You know, you love me.

 些細なことで意見が食い違うのは、仕方のないことだった。
 全てを許しあえるほど二人は成熟していなかったし、また、そこまで無垢な子供でもなかったから。
 ただ、それが激しい口論にまで発展することは、最近めっきり少なくなっていた。
 互いの妥協点を探り合い、譲歩し合うことがいつの間にか身に付いていた。
 同じ一つ屋根の下で、共に眠り、共に食事を取り、時にそっと触れ合うことで、二人は他人を許容することの心地良さを一つずつ積み重ねてきたはずだった。
 それなのに、こんな骨まで沁みる雨の日に限ってとめどなく言い争いをしてしまうのは――同じだけ小さな甘えもまた、互いに積み重ね合ってきたせいだった。
 出ていけ、とは言われなかったし、出ていく、とも返さなかった。
 でも、縫い針のような細雨がアスファルトの窪みに水溜りをつくる夕暮れ時、デンジは売り言葉を全部買い終わってもなお冷めない熱を持て余しきれずに、ついに玄関を飛び出した。
 アキの声は、デンジが階段を降りきる最後まで、何一つ追いかけては来なかった。


***


 ポチタが傍にいた頃、雨の日はしめった相棒の体を抱いて、ボロ小屋の隅っこで丸くなって寒さをしのぐのに必死だった。
 背丈に合わぬ大人ものの破れたコートは、幼いデンジの体をすっぽりと隠してくれた。おかげで震えて丸まる惨めさを見咎められることもなかった。
 この小屋には誰も近寄らないことを知っていたからこそ、安心して縮こまることができた。
 雨漏りのする天井壁や、床に打ち付けられた釘と板の間に挟まれたネズミの死体をぼんやり見つめながら、デンジは時折思い出したように息をした。
 冷え切った空気を喉に入れるのも辛かった。それでも呼吸を止めなかったのはただ一つ。
 生きていたからだ。生きているかぎり、生きるしかなかった。
 素足をこすり合わせて皮膚に熱を取り戻そうと躍起になりながら、いつか夢に見た暖炉の前で丸くなってうたた寝する幸福を思い浮かべた。
 いい夢だろ、ポチタ。今日はあったかい夢ェ見ようぜ。
 床にはさ、やっぱりフワフワの絨毯が敷いてあると良いよな。ちょっと触るとほら、柔らかくてあったけーんだ。俺、きっとすぐ眠くなっちまう。
 ぐつぐつ鍋ん中でスープが煮えてて、ニンジンとか、ジャガイモがごろごろ入ったやつ。食ってみてえよな。肉も食いたいけど……チーズもあったらすっげえ幸せになれると思うんだけど――
 ポチタ、おまえも腹ァ減ったよな……俺もすげぇ腹、減っちまった。



 ぐぅ、と腹が鳴って、デンジは俯いたまま臍の上に右手をおいた。
 公園の真ん中にぽつんと立っている街灯は、悪い夢の余韻を引きずっているように、なかなか近づいてきてはくれなかった。
 雨音だけがどんどん大きくなって、朽ち葉の絨毯からぬかるんだ土の匂いを立ちのぼらせた。
 デンジの両肩はぐっしょりと濡れ、そこに雨水以上の重みがのしかかってきて、彼の歩みをすっかり鈍間なものに変えさせてしまっていた。
 引きずるように歩いた。
 右の踵がずっと痛くて、そのうちに擦りむいているのかもしれないと思った。
 目の端が熱い。鼻の奥も熱くて、次第に頭の芯まで痺れてきそうだった。
 ポケットにねじ込んであった硬貨を掌に握りこんでも、ちっとも温まりもしない小さな金属では、この寒さをしのぐことなどできないと分かっていた。
 あの頃、たった一枚だって嬉しかった金の価値より、今はもっともっと欲しいものがあった。形のない、それでいて鮮烈な温度を秘めたもの。
 ひとと生きる、他愛もない日常の味。

