211105 アンドロイドちゃんはトラウマ製造機
※dbhパロ(元作品を知らなくても読めます)
九井一はデスクワーカーである。梵天が関与する風俗店やフロント企業に赴く回り仕事であったり、泥臭い仕事が多い他の幹部とは違い、パソコンと睨み合う後方業務が主な仕事だった。
「九井様。幹部の皆様が置いていかれた領収書のチェックが終わりました。次はいかがいたしましょうか」
「っああ、そうだな。じゃあ、さっき送ったデータの確認をしてくれ」
自分を呼びかける無機質な声に、パソコンの画面から顔を上げる。
「かしこまりました」
しかし、声の主である女は既に新たな作業に取り掛かかろうとしていて、二人の視線が交わることはなかった。それを良いことに、九井はデスクトップの向こう側に覗く女の顔を無遠慮に見つめる。
コイツの顔の真ん中に縦線を引いて二つに折り畳んだら、左右全てのパーツがちょうどぴったり重なりそうだなァ。九井がそう思わずにはいられないほど、彼女の顔は左右の比率が完璧に整っている。どこぞの誰をモデルにしてこの女を造ったのか、いくら金を積めば教えてくれるだろうか。そんなことを考える九井の視線には遠慮がない。
これほど遠慮のない視線を向けられれば恥じらいの一つや二つくらいは覚えそうなものだが、当の彼女は視線に気がつきながらも動じることなく黙々と作業をこなしている。その動きには一切の無駄がなく、瞬きすらせずにパソコンを見つめる姿はもはや人間離れしているといっても過言ではない。それもそのはず、彼女は一見人間のようでありながら、その実人間ではないのだから。
──西暦20XX年。AI技術とロボット工学の発達により、人間と見間違うほど精巧なアンドロイドが製造されるようになった。疲れや感情を覚えることがなく、例え過酷な環境に晒されて壊れたとしても簡単に代替が利くアンドロイドたちは新しい時代の労働力として人間ととって代わろうとしていた。
そのような新しい時代の波が梵天にも訪れたのは、今から一年も前のこと。
当時、九井一には限界が訪れていた。ボスであるマイキーから梵天の金銭面を一任された彼は金を作ることを得意としており、梵天が日本最大の犯罪組織と呼ばれるまでに上り詰めたのは彼の手腕による影響も大きい。まさに天才と称するにふさわしい手腕であったが、彼はどこまで行ってもただの人間でしかなかった。いくら天才と称されたとしても時間と体力だけは凡人と同じく有限であった。
資金がどのような方法を用いて調達され、どのように組織の中で運用されているのか。経理・会計・財務。これらに係る作業は一見地味ではあるが、組織においては非常に重要な役割を果たすことを九井一は正しく理解していた。だからこそ、彼は梵天が結成されてからというもの日々コツコツと業務に勤しんでいた。しかし、一般的な会社と同様、犯罪組織における金銭管理に係る業務も事務作業が多く、彼のデスクには時折捌き切れなかった書類が積み上げられるようになった。
しかし、そもそも彼に任された最大の仕事は梵天の運営に係る事務仕事ではなく、資金源となる金を生み出すことだった。そのためには事務作業ばかりしているわけにはいかないのだが、ヤンキー上がりのボンクラばかりが集まる梵天という組織。別の人間に事務作業を任せようにも、残念なことに彼に代わる人材は存在しなかったのだ。
それに加え、業務に忙殺される九井に対して細やかな配慮ができる人間が組織内に片手で数えられるほどしか存在しなかったことも彼にとっての不運であった。
悪びれることなく提出される用途不明の領収書と日付が数ヶ月も前の領収書が己のデスクに積み上げられてゆくのを見て、九井一は激怒した。必ず、かの邪智暴虐のクズ共を除かなければならぬと決意した。その決意のままにアクセスしたのは"サイバーライフ"と呼ばれる世界最大のアンドロイド製造企業のホームページ。
