20200616 彼女の日記帳

『1』

 私には半年よりも前の記憶がありません。
 自分について解っているのは並々ならぬ腕力を持っているということだけで、それ以外のことは年齢や誕生日、さらには親の顔すらも解りませんでした。
 自分が常人を圧倒する腕力を持っていることに気がついたのも、行き倒れていた私を拾った女性に指摘されたからであって、目覚めた瞬間の私は文字通り何物も持たなかったのです。その時の絶望感と言ったら、筆舌に尽くしがたいほどでした。
 しかし、捨てる神あれば拾う神ありとは上手く言ったもので、怪力を買われて女性の畑仕事を手伝うことになり、彼女が所有する小屋を家として使わせて貰えることになりました。

 それからの日々は凪のように穏やかに過ぎていきました。今までの自分には縁遠かった生活を送ることができていると、記憶がないにも関わらず思ったものです。
 そうして平穏な日々を過ごす内に、自分の持つ力が常人のそれを逸し過ぎていることに気がつきました。
 山から降りてくる女が珍しかったのか、双肩に担がれる積荷が彼らの好奇心を煽ったのか。あるいはその両方か。時折山から降りる度に街の人々から向けられた視線は畏れと好奇心で濡れていて、それは私を居た堪れない気持ちにさせました。

 気づきというものに疑問はつきものです。どうして自分がこのような異常な力を持っているのかを不思議に思うようになりました。

 さらに、怪力以外にも私の身の上には不可思議な点がいくつもありました。
 行き倒れた私を見つけてくれた女性によると、何の前触れもなく、忽然とその場に現れたそうです。その時の状況から考えて、空から降ってきたとしか思えないと女性は話しました。「もしかしたらアンタは天使だったのかもしれないよ」などと女性は冗談交じりに言いましたが、私にはどうしてかそれがあながち間違いではないように思えたのです。

 しかし、焦点がずれたような違和感と疑問が解消されることはありませんでした。なぜなら、疑問の答えを持っていたはずの私という存在は、いまこの瞬間に存在していなかったからです。

『2』

 全ての始まりは一輪の花からでした。

 ある日畑仕事を終えて小屋に帰ると、入り口に備え付けられた郵便受けに小さな青い花が添えられていました。

 その日は常緑樹の葉が地面へと落ち、その後再び空中へ撒き散らされるほどに風が強かったものですから、きっと風が運んできたのだろうと、その時は可愛らしい一輪の花について深く考えることはありませんでした。

 しかし、それから来る日も来る日も、同じ場所に同じ花が添えられるようになったのです。

 流石に連日続くそれを不審に思った私は、女性に相談することにしました。
 彼女は心優しく、慈悲深い女性でした。素性がろくに解らない私を迎えいれたどころか、衣食住すら支援してくれている。何か裏があるように思ってしまうほどに、彼女のおかげで記憶はなくとも順風満帆に日々を送ることができていました。そのような命の恩人ともいえる存在である彼女は私の話を聞いて少し考え込んだ後、朗らかな表情でこう言いました。

「アンタが持ってきたこの花は勿忘草だね。確か花言葉は……私を忘れないで、だったかな。もしかしたら以前のアンタと知り合いだった人が会いにきたのかもしれないね」

『3』

 女性の言葉に、私は違和感を覚えました。知り合いであるのならばこのように周りくどいことをせず、直接声をかければ良いのではないでしょうか。きっと花の贈り主には顔を合わせられない何らかの理由があるのでしょう。

 それに仮にかつての知り合いだったとして、来る日も来る日も知らぬ間に自宅に訪れられるのはなんとも言えない気味悪さがありました。

 顔の見えない奇妙な存在は、まるで見通しの悪い水面をボートで突き進むかのような不安の沼に私を突き落としました。

 そのような不安感からでしょうか。感覚が過敏になっていたのか、ふとした瞬間にどこからか視線を感じるようになりました。
 本格的に気味が悪くなった私は小屋中の窓を全て板で塞ぎ、シーツの中に潜り込んで過ごすことが多くなりました。しかし、そこまでしても奇妙な視線が途絶えることはなかったのです。
 射抜くような視線は畑仕事をしている時にも私を貫きましたが、見晴らしが良く、隠れる場所もそうそう無いはずである畑においても視線の主を見つけることはできませんでした。

