日暮れの薄暗がりの中に幽霊の悪魔を見たからではない。とっくに帰ったと思った友人が、そこに居たからだった。
デンジは椅子に座って足を投げ出し、ペン先を顎に押し当てて何事か考え込んでいる。いつもはボケっと半開きになっている唇を引き結んだ、見慣れない横顔が夕焼けに照らされている。
放課後のサッカーに誘っても「俺ぁパス」と常のごとく乗り気じゃなかったから、どうせまたロクでもないバイトに明け暮れているのかと思ったのに。
「デンジ、何してんだ」
「ああ? なに、忘れ物ォ?」
とっくに気配を悟っていたくせに、デンジはまるで今目が覚めたというような緩慢な仕草で顔をあげて、ミリの質問を質問でかえした。
うんと頷けば、へっと笑われる。嫌な笑い方ではない。小ばかにしたように鼻で嗤う連中とは違う、呆れたような、肩の力の抜けたような、ちょっとした笑み。??微笑ましげとでもいうべき、目つき。
デンジがそういう風に相好を崩す瞬間があることを、ミリは最近になってはじめて知った。
なにせ日中のデンジときたら、その半分寝ぼけたような表情が変化することは、殆どないのだ。
夜行性の動物かと思うほど授業中は熟睡していて、かと思えば十二時を待たずに突然がつがつ握り飯を食い始めて、昼休みは小遣い稼ぎに人間イスになって、それで放課後はいつの間にか消えている。
過眠気味の青年の眼差しは、古典の美人な女教師のときだけ前を向いていて、あとはもっぱら窓枠の向こうに広がる青色を眺めていた。
だから時折デンジが、今みたいにまるで近所の悪戯な餓鬼を見るような視線を向けてくると、無性にこそばゆい。なんだか自分だけが急に年下になったような。
ミリは形容しがたい羞恥のようなものを押し隠して、頬を指で掻いた。
「明日までだっただろ、これ」
教科書とノートが詰まった自分の机の中から、くたびれた一枚のプリントを引っ張り出す。デンジはちょっと目を凝らして「なんだっけ」とちいさく呟いた。
「進路指導のプリント。三者面談の前に出せって言われたじゃねえか」
「ああ〜……」
気の抜けた返事を聞くに、きっとデンジも未提出の同類か、そもそもプリント自体を紛失しているのではないか、とミリは想像した。
プリントには高校卒業後の進路についての事細かな質問事項がずらりと並んでいるが、正直どれもいまいちピンとこない。世の中の状況は日々芳しくない方向に傾いていて、卒業後のビジョンどころか明日生き残っているビジョンさえ、曖昧だ。
呑気な人間のクラスメイトには分からなくとも、同じ悪魔人間のデンジには通ずるものがあるだろうと勝手に思い込んでいたのに。
「まだ出してなかったのかよ」
「……え」
「俺ぁとっくに出したぜ」
冷めきったデンジの口調に、ミリは唖然とした。慌てて、食い下がる。
「何て書いたんだよ」
「デビルハンター」
「は……? どこの」
「公安」
何でだよ、と絞り出したミリの声に、オレンジ色の夕陽に照らされたデンジの金髪が、かすかに揺れた。
左手で頬杖をつき直したデンジは、またあの奇妙に優しい目つきでミリを見上げている。昔住んでいた家のあたりを電車から見つけた時の、あの何とも言えない懐かしさと寂しさを含んだ目だ。
「チェンソーマン協会はどうすんだよ」
「協会は会社じゃねえもん」
「……! い、いや、でも、でもさ、公安はないぜ。糞野郎共に、また道具みたいに使われて良いのかよ」
「い〜んだよ」
「………」
ぐっと拳を握る。
デンジの言い草が、投げ遣りなものだったら、ミリは多分もう少し怒ることができた。
だけど、違った。
「俺、オレぁ、ハタチんなったら、な」
ぽつりと零したデンジが、右手に持っていたペンをいたずらに回した。
デンジが机の上に広げたノートには一体何が書いてあるのか、夕焼けの光が強く紙に反射して、ついぞミリには見えなかった。
「公安の特異課のどっかに入って、中華のウマい飲み屋で新人歓迎会に出てェ……そんで。そんで、美人の上司とベロチュー掛けて、ビールの飲み比べ対決すんだよ」
妄想にしてはやけにチープで具体的な話に、ミリは返す言葉を探しあぐねた。
デンジの右手のペン先が、ふっとミリの方を向く。
「で、おまえは? ど〜すんの」
「―――」
ぼけっとした自分の顔が、デンジの目の中に映っている。ミリは行き場を失ったように、プリントを握った手をそっと下ろした。
「公安のデビルハンターはバディ制だからよ。おまえとなら、バディ組めるかもな。なんか楽しそうだし」
「う……いや、うん」
泣きたいような、喚きたいような居心地の悪さを腹の底まで流し込む。うすいプリントが汗ばんだミリの手の中で、くしゃりと皺を寄せた。
サッカーに誘ったときの自分よりずっと気楽な口ぶりで、デンジが訥々としゃべっていた。
押しつけるでもなく、突き放すでもなく。俺に言っているようで、俺のうしろにだれかを見ているような目で。
――おかしいよな、お前といると、なんだか時々、すごく苦しい気分になるんだ。
喉まであふれかけた言葉を一つも形に出来ないまま、ミリはぐっと下唇を噛んでから、「じゃあな」と手を振った。デンジは片手を上げたけれど、まだ座ったままだった。
かるい挨拶は、いつも通り。余韻も何もない。入ってきた時と同じ遠慮のない音を立ててドアを開き、閉める。
ミリは、息を吐いた。
なんとなく、こうやって普通に別れて、それで最期になるような気がした。
俺の日常が突然いつもと同じ速度で廻らなくなったように、世界は急に天と地をひっくり返す。いまだその真っ只中にいる俺たちが、どうして順序良く「ありがとう、さようなら」なんて呑気なやり取りができるものか。
悪魔人間は何べんだって生き返るけど、永遠の支配が存在しないように、命もいつかは摩耗する。
でも、良いんだ。俺はもう、いっぺんは奇跡を起こしてもらっているから。
言いたかったことが、一度は言えたから。友達ごっこもさ、悪くねえだろ。
不意にそんなセンチメンタルな気分が襲い掛かってきて、あんまりにもそれが馬鹿馬鹿しくて、ミリは夕闇に沈み始めた長いリノリウムの廊下を思いきり靴音を立てながら駆け抜けた。