やさしく丁寧に壊して

期末試験が終わったので、まぁ気が緩んでいたのである。
それで珍しくクラスメイトに誘われるまま、普段聞きもしないレコード屋を覗いたり、然程面白くもないゲームセンターを冷やかして時間を潰したりしているうちに、とっぷりと日は暮れてしまった。
ぐんぐん昇る月に追い立てられるように、帰路に着く。
頭の中は明日からの休日をどう過ごすかでいっぱいだった。
流行りの曲にもゲームにも興味はないが、ヒロフミにはヒロフミなりの興味の対象がある。
なのに、自宅まであと数百メートルという坂道まできて唐突に、教師に押し付けられた連絡袋の存在が脳みそをジャックした。
実に嫌なタイミングだった。
玄関先で「おまえ、デンジの家知ってるよな?」と問うてきた壮年の教師は、ヒロフミが知りませんとも嫌ですとも言い出せぬような速さと圧でもって、ガサガサした紙袋を押し付けてきたのだ。
ずるい大人の背中を睨みつける気力もなくて、受け取ったそれを今の今まで鞄に入れっぱなしにしていた。
思い出したら最後、家に連れて帰るのもしゃくに思えた。
「………仕方ないな」
ひとりごちて、方向転換する。
もと来た道を戻ったら繁華街を抜けてしばらく歩くことになる。汗をかきそうだった。
こんなときに早川家のデンジは馬鹿だから、夏風邪をひいて三日間も学校を休んでいる。




二階建てのアパートはいかにも安普請なつくりをしている。
かんかん階段をのぼる靴音が暑苦しい夜に耳障りでうっとおしい。
ヒロフミは三つ並んだドアの真ん中のノブを無遠慮に回して、早川家の玄関をのぞきこんだ。
「お邪魔します」
廊下は薄暗いが、人の気配はありありとしている。何せシャワーの音がしっかり家中に響いている。
ヒロフミは靴を脱ぐと、廊下を真っ直ぐ進んでキッチンへ向かった。
一応、気を利かせて途中のコンビニで買ってきたプリンとスポーツドリンクを袋の中から取り出しておく。
シンクには、子供向けにしては奇天烈な見た目のヒーローキャラクターが描かれたコップが一つ、浸されていた。
キッチンカウンターにはそれとは毛色の違うコーヒーカップとスプーンが、ひとそろえ行儀よく伏せてある。
早川家のあるじが、カフェイン依存気味のきらいがあることを、ヒロフミはよく知っている。
「……」
子供が丸ごと入りそうな冷蔵庫を勢いよくあける。
汗ばんだ頬をすうっと冷気がなでる。
プリンを片付けて牛乳パックを持ち上げると、なんと中身が空っぽだった。
拍子抜けした顔のまま、ヒロフミは未だびしゃびしゃと元気よく湯音を立てている風呂場の方に首を伸ばした。
「デンジくん、牛乳パック空っぽだよ」
間延びしたヒロフミの声にも、返事がいっこうに返ってこない。
シャワーの音が五月蝿すぎるのだ。
よほど念入りに洗っているのだろうか。
風呂場のドアを開けて指摘したところでもうどうしようもないので、ヒロフミは空の牛乳パックを途方に暮れた面持ちで左右に振った。
蟻の寄ってきそうな砂糖のにおいのする人が、明日の朝のルーティンできっと困るだろうに。
そう思ったところで、玄関のドアが開いた。
「何やってんだてめえ……」
ぱち、とリビングに電気がついた。
帰宅したアキは腕までシャツを捲りあげていて、その片方には小さなスーパーのビニール袋をぶら下げていた。
「牛乳、空っぽでしたよ」
ヒロフミがパックを持ち上げてみせると、アキは嫌そうに顔をしかめながら左手でしゅるしゅるネクタイをほどいた。
「糞っ……、空の牛乳パック入れるなって言ってんのに」
アキの口調は剣呑だが、怒りより呆れが多分に含まれているのが透けて、一さじの甘みさえ感じられる。
デンジに対するアキの目つきと同じ色だ。一さじのエゴイスティックないとしさ。
「デンジくん、風邪治ったんですか」
「……まぁそれなりに」
スーパーの袋から故郷の名前を印字した紙パックを取り出すと、アキはそれを無造作に冷蔵庫へ放り込んだ。それからヒロフミの持っている空っぽの牛乳パックをひったくって、シンクに立てかける。
何しにきた、と繰り返される前に、ヒロフミは口を開いた。
「期末試験が終わったんですよ」
「試験が終わると人の家に上がり込むのかよ」
アキの声には咎める調子もからかう調子もない。風呂場からは相変わらず激雨のようなシャワー音が響いてくる。
「明日から休みなので」
フローリングのつるつるした床板の反射を眺めながら、ヒロフミはそう呟いた。
アキはいまだに一月に一度は几帳面にワックスをかけているのか、足元は相変わらず濡れたように光っている。
ふぅん、と呟いたアキの目も、とろりと溶けた飴のようにうるんでみえた。
それをきゅっと細めて、彼はしらじらとした台所の蛍光灯のひかりに輪郭を縁取られたまま、ヒロフミの顔をはじめてまともに見た。
「俺も明日から休みだ」
アキの発音は、時折すこし耳慣れない音調をつむぐことがある。
彼の白い肌が産まれおちたのは北の大地だからか、不思議と遠くの異国を思わせる青い目のせいなのか、ヒロフミにはよく分からない。
べつにそんなことはどうだっていいのだ。
いいな、と思うだけで。
そんなわけで、ヒロフミはあまりよく考えずに、取り合えず半分開いていたアキの唇に噛み付いた。
舌先で歯列をなぞると、ぴちゃ、と小さな水音がする。
シャワーの音は止まっている気がする。
耳の中に、夕方悪ふざけを起こした学友がビンごと振り回していたファンタグレープの、淡い泡の音がした。

まあ、いいか。
期末試験は終わったし。牛乳は買ってきてるみたいだし。

ひとりそう納得して、ヒロフミはデンジのために買ってきたスポーツドリンクを掴んだ手とは逆の手で、今晩きっと目一杯デンジに弄ばれるのであろう男の腰骨を、かるく下から撫で上げた。

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