三夜

 まどろみから目覚めて先ず、壁時計を布団の隙間から見た。
 寝過ごしてしまった感覚があったのだが、むしろいつもより少し早い時刻である。ほっと胸を撫で下ろす。
 黒瀬はぼんやりとした目蓋を拳で擦りながら、もう少し眠るには微妙な時間をどう過ごそうか、と自堕落に考えた。
 ここで布団に潜り直したところで、かえって起きるのが億劫になることは分かっている。だが、体の節々がずっしりと重たいのだ。昨晩遅くまでの余韻を引きずった体は、まだ眠りの淵を恋しがっている。
 ぐずぐずと足先を擦り合わせている内に、今度は屋敷の奥間で眠っているはずの早川アキが気になり始めてきた。
 客にあてがうにしては、いささか寒い部屋だったようにも思う。
 官能を極めた夜の末、半ば失神したアキのでかい図体を小柄な黒瀬が清拭して布団に運ぶのは大層な苦労で、細かなところまで気を回す余裕がなかった。
「………どないやろ」
 声に出して呟いてみると、白いもやが薄っすら唇から漏れた。
 きっと外はまだ雪だろう──となると、少し早く家を出なければいけないわけか。

 黒瀬はようやく二度寝を諦めて、布団からずるずると這い出した。





 だだっ広い部屋の冷え切った空気を、石油ストーブが徐々に暖め始める。
 朝方になってさらに気温が下がったせいか、牡丹雪はすっかりと粉雪に変わっていた。
 電気湯沸かし器に水を入れて沸騰を待つ間、黒瀬は昨日コンビニで買った食パン袋を手に持って、少し迷った末にトースターに二枚を放り込んだ。バターにジャムに、ハムに、チーズ。冷蔵庫から適当に出して、厨房から続きの食堂へまとめて運ぶ。
 朝餉は一汁三菜の純和食で育った黒瀬だが、一人暮らしを始めたらパンとコーヒーの手軽さを手放せなくなった。
 コポコポとお湯が沸く音を聞き流しながら、黒瀬は客人にあてがった奥間へと続く廊下に出た。
 客人……早川アキを起こさなければならない。

 古い板張りの廊下は湿気を含んで歩くたびにミシミシ軋んだ。わざとらしく足音を立てて、できればアキが既に起きてくれていると良い、と少しばかり思う。
「──アキ君、まだ寝とります? 」
 黒瀬は、襖の外から声をかけつつ、中の気配を伺った。
 しんと静まった室内からは何の応答もない。一秒、二秒、と、黒瀬はそこに立ち尽くし、三秒を過ぎたあたりで仕方なしに襖へ手をかけた。途端、出し抜けにそれがバッと左右に開いて、黒瀬は両目を見開いた。
「お、わっ!?」
「〜〜っ、すみま、せん……ひと、さまの家で、寝過ごしました」
 襖を両手で開いたまま、アキは項垂れるようにして立っていた。
 寝乱れた黒髪とよれた夜着の肩越しに、跳ね飛ばしたばかりの布団の塊が見える。どうやら今の今まで本当に寝ていたらしい。
「あ、あぁ……いや、ええねんけど……」
 思わず目を泳がせながら、黒瀬は引きつった笑いを浮かべた。揶揄う気が起きないほど動転しているアキも珍しいが、自分の狼狽えようも大概だった。ばくばくと心臓がうるさい。黒瀬の尻すぼみな返答をどう受け取ったのか、アキは薄っすら朱が散った頬を暗がりに下げて、「すみません、今すぐ支度します」ともう一度小声で詫びた。
 その声が嗄れていることに気が付いて、黒瀬はいよいよ居た堪れない気分になる。
 凍ててつく寒さの廊下に、誤魔化しのきかない沈黙がむず痒く漂った。
「あー……うん、パンしかないけど」
「いえ、ありがとうございます」
 殊勝に頷いたアキの返事が、閉ざされた襖の内側に消える。
 廊下にぽつねんと立ったまま、黒瀬は二つ深呼吸してから、努めて平静を装って廊下を一人戻った。みしみし、ぎしぎし、板が響く。

