たらふく夕飯を堪能したら、そのままゴロンと仰向けに寝っ転がる。
デンジは怠惰で贅沢な恰好のまま、キッチンに立つアキを逆さまに見上げた。皿洗いをしているアキの周りを、豆粒みたいなシャボン玉が一つ二つ飛んでいる。
シャカシャカとスポンジが動く軽快な音は絶え間ないのに、食器のぶつかる耳障りな甲高い音が殆どしないのは、アキの手が大きくてしっかりしているからだ。
掴んだ皿を器用に回しながらアキは淀みない動作で洗いものを片付けていく。ふわふわとまた一つ泡が虹色の膜になって弾け飛ぶ。羽化したばかりの蝶々を追うように、アキの目がちら、と横に泳いで、薄っすらと口元を緩める。
デンジは暫くの間、穏やかなその光景に見惚れてから、手探りでテレビのリモコンを拾いあげた。
バラエティ番組を消して、腹筋を使って起き上がる。
アキがふと気づいて、デンジを見た。
「なんだ、皿でも拭いてくれんのか」
「んあ〜〜〜……テレビ面白くねえから手伝う」
泡だらけのスポンジを持った手で、アキが蛇口を捻ってお湯を出す。その後ろを通り越してキッチンの奥へ行き、デンジはぶら下がってる食器拭きを手に取った。
ざあざあと湯音が大きくなって、アキが手際よく食器の油汚れを浮かせた泡を流し落とし始めた。今夜はみんな大好きハンバーグだった。
大きい皿、茶わん、汁椀、小鉢、箸。
湯気を立てて洗い終わっていく食器を冷めないうちに拭いて、綺麗に重ねる。
律儀なアキは大きめの食器から順番に洗うから、受け取ったデンジは拭いて重ねていくだけで良い。完璧な食器タワーがあっという間に完成する。
最後にシンク周りの水撥ねも綺麗に拭きあげて、アキが蛇口をキュッとしめた。
「助かった」
手を拭いたタオルを直しながら、アキは抑揚のない声色でぼそっと言った。
相変わらず、アキの「ありがとう」の伝え方は回りくどくて下手クソで、デンジが呆れかえるぐらい、アキはいわゆる愛想なしだった。
別に対人関係スキルが低いわけではないのだ。仕事中なんかびっくりするぐらい綺麗な微笑みを浮かべて、「ありがとうございます」「ご協力感謝いたします」「大変お世話になっております」とスラスラ連呼するのだから、デンジだってアキの外面の良さは十分知っている。むしろちょっと頭下げすぎじゃねえの?とさえ思う。
なのに、俺とパワ子にゃ意地でも言わねえんだよな……。
「ん、じゃあ、お礼〜〜」
デンジは食器拭きを放り出した両手を、アキの腰にするりと回した。
ちょっと身じろぎしたアキの抵抗を無視して、体を寄せる。
風呂から上がったばかりのアキは、石鹸のいい匂いがした。皿洗いをしてまた暑くなったのか、少しだけ汗ばんだ首周りの影がいやらしく目に映る。
デンジが爪先で立つと、ようやくアキの顔が近くなった。動揺すると二回連続でまばたきするアキの癖は、もうバレバレだった。
分かってねえんだろうな。糞可愛い。チンチン勃ちそ〜。なんて、デンジの脳内にはまたたく間にお気楽な花が咲き誇る。
「ばか、やめろ」
「手伝い一回、キス一回の約束だろォ」
「してねえよ、んな約束」
ぎゅっと鼻をつねられて、デンジは不細工に「フガ」と鼻を鳴らした。アキは澄ました綺麗なツラをして、素行の悪いガキ並みに手癖も足癖も悪い。
ま、初対面の糞餓鬼の顔面殴って鳩尾蹴り飛ばしてツバ吐く野郎だからな。んで、今はそいつに尾てい骨んとこ撫でられて、むずむずしちゃってんの。
心の呟きが音になって聞こえたら、それこそ二、三発は強めに殴られるようなことを考えながら、デンジは頬をすり寄せて露骨に甘える仕草で詰め寄った。
最近薄っすら気付いたが、アキは愛想もないし感謝も口にしないけれど、甘えられることに多分、すごく甘い。
「チュー、昨日も今日も一度もしてねえじゃん」
びくっと身じろいだアキが、少しトーンを落とした声でささやいた。
「……場所、弁えろって言っただろ」
「ココ、家」
「パワーが風呂から」
「まだ出てこねえって」
どんだけなげえキスしたいんだよって言ってやりたかったけれど、それを言ったら本当にお終いになる。さじ加減が重要なのだ。
「アキ、はやくゥ」
餌を待っているヒナが隣の兄弟より目立とうと大口を開けるみたいに、無防備な唇を突き出して催促する。
