二日ぶりに顔を出した太陽が地上を照らし、路面にいびつな形のまま残っていた水溜まりが、鏡面のように光っていた。黒い革靴を履いた大人たちが、器用にそれらを踏まぬよう避けて行き交っている。
ざわめきは徐々に膨らみ始めていたが、喪服の男女がかわす囁きは群れになるほどむしろ密やかになり、いつまでも形を成さないノイズとなって中空を漂っていた。
デンジは履きなれない黒い革靴の先を、ぐりぐりと砂利に押し付けた。
石礫の擦れ合うかわいた音をすり抜けて、どこかの女の声が真横を通り過ぎていく。
「まだ若かったのにね……」
つられて顔を上げると、軒下に張られた鯨幕がパタパタと冬風にたなびいていた。
こじんまりとした斎場の四方に張られた白黒の縦縞は、故人が常に身に着けていた公安の制服を思い起こさせた。
ポケットに手を突っ込んだまま、デンジは鯨幕をくぐり抜けて、正面に置かれた祭壇を眺めた。
真っ直ぐにこちらを見つめるのは、青い二つの瞳。引き結んだ唇。濡羽色の髪。
早川アキは、遺影の中でも微笑みひとつ浮かべていない。
そういう夢を、見た。
「着いたぞ」
運転席から声をかけられて、デンジは車窓に預けていた頭をぶるりと起こした。んぶぁァ…、と無遠慮な大あくびが出る。
「涎垂らしてねえだろうな」
不審そうに眉を寄せるアキから目を逸らし、ぐいぐいと腕で口元をぬぐって「垂らしてねェ」とうそぶく。
アキが盛大にため息をついた。
「……俺は裏に車を停めてから行く。先に行って待ってろ」
「へえへえ」
「じっとしてろよ」
小言を振り切るように、ばたん、と車のドアを閉める。デンジはそのまま体を反らして伸びをした。
路面は乾いていて、履きなれない窮屈な革靴にはあっという間に土埃がついた。靴もネクタイもひどく鬱陶しいが仕方ない。こういうもの、らしい。
デンジが他人の葬式へ赴くのは、これが三度目だった。
読経の声に幼い女の子のぐずり泣きが混じり始めると、葬儀場は一層濃い悲哀の色で包まれた。
亡くなったのは、ありふれた幸せな家庭を支えていた男性だった。
―――遺体も残らなかったんですってよ……?
―――デビルハンターって、みんなそうなのかしらね……。
参列者の誰かが、そんなふうに眉をひそめて囁きあう声がデンジにも聞こえた。
そりゃあ、まァ、父親がばりばり頭から悪魔にかじられて腰から下になった遺体なんか、家族だって見たくはないだろう。
だから、公安はいつもデビルハンターを「残らなかった」ことにする。
アキが黙って焼香をする隣で、デンジも見様見真似のお祈りごっこをする。
凄惨な現場に居合わせたデンジは、腹まで食われた男の顔を全然覚えていなかったが、アキはどうやら旧知の仲だったらしい。
久しぶりに、アキがあそこまで怒る顔を見た気がした。
「……もうすぐ……辞めると、約束してくれていたのに」
涙をぬぐいながら、死んだ男の若い妻は憔悴した顔でそう嘆いた。
デンジは何も言うことがなかったので黙っていた。
アキは多分何か言いたかったのだろうけれど、結局黙って頭を下げていた。
お別れに花を一輪受け取って、それを空っぽの棺におさめた。
デンジは花に埋もれていく故人の写真を見た。
棺の中の写真は、白い花が場違いなほどうれしそうな顔をしていた。
真夏の照りつける陽光の下、真っ白い歯をむき出して男は笑っている。
死に際に彼が身悶えて叫んでいた、喰われる恐怖も死にゆく悔恨も耐えがたい痛みも、まるで全部無かったかのよう。
怨嗟の声を浴びたまま残しているのは、もうアキとデンジの耳の中だけだった。
「……ゆっくり、休んで下さい」
アキが白木棺のふちを、長い指先でそっと撫でた。
妻の喪服にしがみついて、幼い子がアキをじっと見上げていた。
デンジは急になんだか胸がいっぱいになって、幼子のように自分もアキの喪服の裾を引きたい気持ちを静かに耐えた。
葬儀会場を出ると、潮のつよい匂いが二人の鼻をくすぐった。風向きが変わって、来る時は意識していなかった海の近さを感じ取る。
都会で久しくかいでいない匂いに、ふらりとアキは気が揺らいだらしかった。車を停めたはずの駐車場とは反対側へ歩いていく。
