腐朽の手順

「お待たせしました」
 
 マッチの燃え滓が、灰皿の上にぽとりと落ちた。
 煙草と瘴気で淀んでいた男の鼻に、わずかな一瞬だけ清涼な風が通り抜ける。
 冬のさびしさを含んだ潮騒のうすいにおい。都会の饐えた裏通りに、海の気配は珍しい。
 カウンター席から少し離れた奥のソファ席で、夜の退廃にくつろいでいた男は、ふと顔をあげて口端を吊り上げた。
「………君か」
 男が向かいの席を示してやると、青年は慣れた手つきで上着とマフラーをほどいて腰を下ろした。チャコールグレーの外套の下から、黒一色で包まれた体があらわれる。
 上背ばかりは立派なものだが、青年が何気なくテーブルについた指のなめらかさには、未だ伸びしろを残した少年の匂いが薄っすらと漂っていた。
「遅くなって申し訳ありません。少し道に迷いまして」
 会釈の動作にかるく動いた黒髪の奥から、深淵のような両瞳がのぞく。
 男は鷹揚に手を振り、形ばかりの軽い謝罪をあしらった。
「何か飲むかね」
「え?」
「奢ってやろう。大したものはないがな」
 男の前に置かれたグラスは、すでに薄い色をしている。場末のバーには小洒落たピアノもなく、ジャズの響きは古びたラヂオから流れてきていた。
 人々の声はざわめきの中で渦のように曖昧に溶け、誰も隣の席の会話になど耳を傾けていない。
「いえ、ぼくは……まだ、飲めませんので」
 不意打ちのように、青年は純朴な反応をする。ゆるんだ唇に、埃を被ったランプの琥珀光がはねている。内臓の湿り気を思わせる薄いその紅色をながめて、男は目を細めた。
「時間も惜しいですから」
 つつ、と濡れたグラスを押しやった指先が、あからさまな誘因の色を放っている。暗がりから手招きする生き物の脚のような餌に、男は喜んでくらいつくことにした。
「では、行こうか」
 重々しく立ち上がると、オーダーメイドのスーツが滑らかな衣擦れの音を微かに響かせた。翠の石を嵌め込んだカフスを整え、男は至極当然のように青年の腰を引寄せた。
 一晩かけてこの若い腰をぎしぎしと軋むほどに押し開き、あまくるしい囀りで啼かせ、したたる其処此処に自らをくわえ込ませることを思うと、安酒で沈殿していた脳もあつく爛れるようだった。
 賭博、闇金、薬物、売春。下衆な手口で夜を穢すもの相手に、小銭稼ぎをしているといったか――アコギな情報屋の端くれなどに置いておくのは、いかにも勿体ない。
 こちらの嗜好を知って寄越したのだろうが、成程、たしかに知り尽くされている。
 この黒く染めがいのない瞳、すみずみまで暴けばどんな味に仕上がるか―――。

「どうかされましたか?」
「……いや、何でもない」

 一度、思考の渦に止まりかけていた足が再び動き出す。
 硝子窓にうつる外は、雲もひいて星がきらめき、濃紫のビロードを広げたような色合いをしていた。情欲に濁った目を何気なくその窓に反射させ、男は我ながら悪魔じみた顔をしているものだと自嘲した。
 悪魔。そういえば。