アキの青い目が泳いで、困ったように眉毛が下がった。頬が何か言うことを探してふくふく動いている。
ちらりと視線が逸らされた瞬間、我慢できずにデンジは半開きのそこへ噛みついた。
「んぅ……ん――」
フニッと柔らかく合わさった乾き気味の唇が、湿っぽい息でじわりと濡れそぼる。吸ったり噛んだりしてるうちに、剥き出した内臓と同じピンク色の内側が腫れぼったく感じてきて、いやらしくて気持ちいい。
息継ぎが上達しないデンジを、いつの間にかアキがうまいこと誘導してくれるのも堪らなかった。ためらった素振りをしたくせに、舌先をちょっと突きだすとちゃんと唾液たっぷりの口内に迎えられる。
薄くデンジが目を開けると、アキはもうすっかり観念したのか瞼を閉じたまま、背中を冷蔵庫にあずけて力を抜いていた。
「んん、ん……っ……ふ、」
ちゅぴ、と小さな水音が息の合間に挟み込まれる。風呂上がりで下ろした黒髪と耳たぶの間にデンジが人差し指を挿し込んで梳くと、引き寄せられたアキの頭が揺らいで、背にあたたかな腕が回された。ぎゅっと抱き締められて、切ないほど鼓動が早くなって、デンジはたまらず片方の手を捲りあげたアキのシャツの中に潜り込ませた。
臍の横から脇まで、指の腹でなぞる。つぅと上へ一筆書きすると、アキは耳たぶも赤くしたまま、「んぅ」と気がヘンになりそうな声を出した。
「っ……ハ、ぁ、…っ、」
アキ、と名前を紡ぐことさえ、息苦しい。
下半身がもったりと重くなって、いよいよ目眩がしそうになる。
デンジは鮮明さを増していくアキの裸体を無意識に脳裏でなぞった。
傷跡の影さえコントラストになった美しい肌と、その下で熱を帯びる、たしかな肉の手触り。
その最たる奥に隠されたドロップみたいに甘くてとろける魅惑の秘密。
敏感で、すぐにドロドロに崩れて、そのくせ纏わりついて雄を惹きこむ潤みのなか。一生懸命、おさえこんでも裏返るアキの知らない声……。
「―――……っ、はあああ〜〜〜〜…! セックスしたいぃぃ〜…っ!!」
「ば、ばか、声がでかい……ッ!」
身悶えたデンジの呻き声に、アキの体が大きく跳ねあがって、その拍子に唇が離れた。
唾液の糸が互いの口元を繋いで、ふつりと切れる。ぐい、と手の甲でそれを拭って、アキは無理やりな顰め面を作ってデンジを睨んだ。
「っ、おまえ、ほんとに……っ、ぁぐっ」
「ほらァ〜、アキだってスゲェ硬くなってんの分かるうぅええッ、イッタアアアァア!?」
無遠慮に下半身を弄られて羞恥と怒りに昂ぶったアキの両拳が、デンジの脳みそをトマトかリンゴの如く潰そうと、こめかみグリグリの刑を見舞ってくる。
「アギャギギ、イ……」
あえなく撃沈したデンジは両手を挙げて降参の意思表示をした。今の今まで漂っていた甘い空気は泡になって消え去り、手を放したアキが何事も無かったかのようにさっさと冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出すのが、なんだか恨めしいくらいになる。
冷気が頬を撫でたってデンジの気持ちはすぐには収まらないのに、こういう時のアキは狡い逃げ方を躊躇いなく取るのが常套手段だった。
むず痒い犬歯をもて余してるのは一人きりのようで、デンジが拗ねた口調になったのは致し方なかった。
「なァ〜」
「なんだ」
「……俺と、エッチすんの……嫌、なの」
手の中でビールを弄ぶ指先を見つめて、アキは言葉を探しあぐねたまま、結局もう一度缶を冷蔵庫に戻した。
向き直ったアキの瞳の潤みは、重い唇よりずっとお喋りで、デンジはアキが次に何を言ってくれるか、もうとっくに知っている。
「嫌じゃ……ない」
――でも。
アキは一呼吸を飲みこんで、そこから先を誤魔化すように小さく咳払いをした。
「思いつき、みたいに、その、するもんでもないだろ」
「準備万端にしてヤりてえってこと?」
「……っ、そうは言ってねえ!」
アキは語気を荒げてデンジの言葉を遮った。耳朶が、まるで口をつけなかったビールの酔いが今急に回ったように赤い。
デンジは裸足の爪先をじり、とむず痒く動かした。
セックスしたい、の台詞の頭に、「アキと」の言葉が必須であることを、デンジは薄々気付き始めている。