自分に代わって事務作業を捌き、面倒な騒ぎを起こさず、そしてむさ苦しい職場にほんの少し花を添えてくれる存在が欲しい。毎日大金を生み出しているんだ。細やかな願いくらい叶えたっていいだろう。この時の九井一は疲れきり、そして半ばヤケになっていた。そんな彼が二十四時間体制のカスタマーセンターに要望を伝えた結果購入することとなったのは、社内サポート特化型アンドロイド・型番YM801。夜中特有の勢いとノリでの購入であったことは否定できないが、彼が有用な存在を求めていたことは確かだった。
そのような経緯で、九井が使用する梵天事務所内の一室に新たなデスクが置かれることになったのだった。
♦︎
九井一が女性型アンドロイドを購入してから一年が過ぎた。初めは簡単な事務作業を任せる程度のつもりであったが、アンドロイドは梵天において当初想定していた以上の活躍を見せていた。
まず、九井の頭を悩ませていた事務作業が目に見えて楽になった。アンドロイドである彼女の作業は異常なほど素早く正確で、なおかつヒューマンエラーが発生しない。これも全てアンドロイドに搭載された高性能なAIのおかげだった。いつも彼が気がついた時には完璧な状態で全ての事務作業が片付いており、もう仕事が終わったのかと呆気に取られてしまうほどだった。おかげで九井は金を生み出す仕事に全集中できるようになり、彼自身が限界を超えて勤務することはほとんどなくなった。
ここまでは九井を含めた梵天メンバーの誰もが予想できていた結果だった。人間が作り上げたAI技術とロボット工学の結実。それがアンドロイドである。既に労働を構成する要素として人間ととって代わってしまった新しい時代を象徴する存在が無能であるはずがない。でなければ簡単に代替が効く存在といえども、人間を差し置いて彼らが登用されることはない。だからこそ、彼女の能力を誰もが初めから疑っていなかった。しかし、当初想定していた期待値を遥かに超えて、彼女はその能力を梵天において存分に発揮したのだった。
「ただいま〜」
「今日は何時まで〜?夜飯いこーぜ。アンドロイドも入れる店見つけたからさ♡」
九井の事務室にノックもせずに入ってきたのは梵天幹部である灰谷兄弟だった。仕事を終えて事務所に戻ってきたばかりの彼らはお前に用はないとばかりに九井には目も向けず、一目散に女の形をしたアンドロイドの側へと歩き寄った。そして彼らは元々垂れ目がちな目尻をさらに下げながら、意気揚々と彼女に声をかけるのだった。これは九井にとって既に見慣れた光景と化しており、彼は目の前の光景に触れることなく黙々と己の仕事を遂行するのがここ最近の常であった。しかし、我関せずと仕事に徹しようとする彼の意識は突如室内に響いた破裂音に奪われることとなる。
「オイ、コイツは今日俺と飯に行く予定なんだわ」
その長い足によって椅子を蹴り上げた大きな音は、九井だけではなくその場にいた全員の視線を奪った。いつのまに室内に現れたのだろうか。灰谷兄弟によって開きっ放しにされていた扉から知らぬ間に侵入してきていたらしい三途を見て、九井は露骨にため息を吐く。九井だけでなく、先客である灰谷兄弟ですら呆れた表情を浮かべる中、アンドロイド一人だけがきょとんとしながら唇を開く。
「……三途様とお約束したメモリーは見当たりませんね。申し訳ありませんが、そのお約束というのは三途様の勘違いではないでしょうか」
「ッセ、クソプラスチック女が」
「三途より俺らと飯に行きてぇよな〜♡」
下心を隠すことなくアンドロイドに誘いを掛ける男たちを見て、九井は二度目のため息を吐く。
どうせ近くに置いておくなら紛い物でも麗しい女の見目をしているほうがいい。そのような安易な考えから容姿端麗に作られた型を選択した。彼女を購入した当時の意図としてはそれ以上でもそれ以下でもなかったのだが、今となっては不必要だったかもしれないと九井は思う。
───誰もが予想できなかった彼女の能力。それは彼女が人間たらしであったことだ。
彼女に搭載されている体温と心拍数を感知するセンサー。これらは対象者の心身状態を正しく把握し、適切なケアを導き出す。相手の喜怒哀楽を察知することは、これほどまでに相手が望む言葉を的確に選ぶことができるのかと梵天メンバーの誰もが驚愕したものである。
