったとしても。残らない。
 肩甲骨にはしった赤い線も、見えないところにぽつっと付けられた内出血も、デンジが生きるために捨てられていく。
 愛するポチタにもらった己の命と体をデンジはこよなく愛しているのだけど。
 でもな。ちょっとだけ。これは残ればいいな、なんて。

 どしゃ降りのシャワーを捻って、一緒にくだらない妄想も振り切って、デンジはもう間もなく起き出してくるであろうパワーとアキのために真っ白いタオルで背中の傷を勢いよく覆いかくした。


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