『悪魔を飼っているやつがいる――だからほら、あいつも噛み殺されて、食いちぎられて……』

 いつか誰かが噂していた凄惨な死体の話を、男は思い出しかけていた。
 だが、ホテルのエレベーターが到着を知らせる音に、全ての意識は霧散していた。

 夜は長い。


***


 品のないサテン光沢のベッドシーツを足に絡ませ、寝台の海を一人で泳ぐ。
 スーツの上着、ネクタイピン、腕時計、キーケース。思うままに手繰り寄せては矯めつ眇めつ、確認してから放り出す。
 寝台の上は見る見るうちに男の持ち物であふれ、その真ん中で吉田は一人、今は機密書類の詰まったアタッシュケースを広げていた。
 持ち主の男は薄汚れた足元の床に転がっている。ぴくりとも動かず、うつぶせた体勢で気絶していた。
 吉田はそれには目もくれず、膨大な紙束を高速でめくり、常人離れした動体視力でもって必要事項の記録されたページを抜き出す作業に没頭し始めた。
 ──ぱらぱら、はらはら、ぱらぱらぱら。
 紙束が見る間に雪のように積み上がっていく。鼻歌まじりに作業すること数分。歌は次第にひそやかに消えてゆき、代わりに大きな溜息が一つ漏れたところで、吉田は手にしていた書類をすべてベッドの上へと投げ捨てた。
 スプリングの反動で立ち上がると、そのまま素足でベッドを抜け出し、客室備え付けの電話に手を伸ばす。
 0番で外線に繋いでから、そらんじる程に馴染んだ番号を押していく。律儀に三回待ったコール音の後に、相手の吐息が耳をさわった気がした。
『どうだった、』
「―――期待外れでした」
 肩透かしを食らって、多少ふてくされた物言いになったのは仕方ないだろう。
 受話器の向こうで岸辺が薄っすら笑っているのが聞こえて、吉田は露骨なため息をついた。
「なに笑ってんですか」
『だから言っただろうが。おまえは探りが雑過ぎる』
「でも、こいつだと思ったんだけどな……」
『カンに頼るな。もっと自分の脳筋具合を理解しろ』
「うるさいですよ。脳筋はアンタでしょうが」
 受話器からのびるコードをいたずらに指で引っ張り、文句を返す。
 岸辺は悪魔も恐れる公安のデビルハンターだ。見目はいかにも悪魔専門のイカレた殺し屋だが、情報提供者である「エス」を放って監視している対象はれっきとした人間である。
 例えば今、床に転がっている男……表向きはいかにも紳士然とした骨董ギャラリーのオーナーを騙り、裏では闇市で荒稼ぎする香具師紛いの顔を持っている……腐った連中の動きを探るのも、岸辺の仕事の一つであった。
 悪魔は人類の敵だが、同時に高価な密輸品にもなり、稀覯な鑑賞品にもなりえる代物だ。その危険性から表向きは厳しく取り締まられているが、闇の人間が横行しやすい異国街の一角では今でも密輸業者の隠れ店舗が後を絶たない。
 吉田が直々のスカウトを受けて「エス」になったのは、そんな裏通りの一角で岸辺と出会った半年前だった。
 以来、デカくてアル中で胡散臭くて馬鹿みたいに強くておっかない岸辺という男は、吉田にとっての上司というよりは、飼い主に近い。

 もう切るぞ、と宣告されて、吉田は慌てて岸辺を呼び直した。
「岸辺さん、俺、今月財布の中身がピンチなんですよ。ここからタクシー呼べそうになくて……」
『おまえの目は節穴か。そこに財布が転がっているだろうが』
「俺を犯罪者にするつもりですか」
 吉田が口をとがらせると、耳の向こうで返事の代わりに喉を鳴らす音がした。  
 スキットルから流し込まれたアルコールで岸辺の声帯はいつだって掠れていて、耳元で聞くとゾワゾワと背筋が粟立つ。
『馬鹿いえ。おまえの年齢知っててソコに連れ込んだんだぞ。精々搾り取ってやれ』
 小ばかにした台詞を最後に、ツーツーと断続音に切り替わる。吉田は顔をしかめた。手に持った受話器を思わずにらみつける。 
 が、最後の岸辺の声の調子からすると、気紛れを起こして迎えに来てくれる確率は7割以上だと思えた。
 ちゃんと此方の居場所を把握していることを言外に含ませたのが証拠だ。あれでいて、岸辺は飼い犬に滅法甘い。

 吉田はアタッシュケースの中に、散らかした書類を無造作に押し込めた。
 行きずりのアルバイトにしては長く続いている方だが、岸辺の言う通り、諜報活動は多分あまり向いていないという自覚がある。
 きっと自分の天職は、もっと凄惨で血生臭い、我武者羅に力を振るうだけの獣じみた―――。