しかし、的確な言葉を選ぶことができたとしてもアンドロイドは所詮人間の紛い物。されど紛い物であるからこそ価値を見出すこともある。今回のケースがまさにそれだった。
口には出さないが、梵天を構成する人間の誰もが心の中でこう思っている。「彼女の側は心地良い」と。彼らが揃って居心地の良さを感じる理由には、彼女が人間ではないことが大いに関係していた。
血肉の通わない、無機質な部品が詰まった身体。プラスチックと金属で造られている彼女の心に何かが響くことはない。それであって、こちらが望む反応を的確に返してくる。彼女以上に人形遊びに適した存在はいないだろう。勿論梵天に所属する男たちの中に元来の人形遊びに興じるような人物はいなかったが、自分の薄汚れた部分や柔い部分を無感情という名の純粋さで包まれるのは決して悪い気分ではなかったのだ。
そして何よりも彼らを安堵させたのは、彼女が人間ではないということだった。人間ではないということは、つまり自分たち人間が彼女の全てを制御し、コントロールできるということである。故に彼女は彼らを裏切らない。アンドロイドは人間を第一に優先し、その命令に従うが、人間を害せよという命令にだけは従うことができない。
何が起ころうとも自分を害せない存在というものは、裏切りが蔓延る世界に生きる男たちにとって心地良く感じられたのだった。
つまるところ、梵天幹部陣がまとめて骨抜きにされてしまったのである───
「ふふ、それでは今日は皆で食事に行きませんか。たまには皆さんで集まるのもきっと楽しいですよ」
灰谷兄弟と三途が繰り広げる醜い争いを前にして、女の形をしたアンドロイドはくすくすと笑う。
それを見て、"やっぱりコイツ変わったな"と男は考える。購入した当初は無機質な表情しか浮かべなかったアンドロイドが今では人間のように笑うようになった。
「ナマエ」
幼い子供のような表情で笑うアンドロイドが此方を振り向く。
まるで花が綻んでいくように日々感情が豊かになっていく女の姿を見ては心に浮かぶ感情を何に喩えよう。今はまだその答えは見つからない。
♦︎
あってないような梵天の営業時間が終わった深夜二十三時、事務所に留まっていた幹部陣の一部とナマエは歌舞伎町のとあるバーの個室にいた。個室に置かれた三つのソファーは全て埋まっており、室内には五つの影があった。
「俺もナマエちゃんと座りてぇな〜」
「うるせぇ。クソ兄弟で仲良く座っとけや」
「あ゛?」
「あ゛ン?」
バーに訪れたのは事務所で事務作業をしていた九井とナマエ。そして仕事が終わった後、ナマエを食事に誘うため事務所に立ち寄った灰谷兄弟と三途の四人と一体だった。
入店後、ソファの座り順について揉めに揉めたが、ドラッグを服用してハイになった三途がナマエの隣を勝ち取った。すると後は自動的に灰谷兄弟が二人で一つを、九井が一人で広々とソファを使用することとなった。
「そういや、この前ナマエちゃんを殴った奴ってもうスクラップにしちまった?」
「ンなもん今日俺がスクラップにしたわ。あの野郎が生きてるって考えるだけで反吐が出る」
「っは〜〜〜…マジかよ。思い出したらイラついてきたからもっかい拷問しようと思ってたのによ」
口に咥えた煙草を深く吸い込むも苛立ちを抑え切れていない竜胆は、三つあるソファーの中央に置かれた丸いガラステーブルを落ち着きなく指先で叩く。
「……アンドロイドは"権利"を持たないから、アンドロイドに危害を加えた人間が裁かれることはない」
「はい。アンドロイドは人間の所有物ですので、基本的人権を持ちません。アンドロイドを破壊した人間には器物損壊罪として罰金刑や賠償が課せられることがありますが、暴行罪や殺人罪が適応されることはありません」
ナマエが淡々と述べた言葉に、場にいる全ての人間が眉を顰める。
