血みどろになりながら時代錯誤の刀を振り回している、自分と同じ顔をした男が出てくる夢だった。
毎度汚い臓物まみれになるくせに、男は律儀にいつもスーツを纏っていた。
足元は軽快なスニーカーで、中途半端に伸ばした髪を頭上で結っていて、ちぐはぐな格好は百年前なのか百年先なのか分かりもしない。ただ粛々と、男は奇天烈な化け物を手にした刀で殺していく。
狩っては殺して捕えては蹴散らして、まるでB級スプラッター映画だ。がむしゃらに殺戮をこなす男は、しかし稀有な力をもっている超人というわけでもなく、不断の努力と並々ならぬ復讐心だけでしたたかに生きていた。
アキには、この世の果てに行ったってきっと分からない情動だ。
あんなふうに命を投げうってまで成したいことなど何もない。
人を食らう悪魔なんて安い映画の中だけのフィクション。スーツにはやっぱり革靴が常識で、肌身離さず持たなきゃいけないのは武器じゃなくて、財布と携帯電話。
アキの生きる世界はそんなふうにできていて、言葉にして羅列すればたしかに物足りない毎日が横たわっている。大人になるほど背負って抱えるものは沢山ありすぎて、男のように何もかもを振り切って走り続ける勇気もない。
でも、それでいい。これで十分なんだ。
ゆめをみるならこんなふうに。あれが夢でないなら、せめてこれも夢でありませんように……。
葉むらの濃淡を見上げると枝先に引っかかった星灯りが一つ、アキのひとみに吸い込まれる。またたきの間に無数の星がながれて過ぎて、夢とうつつは時折ひどく曖昧になる。
世界の裏側に一人で取り残されたような物悲しい気持ちになって、アキの足は止まりそうになる。
ヴヴ、と微かな振動がポケットの中で伝わった。
右手にぶら下げた買い物袋を左手に持ちかえて、メッセージを確認する。早く帰ってこい、と催促する味気ない文字列がアキを現に引き戻した。
川べりの夕風に背を押されながら、歩き出す。
アキには自分の帰りを待つ相手がいる。
だから、あんなふうに命を投げうってまで成したいことなど何もない。
「ただいま」
玄関をあけると、台所の奥からあたたかな夕餉のにおいと共に、見慣れた顔がアキを出迎えた。
おかえり、と返した口元がもごついている。あちこち跳ね回った癖っ毛は風呂上がりなのか、まだ若干ぺしょりと濡れていた。
「何食ってんだ」
「腹減りすぎて、ちょっと摘まんじまった」
ばつの悪さを誤魔化すように買ってきた荷物を強引に奪い取って、ついでにアキの唇もかるく掠め取って、青年は鼻歌まじりにリビングへ戻っていく。
何の変哲もない白いTシャツの下には、アキが引っ掻いてつけた傷が三つ、多分まだ残っている。職場で着替えるたびにわざとらしく見せびらかす程度には、彼は自分を愛してくれているだろう。
学生時代に、出会い頭の事故みたいにぶつかり合って、殴り合って転がり落ちてる間に離れがたく一つになった。
三つ先に生まれたのはアキだったけれど、青年の方が先に社会人になった。季節が巡って、アキも真新しいスーツに袖を通すようになって、見晴らしの良いベランダのついた家に二人で越した。
慌ただしく春は過ぎ、ぎらつく夏が近づいている。
ぬるま湯のように怠惰で甘ったるい日々を重ねながら、ふたりで今日も明日も生きていく。
寝支度を整えて、ベッドのそばに置いた読書灯を一つ点ける。
と、すりよってきた手に読みかけの本を奪い取られて、アキはしかめ面をしながらシーツの上で反転した。
うすあかりに光る瞳が真上になって、アキを求めてきらめいている。アキが何よりこの目に弱いと知っていて、小狡い罠を仕掛けるのだからたちが悪い。
湿っぽい熱をこもらせた夜着の中に、アキは右手のひらを滑りこませた。
青年の胸のひらきの真ん中には、くっきりと斜めに切れた黒い傷があった。幼いころの傷だと聞いた。肌にしみついた傷跡を、指の腹でなぞると、分かりやすく赤くなった頬をふくらませて、青年は口ごもった。
「そこ、あんま触んなよ」
嫌がる口ぶりとは裏腹に、素足を絡めて腰を寄せられる。仕返しのように胸に触れた爪で小さな尖りを捏ねられて、アキの喉から吐息と声が一緒に漏れた。
「んっ……」
枕にしがみついた手をなんども手繰りなおして皺を寄せながら、行き場のない熱をからだの奥までめぐらせる。