とぼとぼ背中について歩きながら、デンジは古ぼけた海水浴場の看板が曲がり角から顔を出していたことに、初めて気がついた。
アキの黒髪が潮風にくすぐられて、結んだ先っぽがゆらゆら海辺に引き寄せられている。
二人とも、何となく無言だった。
坂道を下って、防砂林の小道を突っ切って、砂浜に出る。
季節外れの海岸は、鴎の影さえ見当たらなかった。
薄ぼんやりとした水平線が冬の空に滲み、朽ちた手持ち花火の塵や粉々になった貝殻がちらちら埋もれた砂には、他に先客の人影もない。
「な〜〜んもねえな」
「海があるだろ」
屁理屈みたいなアキの返答は波音を運ぶ海風に流されて、ざくざくと緩やかな斜面を降りていく音だけが耳に絡みついた。
波打ち際やや手前の砂浜に腰を下ろしたデンジは、だだっ広い世界を眺めまわした。
海の見える街に住んだこともないのに、波の音は不思議と懐かしい気持ちを掻き立てた。
「――寒、……」
ぽつりとアキがこぼした。
「座んねえの?」
「………砂がつく」
傍らに立ったままのアキは、それだけ言うとあとはもう押し黙ってしまった。
海から吹く寒風に白い頬をさらし、アキは耐えるように唇を引き結んでいた。真っ直ぐ前を見る目。
仰ぎ見たアキの表情が、白昼夢で垣間見た遺影のアキとダブついて、デンジは目を逸らした。
葬式の日に限らず、最近アキの葬式の夢を見ることが増えた。
幼い頃には特技だった、見る夢を自在に選べるデンジの魔法も、最近はめっきり効きが悪くなった。
例えば、アキが悪魔に頭から食われていく夢。
例えば、アキが悪魔の爪に腸ごと裂かれる夢。
例えば、アキが悪魔の俺に抱かれて死んだ夢。
死を見慣れたせいかもしれない。
現実味のない夢の中の「死」は水彩画みたいに色彩が淡くて、なんだかアキの死がいっそ美しい映画のエピローグみたいに見える時がある。
たくさんのスタッフが誇らしげに名前を連ねる中に、早川アキが刻まれて、そして画面の端に消えていく。
泣きたくなるほどきれいな夢だ。吉夢といってもいい。
だって、早川アキはデビルハンターだ。それも最前線で死地を駆け巡る公安きっての優秀なデビルハンターだ。
今日見送った男性のように、まるで全部無かったかのように空っぽの棺で、写真一枚残して死んでいくことしか許されないだろう。
きっと遺体は残らない。
姫野のように。空っぽの墓へ埋められた数多の男たちのように。
悪魔が喰らうか、粉々になるか、あるいは―――。
じゃり、と音がして、隣にアキが座ったのが分かった。
いだずらに砂弄りをしていた手をふいに上から握られて、デンジは柄にもなくドキ、とした心を茶化すように目を細めた。
「……なに、さびしくなっちまった?」
「そうかもな」
心底びっくりした顔で、デンジは固まった。
指の股にアキの器用な指先がするりと入り込んでいく。手首の丸い骨の出っ張りを親指の腹で撫でられて、デンジは言葉を探しあぐねた唇から危うくあられもない声を漏らしそうになった。
多分、数秒の触れ合いだった。
温かいアキの手が、すり、と愛撫のやわさで皮膚の上をなぞった。
電流の速度で快感が這い上がって、デンジは初めて産毛の立つ感覚をアキの手の中から知った。
「――…帰ったら、セックスするか」
「ぁえ」
「嫌ならしない」
「し、シまぁす!!超しまぁす!!」
思わず阿呆みたいにでかい声が出た。
アキは夕飯の献立を告げる延長線上の声音で「帰ったらな」と呟くと、やおら立ち上がって尻の砂埃を払った。
離れた体温に追いすがる間もなく、デンジを置いて歩き出してしまう。
照れているわけでも、怒っているわけでもないようだった。強いていうなら。
生きているぬくもりが、多分、アキも、今ひどく欲しいのだ。
途中、アキがほんの一瞬だけ肩越しに振り向いて、視線を寄越した。
冬の海の反射光が、アキの薄い目の中をほの白く照らした。
あんまり美しいので、怖かった。
早くドロドロに汚して汗みずくにして、荘厳なエンドロールなんか到底似つかわしくない顔にしてやりたい気分で、デンジはアキの背中を転がるように追いかけた。