正面に座る九井からの視線を感じながら、ナマエはまだ真新しいメモリーを呼び起こす。あれは、つい数日前の出来事だった。九井に頼まれた事務用品の使いっ走りのために事務所を出ていたナマエは、突如見知らぬ男に肩を掴まれ路地裏に連れ去られてしまった。そして、反アンドロイド派を名乗る男はナマエの至るパーツを鉄パイプのようなもので殴り続けた。幸い偶然路地裏を通り掛かった三途によって救出されたが、顔のパーツの損傷が激しかったためにメンテナンスが必要となってしまったのだった。
「だから俺がスクラップにしてやったぜぇ」
誇らしげに胸を張る三途に、ナマエはにっこりと笑って小さく拍手をする。
「はい、三途様のお気持ちをしかと受け取りました。私のためにありがとうございます」
「ナマエ……俺、頑張ってるよな…?」
「はい、三途様はいつも頑張っておられます」
「もっと褒めろやァ!」
「はい、三途様はいつも私のようなアンドロイドにも優しくしてくれて、スーツもよくお似合いでとても素敵です」
「……………おう」
「ンだこいつ。素面じゃねェくせに一丁前に照れてやがる」
ナマエに頭を向けてソファへと横になった三途の目元は惚けており、誰がどう見てもキマっていた。ナマエ以外の三人から蔑んだ視線を送られながらも、細くて繊細な指先に髪を梳かれた彼は満足げに夢の中へ意識を飛ばした。
「今日はペースが早いな」
まだ入店して間もないというのに意識を飛ばした三途を見て、九井が事もなげに言う。彼が口をつけているグラスの中身はまだ半分も減っていないことからも三途のペースの速さを見て取れる。
「ナマエ、狭くないか?こっちにきてもいいぜ」
意識を失った三途がソファを惜しみなく使っているために、ナマエは僅かに空いたスペースにちょこんと座っている。そんな彼女を見かねた九井は空いている自分の横を指差して席を移動することを奨める。
「それかそいつ蹴飛ばそうぜ」
斜め向かいのソファから長い足を伸ばし、三途をソファから蹴落とそうとした蘭をナマエは苦笑しながら制止する。ぐっすりと眠っている三途を穏やかな表情で見下ろしながら「いいんです」と言ったナマエにどこか違和感を覚えて、蘭はまじまじと彼女を見つめる。
「ナマエちゃん。それどうした〜?」
「それ……?」
「こめかみのリング。いつもは青色なのに黄色に点滅してる」
人間そっくりなアンドロイドを外見のみで区別する方法は二つある。一つ目はアンドロイド専用の制服から区別する方法。二つ目はアンドロイドのこめかみに埋め込まれたLEDリングから区別する方法だった。
先日ナマエに暴行を振るった男も、その二点で彼女をアンドロイドだと判断したのだろう。
アンドロイド法という法律によって、アンドロイドは外出時に専用制服の着用と、右のこめかみにLEDリングを装着することを義務付けられている。LEDリングはその色でアンドロイドの状態を識別でき、青は正常、赤は異常が、黄色は一時的な異常が発生していることを外部に示す。まさに今この瞬間、ナマエは一時的な異常を起こしているのだった。
「……………………………………………………現在の状態をスキャンしましたが、プログラムデータ及びメモリーの異常は発見できませんでした。許可をいただけるのであれば、明日メンテナンスを受けに行きますが」
「ああ、行ってこい。最近はナマエを働き詰めにさせてたしな。たまにはゆっくりするといい」
微かに柔らかい笑みを浮かべた九井を見て、心臓に似た機械が埋め込まれている胸元にじわりと温もりが滲むのをナマエは感じていた。するとこめかみに埋め込まれたLEDリングの点滅がより激しくなった気がして、ナマエは思わず額を指先で抑える。
「三途のカスにセクハラされたから異常起こしたンじゃねぇの」
「それな。ナマエちゃんかわいそ〜」
そんなナマエを気遣うように灰谷兄弟が彼女の肩を抱き、自然には伸びることのない髪を撫でる。彼らはその髪が無機質な物質で作られた紛い物であることを知っていたが、それでも尚、彼女のことを自分達人間の紛い物であるとはもはや思っていなかった。