興味本位で覗き見したあの夜から、アキの秘密の虜になって、溶けそうなほど気持ちいいコトを覚えて、最初は単純に、ソレがまた「したい」が一番で全部だった。
それが、少しずつ、少しずつ、変わっている。マキマは「相手を知るほどにエッチなことは気持ちよくなる」と教えてくれたけれど、「エッチなことをするほどに相手を知りたくなる」ことを、デンジは初めて思い知ったのだ。
知りたい。もっと、知りたい。全部知って、今よりもっと。アキと――。
黙り込んだ二人の足元を縫うように、ニャーコがすり、と体を寄せてくる。
と、同時に、リビングで突然けたたましく電話が鳴り響いた。
「………なんだ?」
思わず丸くした目を見合わせる。こんな時間に電話がくる時は、大体がろくな案件ではない。
少しばかり乱れていた裾を慌てて戻しながら、アキは鳴り続ける受話器を取り上げ、自らの名前を声に出した。
「はい。早川です。―――あ、ええ、はい。大丈夫です」
居住まいをただしたアキが、よそゆきの声音で応対している。やはり仕事の話に違いなかった。
あっという間にキッチンに一人取り残されたデンジは、両手の行き場をなくして足首に擦り寄っているニャーコを抱き上げた。
にゃ〜ん、と呑気に鳴く猫のピンク色の鼻を眺めながら、深くため息をつく。
あーあ。セックスしてェなぁ……。
恨めしくカレンダーを見つめたデンジは、この後さらにしばらくお預けが続くなんて意地悪な未来を、知る由もなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、哨戒任務の前に執務室へ顔を出すよう申し渡されていたアキは、少しばかり緊張した面持ちでエレベーターの階数表示板を見上げた。
十階より上は、一般職員の立ち入りが原則禁止されているフロアになっている。無言で高階層のボタンを押したアキを、同乗した数人の同僚が憐れむような目でちらりと見る。少々居心地悪く、それでも久しぶりにマキマの顔が見れると思うと、胸が高鳴るのもまた事実だった。
直属の部下とはいえ、多忙なマキマが本部でアキと顔を合わせることは実のところ、それほど多くはない。他に至っては、数年勤務しても未だに「本物は見たことがない」という人間の方が多いぐらいだ。デンジは呼び出されたのがアキだけだと知って、朝からズルい横暴だと騒ぎ立てて、大変だった。パワーは大層嬉しそうだったが。
七階を最後にアキ一人が残って、エレベーターは再び上昇する。緩んでもいないネクタイの結び目を指で直して、アキは軽く息を吐いた。緊張と、高揚で、落ち着かなくなる。
たとえ面倒な厄介事であっても、マキマの魅惑的な瞳と声には不思議な力があって、その命令に否やはない。
彼女の薔薇色より淡い微笑みは、やわらかな鎖になってアキの思考を溶かし、行くべき場所へと己を導いてくれる。
死の味を啜って生きながら浮遊するアキに、銃の悪魔討伐という聖なる楔を打ち込んでくれた――マキマは、恩人だ。
「よく来てくれたね、早川君。朝からごめんね」
扉を開けると、執務室のデスクに聖母のような後光をまとったマキマが、アキの到着をにこやかに待っていた。
日常空間とは隔絶された圧倒的な静けさが、ただ一人向かい合うアキの気持ちを引き締める。
マキマの机上は彼女の人柄を反映するかのように、いつも整然としているが、今朝はいささか様相が異なっていた。
机上の半分を埋め尽くす分厚い資料が山積した一番上には、禍々しい黒色の古書が置かれている。加えて、彼女のたおやかな手元には数枚の紙が見えたが、極秘の印が押されたそれはすぐにくるりと裏返しになってしまった。
「おはようございます。早急に取り掛かるべき案件とうかがい参りました」
アキの目礼にマキマは鷹揚に頷いて、積まれたファイルの中から青い表紙の一つをアキへと差し出した。整理番号と赤いラベルのみ貼られたそれを、アキは促されるままに開いた。
「――五年前に、都内を中心に関東広域の連続殺人事件が発生したことがあってね。被害者はいずれも二十代から三十代の女性。それも、妊娠している女性ばかりが狙われた」
マキマの玲瓏な声が、資料の内容を読みほどく。おびただしい被害者の顔写真や経歴にざっと目を通しながら、アキは頷いた。