 戸を閉めて厨房まで引っ込んで、トーストを乗せる皿を棚から取り出して、両手でそれを持とうとして、ようやく得も言われぬ衝動がわきあがってきて、黒瀬はゴンッと冷蔵庫に頭をぶつけて突っ伏した。
「アカン……めっちゃ気まずいわ……」

 一昨日は殆ど覚えていないと高を括っていたから、何の気も起きなかった。
 昨夜は他のことを考える余裕なんぞなかったから、何のてらいもなかった。
 でも今朝は。今は。
 正気の顔を突き合わせていても、淫蕩に歪んだアキのあの瞳がふいにダブってしまいそうで、怖い。やましい。やましい、と感じてしまったら最後、また俺は、一つ何かを踏み間違える予感がする。
 ピー、と湯沸かし器が音を立てて、黒瀬は顔を上げた。トースターはとっくにパンをはね上げていて、余熱が耳を少しばかり茶色く焦がしていた。ズボラな朝食が、さらに不細工になる。
「………ッ、あぁ…もう」
 黒瀬は喉まで出かかった悪態を飲み込んで、慌ただしく皿を手に取った。


***


 陽の高みを見ぬままに、雪の白さが空を照らし続けた一日であった。
 薄寒い庁舎で二、三の報告書に目を通し、あとは取ってつけたような会議に一席加わったのみで、黒瀬の職務は平凡に終わった。
 デビルハンターが「平凡」な一日を過ごすのは、おそらく「奇跡」なのだが、今更神にも仏にも感謝するつもりはない。しいて言うなら面倒くさい案件を回してこなかった上司を有難く思う。
 ――まあ、特別手間のかかる厄介事を、二日前に拾って帰った覚えはあるが。

「さむぅ……」

 支給品の分厚い黒コートに雪が静かに付着し、地を白く重ねていく。
 黒瀬は、地味な装いの中で唯一色を差すマフラーに、顎を沈めた。
 鴨川の水面もさざ波一つ立たず、欄干の上に積もる粉雪がじわじわと凍りを纏い、通行人の影をやわらかく削ってゆく。
 定時よりいくばくか早く支部を辞したわりには、足取りはひどく重たかった。
 今朝、閉じた襖の向こうで項垂れていたアキのうなじ、擦れた声と、寝乱れた夜着の袖口が、脳裏に淡雪のように降り積もって離れなかった。日がな一日そうだった。ふと気を抜けば似たようなリフレインを繰り返していて、天童に三度も小突かれた。
 珍しいことだった。それこそ今日が平凡に終わったことと同じように。
 顔色ひとつ崩さずに冗談を飛ばすのが得意だったはずだ。張り詰めた空気にも動じず、気まずさには笑いで返す。それが、黒瀬ユウタロウという人間の、処世のひとつの形だった。
 だが、今朝は――。
 すぐに咄嗟の軽口ひとつ出せなかった。あれは、自分らしくなかった。何に動揺してたんか。どうするつもりやったんや。あの時、何を考えていた。
 問うても答えは出ない。ただ、今もなお胸の内でくすぶるように熱を帯びたその記憶が、冷えきった京都の空気にふさわしくないほど生々しい。
 重石のような体を引きずって、角を曲がる。
 自宅の門が見えた頃には、日はすでに完全に暮れていた。石畳にはうっすらと雪が積もり、灯りの滲む路地の奥にだけ、人の生活のぬくもりがあった。
 門扉に手をかけようとして、ふと足が止まる。
 玄関の灯りが、外へ向かって細く伸びていた。まさかと思ったが戸の外に人影がある。
「……あ」
 一拍遅れて、声が零れた。
「おかえりなさい」
 アキだった。出際に見たのと同じグレーのセーターと黒のパンツ。黒瀬が本人の趣味嗜好を無視して見繕ったよそおいを、アキは悔しいほど自然に着こなしていた。白い息を吐きながら、まっすぐな姿勢で立っている。
 ひどく自然な表情をしていた。少なくとも、黒瀬が思い描いていたような、気まずさや羞恥の色は見られなかった。むしろ、やや張りつめた面持ちで、それでも明るく在ろうとしているような、そんな顔。
「……寒いやろ。なんで出てきたん?」
 黒瀬の問いに、アキは少しだけ目を細めて言った。
「風にあたりたかったので」
 早いんですね、と付け加えた横顔には、朝のこわばった印象は薄れていた。
「こんな雪ん日でもトーキョーの人は残業なんですかぁ」
 軽口を返して一歩踏み出す。踏み締める雪が、心のざわつきを掻き消すように、静かな音を立てていた。