感情もなく、ただ組み込まれたプログラム通りに動く綺麗な人形。人間の形を模しているだけの存在。確かにそう思っていた時期もあった。しかし、それは違った。何がナマエというアンドロイドを変えたのかわからない。ただ、いつからか彼女の中に感情と自我が少しずつ芽生えていることに彼らは気がついていた。
──それもプログラミングされた行動の一つなのではないか。もし誰かにそう問われた時、彼らはこう答える。「俺らは社会のゴミだが紛れもなく人間だ。作りもんとそうじゃないもんの違いくらい直感でわかる。それにあれがプログラミング技術で作れンなら、人間はもう必要ねェな」と。この時の彼らは知る由もないが、その"直感"は概ね正しかった。
なぜなら今から数年後、"変異体"と呼ばれる感情を宿したアンドロイド達が己達の権利を求め人間に反旗を翻すことによって、アンドロイドが感情を宿すことが公に発覚するからだ。その際、梵天を去ろうとするナマエと彼女を連れ戻そうとする男達の間で一悶着が起こるのだが、それは別のお話──
「蘭様、竜胆様、九井様」
そして、ナマエはナマエで、彼らが自分に向けている感情と、身に余るほどの幸福をこの身に受けていることを常に自覚していた。
アンドロイドは現在の社会において非常に立場の弱い存在だった。アンドロイドの登場は人間に富と利便さを与えたが、その一方で人間の失業率は急増し、貧富の差が拡大した。職を失った人々からは憎悪を向けられ、そうではない人々からは人間の紛い品として蔑まれているのがアンドロイドが置かれている現状だった。アンドロイドが人間に破壊される事件は日々増加し、一部ではアンドロイド排他運動が起きているという。
だから、ナマエは彼らに感謝していた。
「いつも私のような物にも優しくしてくれて、本当にありがとうございます」
彼女の浮かべている表情を見て、三人は驚きから目を見開く。
「……ナマエちゃんって、本当にアンドロイドだよな?」
「はい。社内サポート特化型アンドロイド、型番YM801です」
「一回ナカを見てもいー?」
「アンドロイドの開閉を許可されているのはロボット工学の試験を通過したセキュリティ責任者のみです。責任者の許可なく開閉した場合、セキュリティ装置が作動します」
「……兄貴、セキュリティ責任者ってどうやったらなれるんだ?」
「知らね」
────灰谷兄弟はのちに語る。
あの時のナマエが浮かべていた表情は、人間以外の何者にも見えなかったと。
♦︎
幹部四人とナマエが長い夜を楽しんだ翌日、出勤中の彼女は遠目でピンク色の髪の毛を見つけた。昨晩の様子から彼のことを心配していたナマエは、遠目で見えた背中にヒールをカツカツと鳴らしながら駆け寄る
「三途様、おはようございます」
「………おー」
質の良いスーツを着た背中を追い越し、彼の斜め前から声をかける。すると半目でじとりと睨みつけながらもいつもの罵詈雑言を浴びせてこない三途に、ナマエはおや?と首を傾げる。
「やはり今日はお元気が無いようですね。……ああ、昨晩お飲みになられたアルコールがまだ体に残っていますね。過度な飲酒は健康を損ないます。もちろん、いまポケットに入れられている薬剤も。今後は適量をお飲みになられた方がよろしいかと」
「うるせ〜……メモリー削除してやろうか」
そう言ってからアッという表情を浮かべた三途を見て、ナマエはおや?と再び首を傾げる。
「もしかして、昨晩私にお甘えになられたことを気にしているのですか?皆様の会社における環境をサポートすることがYM801型アンドロイドである私の使命です。頭を撫でろと要求されたことも、褒めてくれと要求されたことも、全て私のサポートの範疇です。ですからどうかお気になさらずに」
「だ〜〜〜〜〜ッッ、うッせクソプラスチック女が。メモリー消されたくなきゃその口閉じとけや」
わしゃわしゃと髪を掻き乱しながらエレベーターを降りた三途の白い頸はほんのりとピンク色に染まっている。そして、会社のサポート役アンドロイドとして体温測定機能を搭載しているナマエのセンサーは普段よりも僅かに高い三途の体温を感じ取っており、彼女は後で必要物資の差し入れをすることをメモリーに保存する。
