「やっぱ埋めるか〜」

 時折、衣擦れの音だけが響いていた静かな室内。そこに突如降ってきたのは、恐怖の大魔王のような呟き。一週間に一度、いや三日に一度のペースで良いから、誰かこの人の気分の浮き沈みを予言してくれないだろうか。と、馬鹿みたいな現実逃避が頭をよぎる。

 悪魔のような兄弟との付き合いはかれこれ十年に及ぶ。華の女子高生であった時は彼らの一挙一動に対していつもおっかなびっくりしていたが、今となっては物騒な呟きにも慣れたものだ。何を埋めるかは知らないが、それくらいで動揺していたら反社の構成員なんてやっていられないのである。

 上司から言い渡された納期を厳守すべく一心不乱にキーボードを打ち続けていた指を止めて、ため息をつきながら眉間を指で揉む。物騒な発言に怯えることはなくなったが、彼らの気まぐれと思いつきからなる行動によって発生する後始末に関しては話が別で、猫の手ですら借りたいのが今の梵天──特に後方支援を担当している構成員ーの現状である。なんせ、犯罪行為の偽装工作と証拠隠滅から活動資金の管理、加えてフロント企業との折衝にいたるまで後方支援と名がつきそうな業務は大体九井さんをトップとした後方支援が得意な構成員たちに振り分けられるので。とにかく多忙の一言に尽きる部署であるため、余計な仕事を増やしてほしくないのだ。

 恐る恐る目線を上げる。青白く光るパソコンのモニター越しに見えたのは、すらりと伸びた足をローテーブルに乗せて、携帯電話を見つめる美丈夫──灰谷蘭さんだった。

 この顔面に釣られたことで、まさか数年後に反社会的組織で働くことになるとは高校時代の自分は露ほどにも思わなかった。もしもあの頃に戻れるのであれば、世間知らずで愚かだった自分に教えたい。興味本位で声を掛けようとしているのは花なんて綺麗なものではなく、頭のネジが緩んだ猛獣の兄弟であることを。

「そんなご飯行くか〜みたいなノリで物騒な話しないでくださいよ」
「……あ?飯食いたいのー?」
「違います」

 どこか眠たそうにも見える垂れ目がきょとん、と瞬きをする。そして、一呼吸置いて発せられた頓珍漢な言葉に、思わずげんなりする。

 反応に困るんですよ。なんて言いながら無理矢理に口角を上げると、物騒な独り言を呟いた張本人は虚無に向かってうっそりと笑う。自分一人だけの世界に浸って考え事をしているのだろうか。珍しいこともあるものだと首を傾げる。いつもであれば、「ノリが悪ィぞ」だとか、「お前から埋めてやろうか」だとか、本気か冗談かどちらなのか解らない反社ジョークが返ってくるのに。

 しかし、触らぬ神──ならぬ灰谷蘭に祟りなしである。彼が何も言ってこないのであれば、わざわざこちらから藪蛇を突く必要はない。再び自分の仕事に集中しようとしたその時、部屋の扉が無遠慮に開かれる。

「おつかれ〜っと。お、やっぱ兄貴ここにいた」
「竜胆さん、お疲れ様です」

 扉から姿を表したのは、蘭さんの弟である竜胆さんだった。

「よ〜竜胆。あれ、そろそろやるわ。埋めることにした」

 竜胆さんがソファに腰掛けて早々、蘭さんが携帯電話に視線を落としたまま口を開いた。さすがに簡潔すぎて伝わっていないのではと、思わず二人の顔を交互に見やる。すると、竜胆さんは思い当たる件があったのか神妙な面持ちで「――ついにやんの?」と低い声で呟いた。おお、さすが兄弟。以心伝心である。

「おう。にいちゃんに全部任せとけ」

 蘭さんの言葉に対して、竜胆さんは何も答えなかった。というよりも、何かを言おうとして、言葉を飲み込んだように見えた。

 シンと沈黙が落ちて、コーヒーをかき混ぜるスプーンの音だけが室内に響く。う、うーん。梵天幹部の中だと比較的口数が多い二人がこうも揃って大人しいとかえって不気味で、正直なところ関わりたくない。それに、こういう時の先輩たちと関わると碌でもないことに巻き込まれるし。経験則が私にそう告げている。そもそもどうして私の部屋で物騒な会話をするんだろう。別の場所でやってほしい。

 だがしかし。学生時代ならまだしも、いまは上司と部下の関係である。一応部下として上司をもてなすため、電気ケトルに水を入れる。私がシュワシュワと音を立てる電気ケトルを眺めている間も二人は神妙な顔つきで何かを考えこんでいて、本当に別の場所でやってくれないかなあとお湯を沸かし始めたことを後悔する。はあ、とため息を吐く。一応、相手は幹部なので来客用の、ほんの少しだけ高級なコーヒーにしよう。手に取った袋の封を開封し、コーヒーを淹れる。ティーカップを一つだけ並べたお盆を手に席へ戻ると、竜胆さんは「ん、サンキュ」とこちらに視線を寄越した。

「どうぞ」

 湯気が立っているコーヒーを竜胆さんに手渡すと、カップを受け取りながら薄紫色の両眼が意味ありげにこちらを見つめる。ゾッと嫌な予感がして、思わず一歩後ずさる。

「な、なんですか?埋めるとか埋めないとかの話だったらそういう物騒なことには、」
「お前にやらせるとは言ってねーだろ」
「そういう約束だもんな?」

 呆れた様子の竜胆さんと、目尻を下げて笑う蘭さんの表情は飴と鞭のようだった。――あ。これ、なんか嫌な感じだな。直感的にそう思った。
 
 彼ら兄弟と十年という時間を過ごして解ったことが二つある。蘭さんはすごく意地悪で、竜胆さんはすこし意地悪だということ。そして、つまるところ意地悪な彼らのどちらかが、あるいは両方がどことなく優しい時、それは二人が何かを企んでいるということ。