 鼻をすすって奥歯を噛みしめながら、デンジはとうとう耐えきれず、錆びた滑り台の階段下に身を滑り込ませた。
 金属板の合わせ目から吹き込む雨が、在りし日の隙間風と嵐を思い出させて、また波が打ち寄せるように寒さがこたえた。
 ツンとする鼻腔を冷えた指でおさえて、瞼にぎゅうっと力を入れる。そうして視界を狭めたせいで、デンジはけぶる雨の向こうから走ってくる一つの影に気が付いた。
 気が付いてしまった。

 ぽたり、と前髪からぬれた滴がつたいおちて、体の中からは出てこない水の代わりにデンジの頬を濡らした。
 唐突に可笑しくなって、くちびるが震えた。あんな風にでかい図体がびしょ濡れになっていると、随分間抜けに見えるもんだなと思った。力を失ったみたいに結んだ髪が濡れて、へこたれた犬のしっぽみたいで、さらに笑えた。
 アキは街灯の光の輪の中に照らされ、再び闇の中に濡れそぼり、最後まで真っ直ぐデンジの目の前まで駆けてきた。
 息が白く散って、アキの上下する肩に合わせて消えた。

「雨が降るって言っただろ」
「そ〜だったっけ」
「だから洗濯物は先に取り込んでおけって言ったんだよ」
「そういやァ、そうだった」

 それが始めのきっかけだった。
 手触りの良い絨毯が気持ち良くて暖かくてゴロゴロ転がって、買い物から帰ってきたアキと些細な言い合いになった。くだらないこと。
 でも、なんだか引っ込みがつかなくなって、勢いあまって家を飛び出した。
 アキの声は追いかけてこなかったが、アキはちゃんと追いかけてきた。こんな幸福を知ってしまった以上、デンジはもうお手上げだった。


 起伏の少ない口調に似つかわしい読めない表情を浮かべたまま、アキは「夕飯が冷める」とだけ呟いた。

「夕飯、何」
「シチュー」
「ニンジンとジャガイモが入ってるやつ?」
「――ニンジンとジャガイモと玉ねぎと鶏肉が入ってるやつ」

 デンジは立ち上がって膝を払うと、もう踵を返して歩き出していたアキの隣に追いついて、左肩をこつんとぶつけた。
 窘めるような目でアキがちらっとデンジを振り返る。取り繕ったすかした顔がおかしくて、堪らなかった。
 濡れ鼠になったアキの手に握られている、行儀よく留められたままの傘を見つめながら、デンジは喉を鳴らして笑った。

「何笑ってんだ」
「早パイはよォ、そん傘、何のために持ってきてんの」
「―――」

 絶句したアキが、視線を明後日の方角に逸らす。雨のけぶる景色の中では、その表情は霧にうまく隠れてよく見えはしなかった。
 でも、純粋な戸惑いと気まずさとほんの少しの羞恥が混じり合って、きっと薄闇に透けるような頰を染めているに違いなかった。
 アキの甘さが伝染したみたいに、デンジの舌の先にも甘みがじんわりと滲んだ。
 かじかんでいた指先にも、生き返るような熱がともるのを感じた。生きている、感じがした。

 アキが、右手に握りしめていた傘を仏頂面で見下ろして、小さい舌打ちと共に広げようとしたので、デンジは手を伸ばして奪い取ったそれを二人の頭上に広げてやった。
 冷たい肩を寄せ合うと、冷たさではない震えが体の芯を走り抜けた。

「帰ったら、先に風呂入れよ」
「んじゃ、一緒に入ろうぜ」

 茶化して言ったはずのデンジの台詞に、一拍の間をおいてアキが返した声は、雨の音にかき消されそうなほど小さかった。

 玄関のドアを閉じたらキスをしてみようと思いながら、デンジは傘の柄を握りしめた。

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