通り魔的な事件だった。が、完全に無差別ともいえない事件だった。
はじめは産婦人科への通院途中に突然妊婦が狙われる事件が立て続いたが、そのうち通勤帰りや休日の公園など無関係の場所で女性が被害にあい、その後に搬送された病院で初めて被害者の妊娠が発覚する異様な事件に発展し、世間の耳目を集めた。
当時、まだ正式にデビルハンターとして勤務していなかったアキも、ニュース越しにこの胸糞悪い事件を見聞きした覚えがある。
一部では、妊婦のにおいを嗅ぎつける悪魔の仕業ではないかと騒ぎ立てる者もあったが、大半の人間は「悪魔は無差別に人を襲う野蛮極まりないもの」と信じて疑わない。凄惨な事件は結局、犯人逮捕には至らず、次第に人々の記憶からは薄れていった。……はずだ。
「……何か進展があったんですか」
「進展と言って良いのかはまだ分からない。でもね、実はあの事件には公にはされていない事実があるんだ」
「公にされていない?」
「当時の被害者の内、一人だけ助かった方がいる」
「!?」
息を飲むアキの目を、マキマは不可思議に光る金の双眸で見返した。
「ただ発見当時は生死をさまよう状態でね、一命は取り留めたもののずっと昏睡状態が続いていたの。回復の見込みは絶望視されていた。……それが先月、奇跡的に目を覚ました」
耳にすべりこむ彼女の言葉は、まるで中空から聞こえた幻聴のように現実感がうすい。
アキはまばたきを忘れ、マキマを見つめた。
「警察は、主治医の許可を得て早々に、彼女の事情聴取をおこなった。結果、彼女の口から新たな証言が二点得られました。一つは、犯人は間違いなく『人間の男』。日本語を話す、日本人男性である、ということ」
やはり人間の仕業だったか、という一瞬の奇妙な安堵のような感情と、どうしようもない不快感がアキの胸に渦を巻いた。
が、続けてもたらされた情報に、その感情さえ一気に霧散する。
「もう一つは、犯人が蛮行の目的を『ある悪魔の復活のために母体を収集している』と明言したこと」
「っ、悪魔崇拝者だった、ってことですか? 犯人は」
アキは目をむいた。不快感を通り越して、おぞましさに反吐が出る。
「そういうことになるだろうね。――……調べたところ、過去にも人間の母体だけを好んで蒐集する悪魔が記録されている。悪魔はもともと女性や子供をより狙う傾向にあるけれど、一つの対象に執着するものはそう多くないことは、早川君も知っているでしょう」
言いながら、マキマは机上で一番高い位置になっていた黒い古書を手に取り、例えば、と前置きしながら表紙をめくって見せた。年季の入った洋紙から、こもった湿気と黴臭さが、アキの鼻先にまで漂ってくる。
「これは二百年以上前、ペルシャ高原の南東の街に侵入した悪魔」
「………」
滲んだインクが綴る右から左へ進む異国の文字を読み解くことはできないが、添えられた悪魔の図解には自然と視線が吸い寄せられて、アキはじっとそれを見つめた。
ちぐはぐな悪魔であった。羽はコウモリに似た形をしているが、角は四足動物のそれに似ている。腹の真ん中に深淵の黒々とした空洞があって、人間のように手足は一対ずつ、ご丁寧に貫頭衣のようなものを身に着けている。顔は獣を模した醜悪な見目であり、特に瞳孔が水平に長いので直視していると背筋がぞわりとした。
足元には貴金属と思しき財宝の山と、腹のふくらんだ女のシルエットが踏みつぶされている。
「当時の記録によると、この街を隠れ蓑にしていた錬金術師によって招かれた悪魔は、妊娠した女性だけを攫い、母体を食い荒らしていたみたい。悪魔のもたらす巨万の富によって主の館は膨れ上がり、たくさんの女性たちがメイドとして雇われていたんだけど、彼女たちは一人も故郷に戻ってこなかった、と書いてある」
「錬金術、ということは、金…? 鉱物? の悪魔、ですか」
ぱた、と古書を閉じて、マキマは執務室のデスクに両肘をついた。背中に大きく切り取られた窓ガラスの向こうを、ふいに大きな雲が横切って、室内を薄墨色に陰らせる。
知らず、アキは口を噤んでいた。指先に力が入ったことを自覚する。
隠微な色気をかくした唇をそっと開きながら、マキマは下からゆっくりとアキを覗きこんだ。
「ううん。早川君、この悪魔は……―――」