「あ〜。ま、ある意味埋めるのはお前かもな」
「ヒィ」
「ヒィなんてリアルに言う奴初めて見たわ」
「ぅ、ぎ」
 
 蘭さんに両頬を鷲掴まれ、左右に顔を振られる。ぐわんぐわんと揺れる視界にケラケラといつものようにこちらを小馬鹿にしたような顔で笑う二人が映り少し安堵する。よくよく考えたら蘭さんと竜胆さんはいつも嫌な感じだし、何かを企んでいる。だから深刻に考える必要はないと自分に言い聞かせる。

「で、飯はどこに行きたい?」

 元後輩兼、現部下で遊ぶのにも飽きたらしい。興味なさげに私の頬から手を離した蘭さんは飯行くぞと言いながら手早にジャケットを着込んで立ち上がる。彼に続いた竜胆さんもコーヒーをぐいっと飲み干して、ローテーブルへ乱雑に置かれていた車のキーと携帯電話を手に取った。

 食事のお誘いは私にも向けられていたらしく、腹減ったとぼやく蘭さんに急かされながら、慌てて自分の荷物をまとめる。そこでふと、今日の日付を思い出す。午後七時に差し掛かろうとしている時計から、デスクに置いていたカレンダーへ流れるように視線を移す。ああ、そういえば。今日はあれに行かなければならないのだった。

「すみません。今日は"家族"と食事をする予定なのでパスです」

 イタリアンがいいだの、俺はラーメンがいいいつも兄ちゃんに合わせてるだろだとか、やいのやいのしていた二人の動きがぴたりと止まって、シンと肌を突き刺すような痛い沈黙が室内に落ちる。え?何か、変なことを言っただろうか。だって私が──

「──あそ。まあお前が"家族"を優先するのはいつものことだもんな」

 そう。そうなのだ。私が"家族"を理由に食事を断るのはよくあることで、どうしてそれを今更咎めるのだろうか。薄紫色をした二対の瞳が責めるようにこちらをじいっと睨め付けて、心臓が痛いくらいに跳ねる。物騒な会話をした後にその表情を向けるのはやめてほしい、なんて願いが二人に届くはずもなく。

 怖い顔をした蘭さんが一歩足を踏み出して、腰掛けたばかりの椅子ごと後ずさる。梵天で働き出してからずっと使い続けている古い椅子のキャスターの金具がギシギシと鳴って、ボルトが緩んでいるのかもしれないと頭の片隅で考える。そんな取り止めのないことを考えられるほど、不思議なことに煩く跳ね続けている心臓とは反対に頭の中はとても穏やかだった。

 蘭さんが一歩踏み出す、私が後ずさる、一歩踏み出す、後ずさる。その度にキィーッとキャスターの金属が擦れる音が鳴って、蘭さんはハ、と小さく笑う。いや、この意味がわからない状況に対して笑いたいのは私の方なのですが──なんてことも、またもや言えるはずがなく。

 椅子の背もたれが壁にぶつかって、背中から腰にかけて僅かな衝撃が走る。そして瞬きすらする間もなく頭上に影が落ちて、恐る恐る顔を上げる。そこにいたのは絶対零度の表情を浮かべた──ではなく、普段と何ら変わらない笑みをにっこりと浮かべた蘭さんだった。

「は、え……?」
「ま、精々今のうちに親孝行しとけよ」
「……親孝行なんて言葉が蘭さんから出るなんて、明日、台風でもきます?」
「娘が反社なんて親父さんも泣いてるだろ」
「その反社に引き摺り込んだのは誰ですか」
「でも、満更じゃなかっただろ?」

 核心をついた言葉に何も答えられず固まった私の頭を柔らかく撫でながら、「じゃあな」と耳元で蘭さんが囁く。本当なら一構成員の立場としては幹部である二人をきちんと見送るべきなのだろうけど、蛇に睨まれた蛙のように身動きができなくなって、踵を返した二人の姿を茫然と見つめることしかできなかった。

「あ、九井に伝言な。しばらく俺ら忙しいから面倒な仕事振るなって言っといて」

 閉まりかけた扉から再び半身を室内に割り入れたのは竜胆さんだった。「アイツうるせーからお前から言っといて」と悪戯っ子のように笑う彼に、緊張していた喉が緩む。素直に了承すると竜胆さんがさらに笑みを深めたのを見て、ようやく肺の奥まで空気を行き渡らせることができた。

 ガチャンとそこそこ大きい音を立てて扉が閉まる。室内に残った気配は自分一人のものだけなのに、扉の向こう側に消えた二人が残した気配の余韻がやけに鼻についた。梵天という組織の社会的な立場上、窓を開けることは滅多にない。それでも鼻につく香りに耐えきれなくて、小窓を僅かに開けて外の空気を深く吸い込む。

 いつからか蘭さんと竜胆さんから血と汗の匂いが漂うことがなくなって、彼らからは常に人工的な香りがするようになった。実はお洒落な香水よりも、何も身につけていない泥臭い先輩たちの香りの方が好きだったと言ったら、二人はどのような反応をするのだろう。

 梵天が所有するビルの多くは都会のど真ん中に佇んでいる。木を隠すなら森の中、である。私に与えられた一室もそのうちのビルで、窓から見える景色はコンクリートと小さな青空だった。それなのに、どこからか懐かしい金木犀が香った気がした。

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