20190902 透明な私と幸福論
石碑の前に花を手向け、静かに佇むゴトーの側に寄り添う。「ね、もう忘れようよ」という、私の声は彼の耳に届かなかったらしい。こちらに意識を向けることなく、俯きがちに石碑をじっと見つめる彼から返答はない。渦巻くような焦燥感と幸福感で、胸がはち切れそうだった。
ゴトーと視線を合わせようと、影が落ちた顔を覗き込む。虹彩さえ見える距離にある真っ黒な瞳は震え、唇は硬く結ばれている。――どうか、もう自責の念に駆られないで。全てを忘れて、未来を見てほしい。その切実な願いがゴトーに伝わるはずもなく、せめてもと眉間に寄った深い皺をほぐしてあげようと腕を伸ばしかけて、力なく下ろす。私はなんて無力なんだろう。結局、彼にしてあげられることなど、何一つ残っていないのだ。
正面から背後へ回り込み、私よりもずっと広くなった背中を抱きしめる。よくじゃれあっていた頃はもう少し細い体つきをしていたというのに、いつの間にこんなにも大きくなったのだろう。
抱きしめる腕にどれだけ力を込めても、ゴトーの意識は石碑に向けられるばかりで、その頑固さに思わずため息が漏れる。しかし、あの日からどこにも行けずにいる私も相当な頑固者で、私達はやはり似た者同士なのだと痛いほどに思う。
空を見上げると、太陽が燦々と地面を照り付けていて、いつのまにかまた夏になっていたことに気がつく。ああ、あの夏の日を忘れて欲しいと願い続けてもうどれだけの月日が経ったのだろうか。
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「ねぇ、さすがに暑すぎない?」
「おい、服を緩めるんじゃねぇ。ゾルディック家の執事としての矜持を持て」
「……はーい」
私がお仕えしているゾルディック家には、数多くの執事がいる。お仕えしている家族の性質上、執事の間には派閥のようなものが存在していて、直属とされている主の意思に沿って各々が行動し、その望みを叶える。さらに派閥の中でも行動を共にすることが多いペアがあって、私にとってのそれがゴトーである。
彼とは執事養成所からの付き合いで、同期が次々と殉職する中で生き延びた、数少ない昔馴染みだった。
「さて、今回のお仕事もささっと終わらせてゼノ様に褒めていただこっか」
「またお前はそんなことを言って……」
またゴトーの説教が始まったと肩を竦めた瞬間、肌を刺すような視線を感じて、何年もバディを組んできた相棒に背中を預ける。二人、かな。私の言葉に小さく頷いたゴトーの両手にはコインが握られている。既に戦闘態勢は整っているようだ。頼もしい限りである。「向こうは任せた」という言葉に頷き、二人同時のタイミングで地面を蹴る。
相手をした男は手練れではあったものの、能力の相性に利があったために、比較的早く戦闘を終わらすことができた。血振りをし、刀身を鞘に収めながらゴトーに視線を向けると、あちらもちょうど勝敗が決した所のようだった。絶命した敵に、ゴトーが背を向ける。そして、いつの日かから密かに焦がれ続けている瞳と視線が交差する。
「……ッ」
ゴトーの黒い瞳が大きく見開かれ、普段は冷静沈着を装う唇が何かを叫ぶ。なに、と違和感を言葉にしようとした瞬間、ぐらりと身体が揺れる。燃えるような熱が背中から一気に全身へ駆け巡って、背後から受けた衝撃のまま地面に倒れこむ。ドクンドクン、と心臓が痛いほどに跳ねる。全身に走る熱と痺れ、さらには倦怠感で指先すら動かすことが出来ない。唯一自由が効いた眼球を動かすと、状況を理解しきれていない私を守るようにゴトーが立っているのが見えた。
ゴトーが手を振り上げると同時に、噴水のように血を吹き出した男が地面へと倒れこんで、そこでようやく状況を理解する。どうやら敵は三人いたらしい。それも、陰がとびきり得意な。数メートル離れた先で絶命した男の瞳は空虚を映し、手招きするようにこちらを見つめている。
敵の殲滅を確認したゴトーが慌てた様子で振り向いて、膝をつく。ごめん、ドジしちゃった。そんな言葉を発しようとしたけれど声にならなくて、声の代わりに溢れたのは鮮血だった。