***


 祇園という土地には、京都の華と影とがひしめいている。
 薄紅の提灯が軒先に灯る夕暮れどきともなれば、石畳を踏む草履の音や、どこからか漏れ聞こえる三味の調べが、古都の夜に一瞬の幻を落とす。格子の奥でひそやかに揺れる暖簾の陰には、老舗の料理屋と舞妓の町が息づき、客もまた、それを心得た者ばかりである。
 黒瀬の古邸宅からは、歩いて二十余分。季節の移ろいとともに空気の匂いまで変わる祇園の道は、黒瀬にとって子どもの頃からなじみ深い散歩道だった。むしろ馴染み深すぎて、今では香のように染みついた鬱陶しさの方が勝っている。だから普段は避けて通る。
 その祇園へ、今夜は客人を伴って出向くことになった。
 一昨日、昨日と慌ただしかったこと、今朝の気まずさが心に尾を引いていたのもある。たまたま仕事が早く終わったのもある。
 償いとも慰めともつかぬものに時間を使うのは、あながち悪くない。
「今更聞くけど、嫌いなもんは」
「ありません、何でも」
「そっか。……ほな、今夜は湯豆腐にしときましょか。せっかく京都まで来てくれはったんやし、寒いのも含めて思い出、っちゅーことで」
 黒瀬は、くくっと喉の奥で笑った。冬の祇園を歩くには、素朴な温もりがちょうどいい。
「舞妓はんが出てくるような高いとこは、俺もよう行きませんけど。昔から使こてる、しみしみの豆腐出す店があってな。……アキ君も、豆腐くらいやったら、味なくても食べられるやろ?」
 ふと横を見ると、アキがわずかに口元を引き結んで、それを笑みとも我慢ともつかぬ表情で受け流していた。一応、皮肉られたことは鈍いアキにも伝わっているらしい。その反応に、黒瀬はほんの少しだけ気が緩んだ。今朝までの重たさが、息を吐くようにほどけていく。
 揶揄いひとつで、こうしてまた、自分を取り戻していく。そういうふうにして生きてきたのだ。今までも、これからも。
 雪が降り足す気配に、黒瀬はマフラーを軽く巻き直して、アキに向かって顎で歩を促した。
「行きましょーか。あったかいうちに豆腐、逃してまうわ」



