寝ても覚めても離さない

 景勝地に足を運ばなくたって、土手沿いを歩くだけで花見ができる季節がきた。
 唇より薄い色をした花びらが惜しげもなく散る下を、二人で手を繋いで歩いてゆく。絡めた指先があつい。火照っているのは指だけではなくて、からだの隅から隅まで、どこもかしこも熱くて切なくて痺れている。口付けもまだ交わしていないのに、もう何べんも重なり合った後みたいだった。ぐ、と握られた手の力強さと大きさが、心地よく少年の胸を焦がして溶かしていく。花の嵐は南風を呼び、二人の頭上にやわらかな花のアーチを揺らしている。
 桜色の時雨にもうすっかり酔っぱらった心地になって、少年はとうとう足を止めた。
 振り向いた目と目が合う。絶え間なく降り注ぐ花びらが、下から上から舞いおどる。少年とつないだ手をそのままに、向かい合った背の高い男は何かを言いかけて、やめた。
 枝先にかすむ空と同じ青色の目を、柔らかい光に眩しげに細めている。真っ直ぐに見つめられている。
 弧を描いた唇がゆっくりとデンジの名をなぞって、そんな小さな空気の震えでさえ人は幸福になれるんだと、少年は思い出していた。
 ―――ああ、アキだ。「アキ」が、目の前にいる。


◆ ◆ ◆


 少年が「デンジ」の名前をもらって過ごした人生の中で、一番最初に出会った彼は、今と同じ「アキ」の名前をもっていた。空虚な「空」の響きに似つかわしく、どこか穴の開いた過去と傷をもった男だった。
 その時のデンジは彼に負けず劣らず糞みたいな人生を送っていたけれど、アキとは傷を舐めあうような関係を築いたわけじゃなかった。どちらかといえば、互いの傷口になんか興味が無くて、ただ二人とも我武者羅に生きるのに必死だった。
 アキはデンジの監督者で、年上の彼は時々デンジに兄貴風をふかせて小うるさく振舞った。
 うんざりするほどよく怒鳴られた。喧嘩もたくさんした。殴ったり蹴ったりした。不貞腐れて口をきかなかったこともあった。でも時折ひどく静かに窘められて、ごくたまに優しく褒められた。アキはデンジにとってそういう存在だった。
 好きだったとか、愛していたとか、甘ったるい類の感傷は全く覚えていない。
 ――ただ殺してしまったことが、本当に辛かった。一生、デンジの胸の奥底に癒えない傷を残すほど、苦しかった。

 あんな風に未練を残して死んだせいだろうか。
 デンジはそれから後の人生で、幾度となく彼と出会った。
 自分が年上の時も、年下の時もあった。すれ違うだけの関係の時もあれば、血のつながった親子の時もあったし、教え子と生徒の時もあった。男が「アキ」なんて綺麗な名前じゃないときもあった。そもそも男ではないときもあったかもしれない。
 記憶があやふやなのは、デンジが彼を思い出すタイミングに、一貫性がないからだった。
 彼はいつだってデンジの前に不意に現れるけれど、デンジが彼を「アキ」だと認識できるまでには、ひどく時間がかかる時もあったし、出会った瞬間に体中に電流が走る時もあった。
 もしも魂に前世の記憶を掘り起こすスイッチがあるのだとして、それが匂いなのか、声なのか、温もりなのか、神様の気まぐれなのか、デンジには知る由もない。
 いずれにしても少年の人生に男は必ず光と影を落とし、そして縁なのか宿命なのか、彼はいつだって少年よりも先に死んでいった。
 呆気なく病死したり、凄惨な事故に巻き込まれたり、その命が天寿を全うしたことは一度もなかった。
 泣いても嘆いても結末は変わらず、少年はいくつもの男の死を看取った。
 みずから手にかけた最初の「アキ」の最期より酷い死は見当たらなかったけれど、喪失はいつだって重くデンジの魂に傷を残した。