私を腕の中に抱き上げたゴトーが必死な顔で何かを叫んでいる。ねえ、ゴトー。そんなに怖い顔をして何を言ってるの。こんなにも至近距離にいるのに、目の前の彼が何を言っているのかさっぱりわからない。
パチパチと頬を数回叩かれ、なんてことをするんだと抗議をしようとしたものの、今度は眼球すらまともに動かすことが出来なかった。その時ようやく、自分の命が尽きかけていることに気がついた。私の頬を叩くゴトーの手のひらは真っ赤に濡れていて、相当な量の血液が流れ出している事を自覚する。
傷口を見なくても、出血の量からして酷い怪我であることがわかる。それなのに不思議と痛みは無く、ただただ強烈な眠気と悪寒に襲われていた。それは確かに迫り来る死の影であったけれど、眼球すらまともに動かせない今の私が死から逃れることは不可能に思えて、もはや抗おうとする気力は湧いてこなかった。
同期が次々と命を落とす中、執事としては長生きをした方である。それに、ゼノ様に救っていただかなければとうの昔に失っていた命だ。今更、命が惜しいと思っていなかった。それなのに。
唇をぎゅっと固く結び、眉間に皺を寄せるゴトーの顔を見ていると、冷たいように見えて実は心優しい彼よりも先に逝くことを悔やんだ。
頬に触れていたゴトーの指先が力なく落ちる。
──ねえ、そんな顔しちゃだめだよ
──私のことは過去に一瞬だけ道が交わっただけの人間として忘れてね。
──私たちが、今までそうしてきたように。
伝えたいことはたくさんあるのに、もう何も言うことができなかった。
まるで眠りにつく直前のように、少しずつ視界が暗くなってゆく。瞼が自然と閉じてしまったのか、それとも意識がフェードアウトしていったのか、どちらであるかはわからない。それでも、これが永遠の眠りであることは理解できていた。
──はずだったのに。
次に目を覚ましたのは周囲を草木に囲まれた静かな場所で、私はひっそりと佇む石碑に寄りかかって座っていた。
一体ここはどこなんだろう。不思議に思いながら周囲を見渡していると、不意に頭上から影が落ちて、反射的に見上げる。気配を全く感じなかったことにも驚いたが、それ以上に驚いたのはその影の正体だった。
「ゴトー?」と、思わず口にした同僚の名前は音として成立せず、空気を揺らすこともなかった。
何かがおかしい。それに、なにやらゴトーの様子に違和感がある。さっきよりも背丈が伸びて、随分と貫禄が増えたような気がする。
急激に大人びたゴトーを惚けながら見つめていると、前触れなく手を伸ばされ、思わず身構える。しかし、伸ばされた腕は身構えた体に触れることなく、すり抜けていった。いつのまに、そんな技を使えるようになったんだろう。
胸元に埋まるゴトーの二の腕をまじまじと見つめるも、そこに何かしらの技が発動している様子はない。
それならば。まさかと思いながら両手を広げて正面に突き出してみると、本来であれば見えないはずの風景が手のひらを透して見えていた。ゴトーが新しい技を身につけたんじゃない。私の体が透けているんだ。と、自覚すると共に、鮮血に濡れた記憶が蘇って、既に自分の身体がこの世界から消滅し、意識だけが残存していることを悟る。まさか幽霊が本当に存在していると、自分が死んでから知ることになるとは思ってもいなかった。
「……私のこと、忘れてくれなかったんだね」
どうやら、死の間際に強く願った彼の幸せは成就されなかったらしい。
あれからどれぐらいの時間が流れたのだろう。目の前に立つ青年は最期に見た時よりも大人びていて、ゴトーの見目と立ち振る舞いからは随分と時が経ったような印象を受けた。
「また来年もくる」と、喉の奥から絞り出したような声でゴトーが小さく呟く。その苦しそうな声音にどうしようもなく切なくなって、踵を返して歩き出した背中に「来年は来なくていいよ」と声をかける。
そして、まるで私の声が聞こえたかのようなタイミングで石碑を振り返ったゴトーが再度何かを呟いた。あまりにも小さすぎて聞こえなかった言葉をどうしても拾い上げたくて、「ゴトー?」と呼びかけたけれど、今度こそ彼が振り向くことはなかった。