 
 湯豆腐鍋の湯気が、卓の間をやわらかく仕切っている。黒瀬は湯さましをひと匙すくい、淡くとろけた豆腐を取り分けた。白だしが効いたつゆの香りが鼻をくすぐる。
「……おいしいです」
 少しして、アキがぽつりと口を開いた。そういえば昨夜も箸をつけて第一声が「美味しいです」だった。社交辞令ではないらしい。ばかばかしいほど、まめで律儀で面白い。
「そらどうも。京都来た甲斐あったやろ」
 何でもない会話のつもりだった。だが、アキの指が、湯呑の縁を撫でるように動いているのが見えて、黒瀬は自然と箸の動きを止めた。言いあぐねている相手にはちゃんと間を与えてやる。
「……日中、少しだけ、東京と連絡を取りました」
 静かな声だった。あまりにも静かすぎて、鍋の音と雪の気配がかすかに重なる。
「マキマさんに報告しました。今の状況……俺の『憑き物』のことも」
 黒瀬は応えなかった。代わりに、湯気越しにアキを見た。アキもまた、視線を外すようにして言葉を継いだ。
「表向きは変わらず京都班への出張扱いにしてもらっているようです。ただ、“治療を順調に進めて、来週中には帰還を”という話でした」
「まあ、真面目に毎晩アキ君ががんばれば、あと三晩って算段だし、ちょうどええんちゃうかな」
「はい」
 淡々と告げた言葉に、黒瀬は湯呑を手に取って、少しだけ口元に添えた。飲んだつもりだったが、舌先をかすめたぬるい茶の味は、ほとんど記憶に残らなかった。
 あと三日──。
 アレを、まだ三日続けるのだ。手で、口で、香で、内側に巣くった怨霊をほじくり返される。
 そのためにアキは、これ以上ないほど無防備に身を晒して、寝乱れ、喘ぎ、狂おしい悦に身を灼かれてのたうちまわる。
 憑かれた胎は熱を帯び、淫蕩にかき乱されて、厄落としの黒瀬をも取り込もうと貪欲に欲しがった。柔らかな皮膚の下に刻まれたしるしを、何度も、なぞった。
 ――あんな目をしておいて、キミ、何にも感じてないんか。
 一晩ごとに壊れていくその声を、知らん顔で今夜も俺に聞かせるつもりか。
「黒瀬さんには……面倒をかけていると思ってます」
 唐突な声が、すっと胸に突き刺さった。
「はぁ……へぁ?」
 不意を突かれて返した自分の情けない声に、思わず箸を落としそうになった。
「自分ができることは何もないことを痛感してます。だからといって自棄になってる暇はない。最後まで、頼りにしています。よろしくお願いします。」
 アキは湯呑を大きな手で包んだまま、まっすぐに言った。迷いも、含みもなかった。死んだ時に笑いに来てください、といつか言いきった時と同じ、真面目ではかないトーンだった。
 思わず息が詰まる。
「……そら、えらい殊勝な……あと三晩も喘がせる男に贈る言葉やないな」
 軽く茶化すように返した。照れ隠しのつもりだった。口が勝手に言葉を探してしまう。黙っているほうが難しかった。
 アキは一拍だけ黙って、それから湯呑の縁に口をつけたまま、静かに言い返した。
「ご指導ありがとうございます」
 分かりやすく眉が寄っていた。呆れと苛立ちが混じった、正直な反応だった。
 黒瀬は肩をすくめた。笑いを噛み殺した口元が、つい緩む。むっとして睨んでくる顔すら、今となっては愛嬌に見えるのだから、我ながらどうかしている。
 気が抜けた拍子に、暖簾をくぐって入ってきた常連客の酔ったような声が耳に触れた。どうやら団体客のようだ。足音がやけに騒がしい。
 ちらりと互いの視線がぶつかった。どちらともなく立ち上がる。
「……そろそろ、お愛想もらおかな」
 呟いたつもりだったが、アキにはしっかり聞こえていたらしい。支払いは譲らない、と言わんばかりに伝票を拾って勝手に立ち上がる。黒瀬はその背を追いながら、小さく舌を巻いた。

 暖簾をくぐると、雪は止んでいた。
 吐く息が白く曇る。同じ場所へ帰る相手と並んで歩く。いっそ酔っぱらって、千鳥足の方がよっぽど気楽だったかもしれない。
 最北育ちの白い肌をうっすらと染めながら歩くアキを見やり、黒瀬は思う。

 ――今夜は、うんと香を焚いて臨んでやろう。せめてこのまま何も壊さないように。


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