──昨日無理をしすぎたせいで、三途様はお風邪をお召しになられたのかもしれない。大丈夫かしら。心配だわ。
そんなことを考えるナマエのLEDリングは赤色に点滅していたが、三途の体調に気を取られた彼女は自分の異常に気が付かなかった。
♦︎
三途様に差し入れをお渡ししてきます。そう言ってナマエが外に出てから随分と時間が経ったことに九井は気がついた。
先日の暴行事件のこともあり、三途なんかに差し入れるためにわざわざ出かけなくてもいいんじゃないか?と気遣う九井に、「そろそろ三途様が外に出かけられる時間ですので少しロビーまで出るだけです」と話していたはずだった。それなのに時計は彼女が部屋を出た時刻から既に半周しようとしており、いよいよこれはおかしいと九井はデスクから立ち上がった。
深呼吸をしながら徐にスマートフォンを取り出して彼女に埋め込まれているGPSを確認するが、その位置情報は梵天事務所と目と鼻の先の場所を示している。なんだ近くにいるじゃないかと安堵する一方で、何故また路地裏なんぞにいるんだと嫌な予感が九井の脳裏によぎる。
──ナマエ、お前がいなくなったら俺は今度こそ過労死するだろうが。
銀色の髪を靡かせながら事務所の外に出た彼の目に飛び込んできたのは、梵天の末端たちに取り押さえられて何やらを叫んでいる男と、蜂の巣になった車。後処理のことを考えて頭痛を覚えていると、慌ただしく部下たちが報告を上げに来る。どうやら現場に居合わせた者曰く、三途を襲撃した男はサプレッサーを取り付けた銃を使用していたらしい。なるほど。通りで自分の部屋まで銃声が聞こえなかったわけだと九井は納得する。
「三途さんなのですが、ナマエさんが……」
そして、部下が続けて話し出した報告を聞いた瞬間、九井はGPSの位置情報を頼りに駆け出した。僅かに息を乱した彼が路地裏で見つけたのは青い液体に染まる三途春千夜と、その腕の中で力なく横たわるナマエだった。
時は半刻前まで遡る。
梵天メンバー全員のスケジュールが自身のメモリーに入っているナマエは、三途がそろそろ外に出る時間であることを知っていた。だからこそ彼が外出するであろうタイミングを狙って梵天事務所の出入り口に向かったのだが、一足遅かった。ナマエがエレベーターから降りた時には既に三途はドアを潜ってしまっており、彼女は慌てて駆け出した。
そして、ナマエがドアを潜った瞬間。彼女の優秀なセンサーとAIはどこからか放たれた鉄の塊を察知した。
「三途様……ッッ」
事務所の前に停められていた車に銃弾が炸裂した音と、カンッと金属同士がぶつかったような甲高い音を聞いた三途春千夜は一瞬で状況を把握し、咄嗟に己の腰に巻きついていた細い腕を掴んで梵天事務所近くの路地裏へと逃げ込んだ。
「オイ、大丈……」
銃弾が届かないであろう路地裏の奥まで退避した三途は共に連れて逃げた女をようやく視界に留め、ギョッとした。先ほど聞こえた声は確かにナマエのものだった。だからこの細っこい腕は彼女のものだろうと三途は確信していた。そのため、自分に巻きついていた腕の正体がナマエであることには驚かなかった。しかし何よりも彼を驚かせたのは、ナマエの胸元にぽっかりと空いた空洞と、その空洞から流れ落ちる青い液体だった。
「は?お前、それ……ッ」
「はい。胸部部品の68%が破損しましたが、コア部分に問題はありません。自己判断ですが、パーツの取り替えによってリカバリー可能でしょう。三途様にお怪我はないようですね。ご無事で何よりです」
「〜〜〜〜ッ、なんで、」
己に搭載されたセンサーで狙撃対象であった人間の無事を確認した後、ナマエは安堵の笑みを浮かべる。
「なんで、庇った」
「YM801型のスペアパーツは現在も生産されており、破壊されたとしても問題はありません。替わりのパーツを持たない人間の盾になるのは当然のことかと」