どろどろに溶けていく気分が絡める舌を柔らかく慣らし、思考を揺らしていく。
「ぅ……ぁ、はぁ……」
手のひらにすくって温めた潤いをたっぷりと塗りつけられながら、物欲しい気分を存分にあおられる。
期待にふくらんだ呼吸がしぼむ間もなく足を広げられて、アキは目の前の首と背中にすがりついた。まだ動きもしないうちから獣じみた息をあらげ、貫かれる悦さに疼く体を震わせる。
はやく。はやく、この体に脈々と受け継がれる空虚をうずめてほしい。
満たしても満たしても穴が開いている「空」の魂。
「もう、いい、もういいから……」
声にならないほど切なくなきながら、幾度となく額を擦り付ける。そこが熱くて苦しくて嫌でたまらない。
宥めるように指を絡められて、上も下も、ぜんぶ塞がれていく。
──あき、あき、アキ。
溺れた声が名前を呼んでいる。もの言いたげに開いた唇からもう言葉の形は出てこなくて、代わりにつう、と唾液が零れ落ちている。
アキは舌を伸ばしてそれを舐め取った。きゅうっと細まった目に見つめられて、苦しくなる。
「あっ、ぁっ……ん、ぅん…!」
うなじに刺さる噛み痕に、突き入れられたぬかるみの心地よさに、声が響く。とん、とんとゆるやかで容赦のない擦過に、汗ばんだ背が震えて止まらない。
かけらになった羞恥と増大する欲望が青い目の中をどろどろに揺らす。
「なぁ、きょう、なんか、あった……? 中、すげぇ、あつ」
夢見心地でアキを抱きながら、青年は問いかける。
「ん、ぁ……んっ、ああ…ッ!」
「あき、」
「───っ、ふ、……う」
欲望に溶ける甘えた声がまともな言葉を奪っていく。胎の奥からとどく快楽の極みがすぐそばまで近づいてきていて、アキは首を振るので精いっぱいだった。
気持ちいいだけ。ゆっくりして欲しいだけ。
口にできたか分からないほど陶酔しながら、喉笛も心臓も下腹部も、急所という急所をぜんぶさらけ出して高みへのぼっていく。
────ゆっくり、すんのも、辛いんだけどぉ。
ぼたぼた汗を落としながら、嬉しそうに応えられる。
望み通り奥の奥まで、ゆっくりと開かれる。浅ましいなかを何べんもこすられて、揉みくちゃになった枕に涎をしみこませて、おそろしいほどの快感に打ち震える。
そのうち加減を掴んできたのか、ゆるやかな突き上げに一定のリズムがうまれて、アキの悦びの息も短く速くなった。目の前が滲んで、背骨を反らす。
ほどなく放たれた白濁を受け止めながら、ゆるやかに腰を動かしてぜんぶ飲み干すと、ながいながい溜息がアキの耳をくすぐった。
「きょう、ほんと……──あ〰……そうじゃなくてェ。もう一回、いい…?」
いいから。何にもないから。
何にもない。今日も明日も、何にもない。それでいい。それでいいから。
おまえはちゃんと、まっとうに生きて、死んでくれ。
──季節が巡って蝉の声が聞こえなくなった頃、アキは五日間の出張を命じられた。帰ってきたら三日間の有休を約束されていた。
出かける前にたっぷり愛されて、眠れぬ夜を幾度かもちなおしたけれど、急いていたのはお互いさまだった。
迎えに来ているはずの駐車場に向かって、アキは足を速めた。
橙色の夕焼けが街じゅうを照らすなか、見つけた人影に体が浮き上がる心地を味わった。愛おしさに苦しくなって、かける言葉を見失う。なにげない日常の美しさが目の前に広がっている。
ああ、今すぐあのからだの中へ飛び込んで、倒れてしまいたい。
重たい疲弊が体中を苛んでいたのが嘘のように軽くなって、アキは次の一歩をかろやかに踏み出した。
刹那。
センターラインを越えて回転しながら歩道に突っ込んだ大型車のボディが、コンクリートを削ってガードレールを破壊して、文字通り羽のように軽々アキの体を引きずった。
事故だ、と誰かの声が耳をつんざいた。悲鳴と怒号とサイレンが美しかった夕暮れの街じゅうを汚していく。
赤に染まった全身から急速に命が目減りしていくのが、横たわるアキにも分かった。
穴という穴から血が噴き出している。
「アキ!」
泣き声が叫んで、アキの名を呼んだ。
わめき散らす青年の体を、たくさんの大人が抑えつけている。激しく炎が上がっているのか、赤い火の粉が雪のように降っている。
新雪と、泣き顔がフラッシュバックする。