 季節を渡る鳥のように、あのとき越えられなかったはずの春を迎え、人生を廻って、デンジが学んだことは一つ。
 アキは、恋をするには、一番選んじゃいけない相手だった。


◆ ◆


「……どうした?」
 向かい合ったまま、アキが覗き込むように声をかけてくる。
 白昼夢から醒めた気分で、デンジはまばたいた。暗かった映画館から出てきた時のように、世界が白くて眩しかった。青空が透き通っていて、花びらがアキの肩越しに惜しげなく降っている。
 目の前にいる男は、デンジにとって唯一無二の家族だった。父にしては少し年が近すぎるし、兄にしたって余りにも二人の顔は似ていなかったけれど、血の繋がりなんかよりずっと濃く繋がった家族だ。
 両親を不慮の事故でいっぺんに失った厄介なクソガキを、葬儀場から引き取ってくれたのがアキだった。
 面倒の種とばかりに遠巻きに牽制し合う他の親戚たちを押しのけて、デンジの手を握って一緒に帰ってくれた。ややこしい親戚関係のあれこれは分からないけれど、一応どこかで血縁関係にはある、らしい。
 引き取ったとはいえ、あの頃のアキは病弱な弟とかかりきりの両親を煩わせまいと上京したばかりで、決してまだ立派な大人ではなかった。だから、デンジを養う余裕なんかなくて、生活はいつだって苦しかった。デンジの知らないところで、アキが相当に苦労していただろうことは想像に難くない。それでも、二人で生きていくのは楽しかった。
 狭いアパートで、エアコンは何度も壊れた。冬でも布団はいつも薄っぺらだった。でも、汗だくの体にせまい風呂場で水をかけ合うのは気持ちよかったし、雪の日は互いに体を寄せ合って眠れば、ぬくもりは夢を満たした。
 中学を卒業したら働くつもりだったデンジに、高校進学を強く進言したのもアキだった。アキのためだけに、高校に通った。
 そうして今日。
 晴れて三年の学生生活を共にした制服を脱ぎ捨てたデンジを満開の桜並木へと連れ出して、アキは珍しく少し強引に手を繋いできた。出会った頃より少し年を重ねてかさついたアキの手が、燃えるようにあつかった。
 土手沿いの桜は見頃を迎えて美しかった。さぞ大勢の人が行きかっているかと思いきや、みんな近くの公園で開かれている桜祭りに出払っているのか、前にも後ろにも人の気配がない。
 唇より薄い色をした花びらが惜しげもなく散る下を、二人で手を繋いで歩いてゆく。子どもみたいに手を引かれるのが恥ずかしくて、嬉しくて、前を歩くアキの背中がたまらなく愛おしい気がして、デンジは唐突に「思い出した」。
 ―――ああ、アキだ。「アキ」が、目の前にいる。
 死ぬほど嬉しくて、最悪な気持ちだった。好きだと言いたくて、足りない脳みそで考えていたセリフは、全部飛んでいってしまった。
 今度こそ「アキ」のことは、好きにならないと決めていたのに。


