20240706 ニュクスの誤想02
それからロブ・ルッチに扱かれる毎日が始まった。血反吐を吐きながらエンエンと泣き叫んでも容赦なく蹴り飛ばされ、あまりの苦行から逃げようとしても一瞬で捕らえられ、再び身体が宙を舞った。
ならば殺るしかないと、無謀にもルッチに立ち向かっては返り討ちにされる日々がしばらく続いたある日。軟弱すぎるとぼやいたルッチに、冷たい風がふきあげてくる断崖絶壁へと突き落とされた。
あ、今日ここで死ぬんだ。それは確信だった。崖際から此方を見下ろすルッチの肩からハットリがクルッポーと言いながら空へと飛び立ったのがスローモーションに見えて、虚空に身を投げ出される浮遊感を他人事のように感じていた。
身体にかかる重力をどうすることもできなくて、崖の谷間から覗く深淵に向かって真っ逆さまに落ちてゆくと思った瞬間、どこか懐かしい倦怠感が体の中で膨らんで、パチンと弾けた。最後に見えたのは目を見開いたルッチの顔で、そんな顔もできるのかと状況に不釣り合いな感動を覚えながら、深く膨れ上がった闇に浸されるように溶けていった。
「おーい、ナマエーどこにいったんじゃー」
「本当にどこへ行ったのかしら。ナマエ、いるなら返事をしなさい」
聞き馴染んだふたつの声に呼ばれて目を覚ました。ルッチに崖から突き落とされて……それで?どうなったんだっけ。曖昧な記憶に唸りながら、自分を包む膜のような何かから脱出すべく体をがむしゃらに動かすと、すぽん!と何かを突き抜けて両腕と両足が外の空気に触れる。
「カク、カリファ……!」
カクとカリファは様々な年齢の孤児たちが住まう島の中では比較的歳が近いうえにどちらかというと大人しい気性をもつ三人であったからか、何かと大人は私たちをひとまとめで扱った。特にカリファとは振り分けられた部屋が一緒だったから、いつまで経っても帰ってこない私を探しにきてくれたのだろう。
「カリファ、そこじゃ!そこから声が聞こえた!ほら、そこに………………ナマエ?」
「…………ナマエ、かしら?」
「……いや、この腕の傷はまちがいなくナマエじゃ。わしが手当したからよう覚えとる」
「こういうときってどうしたらいいのかしら」
「わからんが、とりあえず引っ張ってみるか」
顔が見えなくても二人が困惑しているのがありありと感じられて、自分がとんでもない状況に置かれているであろうことを察する。
意を決したらしい二人の手のひらが腕に回されると両肩に負荷がかかって、ぐっと上へと引き上げられた瞬間、久しぶりに息を深く吸ったような感覚がした。何が起きたのか解らず目を白黒とさせていると、両側からカクとカリファが抱きついてくる。
「崖から突き落としたらナマエの姿が消えたとルッチがいうもんじゃから崖の下を探しとったのになんでこんなところにおるんじゃ」
「自力で崖から這い上がったのかしら」
不思議そうに首を傾げながら言葉を交わすカクとカリファの後方から、諸悪の根源であるルッチが歩いてくる。ざく、ざく、ざく、と珍しく足音を立てて歩いてくる姿にボタンを掛け違えたような違和感を覚える。
「近いうちにスパンダムさんがお越しになるらしい。用意しておけ」
「おいルッチ、崖から突き落とすのは流石にやりすぎじゃぞ。政府の人間から指示されとるとはいえ、ナマエが死んだらどうするつもりじゃった」
「カクの言う通り、ナマエの身体能力を考えると合理的な訓練とは思えないわね」
これは私の勘違いかもしれないけれど、いつも通りの澄ました表情の中に少しだけ申し訳なさが滲んでいるように見えて、やいのやいのとルッチに抗議するカクとカリファを両手で押し留める。
「うん、わかった。用意しておく」
「おぬし……もう少し怒ってもよいんじゃぞ」
「ナマエが良いのならそれでいいわ」
心配を通り越して呆れ果ててしまったらしいカクに背負われて、まろい背中の上でうとうとと微睡む。
スパンダムさんと出会うよりもずっと前の話だ。立って走れるようになった頃から始まった厳しい修行に耐えられず、私は毎日のように泣いていた。自分よりも体格の大きな子供に組み手で投げ飛ばされ、泥まみれになって動けなくなっているところを何度もカクに助けられた。弱いのが悪いと誰もが気に留めない中、カクだけが手を差し伸べてくれたのだ。修行なんて二度としない、ここから絶対に動かないと駄々をこねる私を引きずって帰り、風呂に投げ入れるのもいつしかカクの役割になっていたほどだ。
みんなが修行の時だけは残酷になってしまうのも、痛くて苦しい思いをするのも嫌いだった。けれどカクに背負われて帰途に着くのは密かな楽しみで、そのために辛い時間を乗り切ることができた。諜報部員としての素質もなければ六式のセンスもない私の支えだったのが、他でもないカクだった。
「あら。寝ちゃいそう」
「こやつは寝るのが好きなんじゃ。カリファも知っとるじゃろ」
「……ふふ、そうね」
「いまだに赤ん坊みたいなにおいがするし、赤ん坊の頃から何も変わらん」
「ほんとうね。甘いにおいがする」
「……?牛乳を煮詰めたみてェなにおいだ」
「クルッポー!」
むせ返るような昼間の暑さとは対照的に、夜は気温がぐっと低くなる森の空気は冷たく澄んでいる。それでもCP9となるべく育てられた子どもたちは寒さなど意に介する様子もなく、ルッチはやりすぎだとか、カクはガキに甘いだとか、取り止めもないことを話しながら湿り気を帯びた一本道を歩く。
頭上で交わされる会話に、起きていることがバレないように声を殺してひっそりと笑う。そんな私の思惑などカリファには全てお見通しのようで、蠱惑的な笑みを向けられたのがわかった。
鬱蒼と茂る苔むした森も、今日は怖くなかった。