いやだ。いやだ。戻れ。戻ってこい、アキ。お願いだから。もどれもどれ、戻れよ、アキ。
はやかわあき。
アキはゆるく瞼をあけた。
懐かしくて泣きそうになる。おまえの泣き顔、久しぶりに見た。
そんな風におまえが何度も呼ぶから、いつも夢の果てまできて思い出してしまう。
体のうちから目を覚ました「早川アキ」が、いつものようにかすかな声で呟いた。
「──また、な。デンジ」
そうしてふたつ口にしたきり、世界はぼやけて蕩けていく。
どれだけ泣き声が響いても、どれだけ涙が誰かを沈めても、どれだけ星が巡っても奇跡は二度と起こらない。
たった数秒だけの「デンジ」との再会に、後悔だけがまとわりつく。
降り積もる綿雪が掌ではかなく溶けていくように、形になった途端に夢がぽろぽろ零れ落ちる。
もうそろそろ終わりにしようか。まだ足掻きたいのか。あたまの中で幾つもの声が輪唱する。
待つのはやめてくれ、と言えば良かった。次はもう少し頑丈に生まれてくる、とでも言えば良かったか。
そんな呪縛の言葉を吐き出したら最後、千年だってあいつは待っている気がして、アキは仰向けのまま静かに目を閉じた。
アキの夢はいつも短い。
次にデンジと出会ったときは、兄弟だった。喧嘩しながらやんちゃに育ち、アキは血の繋がった兄として、家族の愛をはぐくむ幸せを満喫した。十五で死んだので、デンジが中学の制服を着るのが見れなかったのが、心残りだった。
その次は、教師と教え子で、それから次は、隣家に越してきた幼い子どもだった。
巡り、巡り、途方もない海原をこぎつづける。種を残さないから、花が芽吹かず、はじめからやり直す。もしも子ができて終わるなら、いっそ次は女に生まれたい。
「……アキ、子ども、欲しいの」
甘えた声が囁いてくる。
腹を撫でていた手を取られ、指の股を舐められる。
びっしょりと濡らされた後ろにもう一度と熱をあてられて、快楽の衝撃にアキの涙腺は崩壊した。
「も、ぉ、ひッ……あ、あ、ア、んん!」
わずかな性感帯の疼きも、愛されてぐずぐずになった体には、強烈な快感になる。
ほしい。ほしい。ほしい。果てたい。終わりたい。さよならが欲しい。
「っアキ、あき……っ、きつぃ、ってえ」
両腕で背中を抱いて、両脚で腰を引き寄せて、深く奥までねだってアキは果てた。
きっともうすぐこの体ともお別れだった。
おれは、またデンジをこっぴどく泣かすのだろう。
出会えた幸福と共に目覚める絶望を背負って、デンジと手を繋ぐ。
いつだって祈らずにはいられない。少しでも、一秒でも、日々があの頃のように穏やかで長く続くものでありますように。
真昼の太陽がじりじりと焦げ付かせた砂浜を、夕暮れになってようやく裸足で歩く。
前を行くデンジの背中は、シャツをはためかせて健康的に日焼けしている。
春に高校を卒業して、もう十分育ったと思っていたのに、まだでかくなる余地があるのか。
「うお! 波ィ!」
はしゃぐ声を吸い上げる空に、茜色の光と煌めく雲が広がっている。
「デンジ、」
「……──シけたツラしてっと、水かけんぞ!」
爪先で盛大に飛沫をあげて、思いきり押し倒されて、アキは水際に尻もちをついた。
びっくりして、盛大に濡らした下肢の冷たさを感じる前に、肩を掴んだデンジの舌に唇を舐められて、口の中を好き勝手に弄り回される。
二人を無視するように、波は繰り返し打ち寄せて、容赦なく体を濡らす。
そのうち、ひどく可笑しくなって、もう笑うしかなかった。
「な〜に、急に笑ってんだよ」
「いや、……ばかだな、と思って」
「俺んことぉ?」
ちがうよ。二人とも。懲りずに飽きずに、ぐるぐる回って。
ああ。そうだった。デンジ、おまえの心臓、『廻って断つ』悪魔だったもんな。
「あー、盆休み、旅行とか行きてえな〰…北海道とか、すずしートコ」
「……パンフ貰って帰るか。あと、北海道は却下」
「なんでぇ!」
──季節を渡る鳥のように、ひたむきに生きていく。
ここが夢の果てならいいと思いながら、アキはいつも見る夢をぼんやり思い出す。
血みどろになりながら時代錯誤の刀を振り回している、自分と同じ顔をした男が出てくる夢。
あれが終わりでも、あれが始まりでもいいんだ。
俺もデンジも、先のことは知らないままで。
今この瞬間を、二人で生きているだけで。