「どこへ、行く」

 肩に手をおかれて、吉田は眼だけで後ろを振り返った。ぞっとするほど近くに男の顔がある。首元にあてられた冷たい刃とは対象的に、男の吐く息は生ぬるく湿っていた。

「小綺麗なツラをして――…とんだじゃじゃ馬だったようだな」

 頬を刃先で撫でられて、したたった血が首筋を濡らした。吉田は気にも留めずに小首を傾けると、僅かな体重移動と共に腰をひねって反転し、背後の男を強烈な足払いで床へと引き倒した。
 ドン、としたたか床を打つ音と、ひしゃげた男のうめき声が漏れる。衝撃のはずみで男が手にしていた短刀が地に落ち、吉田は片足でそれを別方向へと蹴り飛ばした。次いで、破れかぶれに男から投げられたベルト状のものも、確認するまでもなく手で振り落とす。
 だが、払い除けたはずのそれは突如ぎゅるぎゅると意思をもった蛇のようにのたうって、吉田の手首と腕とを同時に縛り上げた。
「ッ!?」
 後ろ手に拘束された瞬間、反射的に吉田の指先は掌印を結び、悪魔を喚びよせた。が、僅かなタイムラグも置かずに五指そのものを締め付けられて、中途半端に亜空が閉じる。
 足首にも拘束が食い込み、その凄まじい力に、吉田は僅かに苦い色を双眸に滲ませた。
「っ………」
 肉弾戦を嗜むなら不用意に何にでも触れるな、と──岸辺に散々言われたことを今になって思い出す自分が、ひどく悔しかった。


「手癖も足癖も悪いとは、つくづく躾のなってないガキだよ」
 殴り飛ばされた顎先を撫でながら、男が目を細めて立ち上がる。ギラついたその瞳には、半刻前に青年をエスコートした時分よりずっと下卑た欲望が浮いていて、瀟洒な装いも今となっては見る影も無い。
「ソイツはひとたび拘束した相手に合わせて形状が常に変化する。悪魔から借りた力はほんの僅か、強度はただの紐だがね」
 男の言葉通り、ぐねぐねと意志持つ生き物のようにうごめいている紐の塊は、ゴムのような弾力で振りほどこうとする吉田の力を受け流す。
 悪魔の力を中途半端に用いた人工の禁具は、吉田が岸辺の命を受けて探りを入れてきた闇市に蔓延る最もポピュラーな違法物だった。どうやらアテは外れていなかったらしい。
 無言で睨む吉田の腹を思い切り蹴り飛ばして、男は怒気と被虐的な笑みをその薄い唇にのせた。
「折角だ、愉しもうじゃないか」
 つよいスプリングに吉田の身体は跳ねて、押し倒されたベッドから細かな埃が舞い上がった。
 一瞬気後れした見目の良い青年の反応を、男はひどく嬉しげな表情で見下ろした。
「情報が欲しいのか」
「……ええ、まぁ」
「内容と交渉次第によっては君に売ってやることもできる。手持ちのカードは未だあるぞ」
「あいにく、今月は金欠でし、て……」
「野暮なことを。払えるものはここにあるだろう」
 腹の上に乗り上がった男の息が荒さを増した。襟元から潜り込んできた指が性急に素肌をなぞり、逃げ場のない体を弄り回し始める。
 吉田は引き攣る口元を取り繕いもせず、視線を斜めに泳がせた。
 天井の隅にわだかまる黒い影を見つめる。濃厚な異界の墨の塊が気流の渦になって、主とさだめた青年の呼び声を従順に待っている。蛸の悪魔。吉田の手足。
 ──いや、アイツは待ってるわけじゃない。見ているだけだ。いつだってそう。
 物心付く前から、吉田少年の傍らには彼の漆黒の瞳より更に黒い悪魔の影が取り憑いている。