「デンジ?」

 のばされた手のひらが、熱を確かめるようにデンジのひたいに触れる。ひんやりとしたアキの指に身を任せて、デンジは瞼を閉じた。魂の内側をじわじわと浸食する過去の傷が開いて、「アキ」の記憶が色鮮やかによみがえる。何度でも巡りあってきた全部と、その始まりが視える。思わず身震いしたデンジを訝しんで、アキの手が額からながれて少年の頬をなぞった。
「具合でも悪いのか」
「……悪くねえ、……と思ったけど、やっぱ、すげえ悪いかも」
「どっちだよ」
 ふざけていると思ったのか、アキの声が少し柔らかくなる。頬から離れていこうとするアキの手を咄嗟に左手で掴んで、デンジは目を開けた。
「アキは、アキはどっか具合悪ぃとこねえのかよ。体ん調子、オカシイとことか」
 はあ?って声をあげたアキの体が、急に穴だらけになって血が噴き出して、呆気なく死んでしまうような気がする。
 胸糞悪い妄想がやめられなくて、デンジはもう言葉もなくアキの腰を両腕でひき寄せた。アキの広い背中に回した手に力を込めて、ぎゅうっと抱き締める。雷が鳴ったって、悪夢を見た夜だって、アキにこんな風に抱き着いたことは一度もなかった。なのに、もう何度も何度も抱き合ったような馴染んだ感触がする。
「っ……おい、デンジ……」
 戸惑ったアキの声が降ってくる。なおも胸にぐいぐいと頭を押し付けると、ためらいの数秒をおいて、アキの手がそっと背中に回された。ぽん、とおまけのように軽く背骨を叩かれる。
「おまえ、今日高校卒業したんだろ。なに甘えてんだ」
「アキが急に手ぇなんか繋ぐから、ミョ〜な気分になっちまった……」
 ふは、とアキの息が耳をくすぐる。悪かったな、と笑ったアキの声音はちっとも悪びれていなかった。
 いつもよりずっと甘ったるい気分をあおられて、デンジは熱くなった額を犬のように擦り付けた。
「アキぃ」
「なんだ」
「……―――」
 すき、と言い掛けて、口ごもる。不毛な最期を迎える相手を、愛しきれる自信がない。傷口を開いた魂が情けなくたたらを踏む。踏み出せない一歩を笑うように、スニーカーの裏底が砂利道をこすって音を立てる。
 アキの白いシャツの余りを掴んでいた手をゆるめて、デンジはのろのろと顔を上げた。
 そのひたいに、不意にチュッと小さなリップ音が触れた。濡れた感触がさわって、そっと離れていく。
 唇の柔らかさは、勘違いと流すにはあまりにも生々しかった。
「あ、え、あェ!? いま、ええェ……?」
 デンジはせわしくまばたいた。一挙に体中の血液が沸騰する。
 激しい動悸に、語彙も思考も瞬時に食われている。意味不明な声を漏らしながら、デンジは呆然とアキを見た。
 満開の桜が重たそうに垂れ下がっている枝の下で、アキはほんのり赤みが伝播したような耳をしていた。青い目が、デンジを熱の籠った色で睨む。我慢できないほど、その顔が好きだと思った。
「言いかけたなら最後まで言え」
「好き、ちょー好き、アキ、好きィ、……」
「……っ、も、いい、―――わか、っ……んぅ、ン――」
 あやうく歯がぶつかるような、技巧も加減もない口付けを交わす。猛烈に、キスがしたかった。
 息の仕方もわからないほど夢中になって、ぬるっとした舌を少し感じただけで芯が昂って、デンジの体はたちどころに爆発しそうになった。後も先もない。今が欲しい。
 ぐい、とアキが両肩を押しやって離れた。惜しむような目つきに、堪らなくなる。もう一度手を伸ばしたデンジをやんわり押しとどめて、アキはあえぐように息を吸った。それから。

「卒業おめでとう、デンジ」

 ―――これが言いたかった、と、アキは囁いた。
 その言葉は、デンジの目の前にいるアキが呟いたのだけど。どうしてか遥かとおくの「アキ」が零したようにも聞こえた。
 散り散りになって舞い上がる無数の花びらの1枚が、どこかで枝分かれしたアキの未練を、きれいに空へと昇華していった。


◆ ◆


 少年が「デンジ」の名前をもらって過ごした人生の中で、一番最後に出会った彼は、いつかと同じ「アキ」の名前をもっている。 空虚な「空」の響きに似つかわしく、どこか穴の開いた過去と傷をもった男だ。
 今のところその健康な肉体には傷一つなく、毎晩丹念にすみずみまでデンジが食んで愛しているので、もっぱら瑞々しさを増すばかりだ。きっと今度はうまく生きていけるような気がしている。

 季節を渡る鳥のように、あのとき越えられなかったはずの春を迎え、人生を廻って、デンジが愛について学んだことは一つ。
 寝ても覚めても、愛しい人は二度とは離さない。

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