それに俺が死んだら、俺が女の子とエッチできねえじゃん。
そんなんぜってえヤダ。
――そもそも不死身ん俺ができる自殺方法があんならよォ、教えて欲しいよな。
デンジが胡座に頬杖をついてつらつらそう言うと、若い男は困ったように眉を下げながら、ペンのキャップ先で顎を何度もかいた。
糊の効いた白衣の胸元には、青い平紐の名札がぶら下がっていたが、デンジには漢字が難しくて読めなかった。
野郎の名前にはそもそも興味がないので、別に問題はない。
彼はデンジの主治医、らしい。
医者の世話になるほど何処が悪いということもないのに、デンジはもう随分長いことこの太い鉄のベッドから降りることを許されていなかった。
トイレに行くのも飯を食うのも監視されている。
アパートにいた頃からどうやら変態共に見られていたらしいが、人の生活を娯楽ショーにするヤツは相応の金を払えよな、とデンジは思ったものだった。うちはタダ見のストリップ劇場じゃねえんだよ。
当然、同じ屋根の家に住んでいるナユタのことも監視の目には映っていたはずだ。
どちらかというと、デンジはその限りなく事実に近い想像をした時の方が落ち込んだ。ナユタは女の子だから。
「では食事をきちんと取らないのはなぜですか」
手元のカルテをめくりながら、医者はデンジに問いかけた。独り言のような静かな声だった。威圧的でも下品でもなく、酒焼けもしていない男の声。
デンジの糞人生において、こういう真っ当な大人が本当に存在するのだと実感できたのは、つい最近のことだった。デンジと犬が違う生き物だと認知してくれる希少種だ。
医者はおそらくデンジと並んだら頭ひとつ分以上は背が高く、シャツは首元まできっちり釦を留めていて、いつも折れそうなほど細い黒縁の眼鏡をかけていた。
医者というよりも、どこかの社長がお抱えにしている秘書や、生真面目さが売りの新米弁護士かなにかのようだった。
「別に食っても食わなくても意味ねえだろ、どうせ腹ァ切られんだからさあ」
デンジは欠伸混じりにそう言った。厭味でも何でもない。デンジはそれを知っていたし、自分の体が丸太大根のように輪切りにされることを気にかけても居なかった。
事実としてデンジの食欲は確かに減っていたが、それは出される料理がことごとくクソ不味い上、小猫の餌に犬の残飯を混ぜたようなゲロじみた液状レーションしか与えられないからである。
腹切ったときに中身が残ってると汚くて面倒くせえんだろうけどさァ、だったらせめて俺が食ったもん消化するぐらいは大人しく寝かせとけば良いんじゃねえの。糞して出てくるまで待てねえのかよ。
デンジはそんなようなことをもう少し下品な感じで、つまり「早漏野郎」ぐらいの悪態はつきながら、目の前の男にぐちぐちと言った。
「食欲が出るように、運動プログラムも用意されていますよ。簡単なものからやってみませんか」
「うんどぉ〜?」
デンジは手足に巻き付いた重たい鎖をブラブラ揺らして、鼻を鳴らした。
こんな格好で何をどう運動しろと言うのだろうか。足だってすっかり鈍って、走り出したらダセェ転び方するのは目に見えている。
それに目が覚めると、目が覚めたのに何だか何も動く気になれなくて、ひたすら白い天井のファンが回るのをボォっと眺めている時間が増えたのだ。
贅沢なことに、ここにはベッドがあって、隙間風も吹き込んでこない。どころか虫一匹入れないほど堅牢な部屋だ。
つまんねえベンキョーもかったるい仕事もしなくていい。誰かのメシを作らなくても、自分の食い扶持を稼がなくても、借金取りにケツを追い立てられなくても、生きてる。
生き続けている。永遠に、生きている。
「大丈夫ですか? 聞こえていますか?」
「………」
なァんにもしてねえな。することがねえんだよな。
だってチェンソーマンにはならないって決めてたのに、どうしてもユーワクに勝てなくてなっちまったから。
チェンソーマンになる以外のすべてを、あんとき捨てちまったから。
チェンソーマンじゃない俺、なんにも無いな。振り出しに戻ったんだよな、ポチタ。
シミ一つない明るい部屋の中で、デンジは薄汚いバラック小屋でひとり丸まっていた時と同じように、眠れないのだ。
妙に気が高ぶって悲鳴を上げたくなる。踏み出した足が泥沼につかって、藻掻いたら沈んで、どこにいけばいいのか、だれを呼べばいいのか、伸ばした手が空中を彷徨って。
当たり散らして怒鳴りつけてみても、日がな一日泣き叫んでみても、痛いと騒いでも、息を止めても何もかも吐いても。
喉がつぶれて、目が溶けそうに腫れて、それが全部バラバラになって、あらゆるものは殺菌と消毒でキレイに元通り。
チェンソーマンは悪魔人間だから、人間ではない。
人間は悪魔じゃないけれど、悪魔より怖いことができないわけじゃない。
デンジの特異な体がもたらすデータは、途方もない試行錯誤のために搾取され、こまざかれ、喰われ、生きかえり、人間と悪魔の地獄の橋渡しとしてとこしえに生かされるだろう。
「不安なんですね。大丈夫です、よい薬を出しますから毎日飲めば和らぎます」
「俺がビョーキだって言いてえのか」
「お薬を飲んでみれば分かります」
医者はカルテに何かを書き込んだ。
それから、白衣のポケットに手を入れて小さな薬品瓶を取り出した。チャプチャプと波打っている中身の量を確認して、小さく頷いている。
デンジは本当に自分は病気なのだろうか、とぼんやり思った。
母親が血を吐いて死んだように、もしかしたら病気なのかもしれないな、と思った。
動けないようベッドに繋がれて、クソ不味いゲロ物を口をこじ開けられて流し込まれて、ションベンもオナニーも眺められて、今すぐ何もかもブチ壊して怒りたいと心が騒ぐのに、何かしたら取り返しがつかないと分かってる。
もうどうしようもないんだって。
だって、俺の手を取って教えてくれるやつはさ、どこにもいねえんだよ。
「――そんじゃ、アンタん言うこと聞いておクスリ飲むからさあ」
大人しく手を差し出したデンジに、医者はホッとしたように息を吐いた。
その顔を見上げながら、つらつら先を言う。
「髪、ほどいて、眼鏡はずして。そんで着てるもん全部脱いでくれよ。んで、てめえの名前は今日からア―――」
「デンジ君、」
ドアの前でじっと微動だにせず突っ立っていた吉田が、初めて声を出した。
咎めるような声に、デンジは腹を抱えて笑い転げた。
何べんアタマを切ったって、意味なんてない。こいつらが純粋なチェンソーマンを欲して、俺の人格を全部消そうと躍起になってんのは分かってる。
でもザンネン。焼き付いたあの日々の記憶を消し炭にするほどの劇薬が用意できないなら、てめえらはせいぜい勝手にもがいてろ。
肩まで伸ばした黒髪に、深くて青い二つの瞳。ダークテノールの甘い声。
俺を「デンジ」と呼ぶその仕草。
そんなもんで俺を壊せると思うなよ。
全部、全部、バラバラになってしまえ。