「感心ならんな、その浮ついた態度は。娼婦の真似事ならもっとそれらしくやりたまえ」
「ぅ、んっ……!」
 汗ばむ息から逃れたくて思わず仰け反れば、悦んだように厚ぼったい男の舌は首筋から頬にすり寄り、耳朶をなぞり、奥へと絡みつく。
 気味の悪い水音がぐちゃぐちゃと脳内を犯すのも、黴臭く湿ったベッドが切ない悲鳴を立てて軋むのも、一つだって聞きたくない。
 だから耳を塞げない代わりに、吉田は鬱陶しい現実から逃れるために目を閉じた。
 何もかもが億劫だった。
 明るい光は異質な自分の影を容赦なく炙り出す。すれ違う人々の影の形が人の形であることを知るたびに、自分の踏みしめる影が異形であることに眩暈を覚える。
 吉田ヒロフミは普通じゃない。俺は普通じゃない。どんなに普通を装っても、俺の体は人間の擬態にしかならない。
 苦しい。息が詰まる。陸の上なのに溺れてる。助けて。
 ここではない何処かの方が、気持ちよく生きていける。そんな妄想に取り憑かれそうになる前に、だれか早く。
 縫い付けられたシーツに新しい皺を波打たせながら、吉田は声にならない悲鳴を上げた。

「クソガキ相手に欲情か。まともじゃねえな」
 一迅のかまいたちが沈殿していた部屋の空気を容赦なく切り裂いた。
 黒影が扉を突き破り、そのまま吉田の上に覆いかぶさっていた人影を薙ぎ払った。汚れた血泡が飛び散る。
 驚きにまるく開いた青年の視界に、見なれた黒い外套が翻っている。
 昏い瞳と目が合う。
「――岸辺さん」
 手ひどく男を串刺した黒布の一端が、その勢いのまま吉田を寝台から引き摺り下ろした。
 熱を帯びない岸辺の体温が一瞬だけ伝播した気がして、腰から砕けそうになる。
「ツメが甘い」
 いつもと変わらない罵倒の声に、吉田は無言で項垂れた。脱力している自分に気付いたのは、その時だった。
 四肢に力が入らず、今になって震えが瘧のようにぶり返してくる。情けなくてバカらしくて、笑いの代わりにうっかり涙が出そうだった。
「……すみません」
 馬鹿正直に謝ったからか、岸辺は一瞬戸惑うような目つきで吉田を見下ろした。それだけ。慰めの言葉など無い。
 時に饒舌にもなる岸辺の唇は、吉田の欲しい言葉を与えることなど滅多にない。
 濃い煙草と酒の余韻を残して、ふらり、と離れていく。いまだ動きの鈍い子供を置いて、岸辺はさっさと歩き出した。

「帰るぞ」
 言われてハッと顔をあげた吉田は、微睡みから覚めたような気分で、まばたいた。

 ―――帰る。
 わけもなく、その在り来りなワンフレーズに胸が締め付けられる。
 そうだ。一歩引き返せば、まともな世界に帰れるのに。俺は、いつまでこんなことを。

 吉田は、振り向いた岸辺の顔をじっと見上げた。
 行き先を見失った迷子の気分を、暗くて慈悲深い男の目が正確に掬い上げてくれるまで、待ちたい気持ちだった。

「………」
 踵を返してきた岸辺の両手が、吉田の頸動脈を包むように触れた。
 そのまま至極丁寧な手つきで、半端に脱がされていた襟の前を合わせ直す。
 釦をきっちり最後まで止める、無骨な手に似合わぬ繊細でなめらかな指の動きを、吉田は一心に目で追った。
 そうして嗅ぎ慣れた匂いを吸い込んで、ひたすらに鼻の奥を痛ませる切ない何かを押し殺した。


 帰る場所も見失って彷徨う男の背を追って、地獄の隣を歩いていく。
 不毛なその生き様に惹かれながら、青年は戻れない奈落の道行を転がりはじめていた。

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