『4』

 そのような不安に苛まれている時期に、私はとある人と出会いました。
 クロロと名乗る流れの旅人曰く、道中で怪我をして立ち行かなくなっていたところに偶々私が通りかかり、これ幸いとばかりに声をかけたそうです。彼は宿を探していたらしく、近隣に宿がないかを尋ねられましたが、私が住む場所は街から随分と離れた山奥で、近辺にあるものは畑と民家のみだったので私は答えに言い澱みました。
 しかし、手負いの人間に山を降りることを勧めることもできず、私は彼を小屋へと連れ帰ることにしました。

 小屋の近くに住んでいる女性にもその旨を話したところ、奇妙な視線に悩まされていることを彼女に相談していたこともあり、怪我が治るまでいてもらえばいいと快く了承を貰えたのでした。

『5』

 彼が小屋で過ごし始めてから、郵便受けに添えられる一輪の花と奇妙な視線はパタリと止みました。あれは悪い白昼夢だったのかもしれない。嫌な記憶が薄れかけ始めていた頃、身の毛がよだつような事件が起きました。
 それが起きたのは、私が畑仕事から家に戻った時のことでした。
 小屋の前にこんもりとした黒い影が遠目に見えて、目を凝らしながら一体何やらと恐る恐る近づいてみると、それは口に出すことすらはばかられるモノだったのです。
 あまりの衝撃に腰を抜かしながら、嗚咽とも悲鳴ともつかない声で必死に彼の名前を紡ぎました。よほど悲痛な声だったのでしょう。何事かと小屋の中から慌てて出てきた彼は小屋の前に置かれたモノを見て一瞬眉を潜めたものの、泣き崩れる私を目に留めると一目散にこちらへと駆け寄ってきてくれました。
 その時、青いものが彼の服から舞い落ちるのが見えた気がして、酷い乖離感に見舞われましたが、力強く抱き寄せられたことによって我に帰りました。

「クロロ、さん……っ、あれ、あれ……!」
「いつもは何にも臆せず無茶をするのに、ああいうモノを見ると不安がるのは何故だろうな。不思議で仕方がない」

 それは迷い子を見つけた、あるいは子供を叱りつけながらも愛おしさを抑えられない親のような声音でした。

「ほら、息を吸って、落ち着いて。ナマエの力では自分を傷つけてしまうだろう」

 地面にへたり込む私を胸に抱いた彼は優しい声でそう囁きました。地面に這う凄惨なモノから視界を遮るように抱きしめられ、私は久しぶりに心の底から安堵したのでした。

『6』

 おぞましい出来事が起こったその日、私は彼の腕の中で眠りました。これまでは異性同士であるため極力離れた場所で眠っていた私たちですが、初めて同衾したとは思えぬほどに彼の腕は私の身体にしっくりと組み合わさりました。まるで生き分かれていたパーツが戻ってきたかのような感覚に差し響かれたのでしょうか。出会った瞬間から私に惹かれていたこと。そして、記憶のない私を支えたいと思っていること。彼がこれまでずっと密かに抱いていた気持ちを告げられ、私は小さく頷いてしまったのでした。

「おかえり、ナマエ」

 私が小さく頷いたのを見て、彼はそのような言葉を溢しました。彼が口にした言葉の意図はわかりませんでしたが、そんな些細なことは気にならないくらいに、私は多幸感に包まれていました。自分を支え愛してくれる存在の胸に抱かれる。それは抗い難いほどに甘美な蜜でした。

 はてさて、彼とはこうなる運命だったのでしょうか。頬に触れる硬い胸元、私の頭を抱く掌、肩甲骨に触れる指先。初めて触れたはずなのに、なぜかそれらをよく知っているような気がしてならなかったのです。

 そして、一連の出来事は一体どこぞの人物の仕業だったのでしょうか。結局犯人は分からず仕舞いでしたが、きっとこれまでに起きた奇妙な出来事の犯人は全て同一人物でしょう。

 ああ、そういえば。私がおぞましいモノに腰を抜かして地面に座り込んでいた時、彼は足早に駆けつけてくれましたが、足の怪我はもう治ったのでしょうか。
 それに、逸脱した怪力のことを彼に話したことがあったでしょうか。私はこの力が常人には恐ろしく映ることを理解していたので、彼がここを去るその日まで己の異能を隠し通すつもりだったのです。彼は聡い人ですので、私の隠し事など全てお見通しだったのでしょうか。次に食卓を囲む時、彼に尋ねてみなければなりません。
 彼の服から舞い落ちたあの青い花をどこで手に入れたのかということも。

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