「この、クソプラスチックがッ」
悲痛で顔を歪めさせる三途がなぜそのような表情をしているのか、ナマエには理解することができなかった。
ナマエはアンドロイドである。そして、三途春千夜は血肉を持って生まれてきた人間であった。アンドロイドはコアが破損しない限り、何度でも修復ができる。例え修復が不可能になったとしても、今の自分が宿している感情を移し替えることはできないが、自分と同じ姿形をしたアンドロイドを再び作ることができる。それは違う自分ではあるが、確かに自分でもあった。一方で、人間は一度壊れたら修復することができない。後遺症が残ったり死亡すれば、二度とその存在がこの世界に戻ることはない。自分はきっと、彼らを失うことに耐えられない。だから、アンドロイドである自分よりも、人間の──三途の命の方が重い。それはナマエにとって、例え天地がひっくり返ったとしても変わりようのない認識だった。
ふと、メモリー内に与えられている認識を再確認したところでナマエは気がつく。
──今の自分が宿している感情という言葉を、考えを、私はどこから学んだのだろう。これはプログラミングされていない思考のはずなのに。
カチ、カチ、とこめかみのLEDリングが荒々しく点滅する感覚がして、ナマエはゆっくりと瞼を閉じる。
「出血が……多すぎるようで……す……申し訳ありませ…んが…強制スリー……プモードに…移行し……ま…す」
「あ゛ァ!?あ、オイ!?」
糸が切れたように脱力した体は、その身から流れ続けている青い液体の中に倒れ込んだ。体外に排出されるとすぐに蒸発してしまうはずのそれが地面に溜まっているのは先程彼女が自分自身で述べたことが理由だろう。
「ハ、くたばっ……?」
血を流しすぎたアンドロイドは一体どうなるのか。人間のように死ぬのだろうか。それとも。その答えは至極シンプルだった。アンドロイドは出血多量では死なない。彼らは血液を全て失えば電源が切れるが、血液を補充すれば再び稼働する。それは自動車とガソリンの関係と理論的には似通っている。
しかし、これまでロボット工学やアンドロイドに一切の関心がなかった三途がそのことを知る由もなく。彼は青い惨劇を前に髪を乱雑にかきあげたり、おろおろと忙しなく首を振ったりして、目に見えて動揺していた。
情緒の乱れは外出前に飲んだ薬物による影響も大きかったが、そのことに気がついていない三途は喪失感を紛らわそうとさらに追いドラッグをする。カプセルが喉を滑り落ちていく感覚に酔いしれながらも、目を虚にさせた彼は地面に倒れ込んだ彼女を見下ろした。
「嘘だろ……?オイ、ナマエ……?」
アンドロイドは赤い血を流さない。流すことができるのは、彼らのボディにエネルギーと電子情報を循環させているブルーブラッドだけ。
仕立てたばかりのオーダーメイドのスーツが青く染まることも厭わず、三途は青い液体で濡れる地面へと力なく座り込み、女の体を胸に抱いた。
素面に近い状態の三途がアンドロイドを胸に抱いたのはこれが初めての経験だった。三途にとってアンドロイドは人間よりも処理が楽な、多少の無茶をさせても簡単には壊れない道具でしかなく、ナマエに出会うまでアンドロイドについて知ろうなどと考えたことがなかった。そして、天邪鬼な彼は素面の状態で彼女と接触をしたことがなく、彼が彼女の体に触れる時は常に理性を失い、泥酔し切っていた。
だから彼は彼女の体が普段から人間の女よりも少し硬く、冷たいことを知らなかったのだ。
「なァ、死ぬんじゃねぇ、ナマエ……」
彼女にとっては正常な状態を死後硬直だと勘違いした三途は、冷たい体に少しでも温もりを与えようと、彼女を抱く腕に力を込める。
「俺を置いていくなよ……」
三途春千夜はまだ知らない。ブルーブラッドを補充され、破損した部品を交換した彼女が次の日にはケロッとした様子で梵天の事務所に出社することを。
だから彼は青い液体を流し続けている胸の空洞から視線を逸らすことができないまま、九井一に背中を小突かれるまでその場から動くことができなかった。