20230613 地獄には笑顔の花が咲いている
ナマエは奴隷である。五つの頃、奴隷商人に捕えられて以来ずっと誰かの所有物として生きている。
一番目の主人は乳のにおいが残る幼女しか愛せない中年の男で、彼はナマエのまろい手足をこよなく愛した。骨の隆起が薄い手足に舌先を這わせ、小さな芋虫のような指をおしゃぶり代わりに扱う男は紛れもなく倒錯した嗜好を持つ人物であったが、ナマエに多くのことは求めなかった。
何かを求めるどころか、奴隷であるナマエに鉛筆とノート、さらには教科書を与えた上に家庭教師を雇い、知識を養わせた。そして、男は勉学に励む幼女を遠巻きに魅入った。
短い指が教科書を撫ぜてはノートを滑り、椅子に対して長さの足りない足がぷらぷらと揺れる度に、男はこれ以上ないほどのオーガズムを感じていた。時には足のにおいを嗅いで恍惚とする主人のことをナマエは幼いながらに気味悪く感じていたが、彼女は彼女なりに自分の主人を理解しようと努めていた。しかし、ナマエが主人の理解に至るよりも先に、男との生活は終わりを迎えることとなる。
男は言った。「私は年齢が二桁に乗った女性を愛せないんだ。だから君には悪いが、お別れだ」と。ナマエはようやくこの男から離れられると、清清した。晴れ晴れとした表情で別れを告げる彼女に対して、主人であった男は悲しみに打ちひしがれていた。あのまろくて柔らく、愛らしいの一言に尽きた手足が失われたことに対し、彼は心の底から嘆き、悲しんでいた。目の前に立つナマエの姿は幼女から少女へ成長し、すらりと伸びた手足が健康的で愛らしい。しかし、骨が隆起し始めた少女の肢体には、オーガズムを感じることができなかった。
そうして、ナマエは再びオークションに出品されることとなった。
二番目の主人は貴族階級の夫妻であった。
彼らには一人息子がいたが、彼は口数が少なく内向的で、ミドルスクールで友人を一人も作ることができない少年だった。同じ階級の子息達が集まるパーティーに送り出しても気が合う友人を見つけるどころか、あまりにも口下手な少年は社交界の笑いものになってしまった。そこで、夫妻はある程度の教養がある、息子と同世代の奴隷を買うことにした。貴族階級の子息や令嬢に粗相をすれば恥の上塗りになってしまうが、奴隷相手ならば息子がどれだけ粗相をしたとしても問題がない。
貴族にとっては外聞が己の命よりも重要である。
そうして訪れたオークションで、偶然見つけたのがナマエだった。前の主人によって読み書きを教えられ、容姿も悪くない少女。
若い女の奴隷は高額であったが、夫妻は同じくナマエを競り落とそうとしていた壮年の男に競り勝ち、彼女を落札した。
裕福な貴族階級に生まれた一人息子の遊び相手として宛がわれたナマエは予期せず訪れた平穏な暮らしに拍子抜けしていた。
オークションに商品として客前に出されるまで、ナマエは奴隷が何十人も押し込められた密室にいた。そこには奴隷商人に連れ去られてやってきた者もいれば、親に売り飛ばされた幼い子供もいた。中にはナマエと同様に主人に捨てられた奴隷もいて、それらは各々の身の上話に興じていた。そこで彼女が聞いたのは、奴隷を鞭で打ち付けて暴虐の限りを尽くし、女奴隷を夜な夜な辱める主人達の話であった。彼らは纏っている衣服を躊躇なく脱ぎ去り、暴力の痕跡を衆目に晒した。
とある男奴隷の日に焼けた背中には薄くなりかけた傷痕。そして、それらを上書きするように痛々しく浮き上がる蚯蚓腫れ。彼曰く、オークションに送り出される前、選別として百叩きの刑を与えられたという。それを聞いたナマエはぞっと肌が粟立った。顔色を悪くして青ざめた彼女に、男奴隷は言った。「怖がらせて悪いね。君は当たりの主人の元にいたようだから、次も当たりだといいな」と。
男奴隷の淀んだ瞳に正面から見つめられたナマエはふと周囲を見渡した。そして、幼女趣味の男が創った箱庭でぬくぬくと育てられた彼女はようやく気が付いた。奴隷の中にも身なりの違いがあり、格差があることを。そして、レースがついた仕立ての良いワンピースを身に着けている女奴隷は自分だけであることを。
自分がどのような主人に買われ、どのような虐遇を受けるのか。考えれば考えるほど、ナマエは恐ろしくて堪らなかった。あの気味が悪く、ついぞ理解することができなかった主人を恋しく思うほどだった。
しかし、幸運なことに、再びナマエは男奴隷の言う“当たり”の主人の元へ身を寄せることとなった。それが貴族階級の夫婦であった。
今度こそ主人に見切りをつけられないよう、ナマエは自分に与えられた役目を必死にこなそうとした。奴隷を物のように合理的に敷き詰めた、饐えた臭いがするあの部屋にはもう二度と戻りたくはなかった。
だから彼女は自分と目を合わせようともせず、同じ場に居合わせただけで踵を返して走り去ってしまう少年に根気よく話しかけた。時には自分よりも一回りは大きい少年に突き飛ばされ、手のひらを擦りむいたり、捻挫をすることもあった。さらに、いつまでたっても少年の心を開くことのできないことを夫人から叱責され、折檻されることもあった。しかし、あの部屋で奴隷達から聞かされた恐ろしい体験に比べれば、それらはとても些細なことに思えた。
ナマエにとっての救いは、一家の長である子爵が穏やかな男であったことだった。癇癪玉のように叱責する夫人を宥め、お前はよくやってくれていると奴隷の少女の髪を梳いた。
ナマエは多少の苦難はあれど、平穏すぎるほどの生活を送っていた。前の主人が彼女のために誂えていた衣服や環境に比べると質は落ちるが、それでも奴隷に与えるにしては十分すぎるほどの生活を与えられていた。
ナマエは少年の友人として買われた奴隷であったが、屋敷の中ではナースメイドに近い立ち位置にいた。そのため、ナースメイドの上に立つナニーから教えを請い、屋敷内の仕事に従事していた。ナマエの上位の職にあたる女はナニーらしく母性に満ち溢れていて、まだ十歳になったばかりのナマエを哀れみ、慈しんだ。少年に袖にされ、落ち込んで使用人の部屋に帰ってくるナマエを慰め、額にキスをした。
指をおしゃぶり代わりに扱う分厚い舌でもなく、よくやっていると褒める無骨な指先でもなく、はたまた自分の頬を苛烈に打つしなやかな手のひらでもない、柔らかな感触。指先は水仕事のためか少しかさついていたものの、今まで触れたことのない優しい手のひらと唇だった。それはナマエが生まれて初めて触れた母性であった。
貴族の少年に、奴隷の少女。二人の子供を我が子のごとく慈しんだナニーの女であったが、彼女の母性はとどまるところを知らず、ついには屋敷の主人である子爵にまで及んだ。
労働階級が暮らす家に比べれば広い屋敷であっても、狭いコミュニティの中で秘密を隠し通すことは酷く難しい。
男主人とメイドの爛れた関係は直に女主人の知るところとなり、ナマエに下心なく慈しまれる安心感と、他人を失望するという感情を教えた女は屋敷を追われることとなった。
そして、母のようであった女が去って幾ばくかたった頃、ナマエは再びオークション会場のステージに立っていた。貴族の子息である少年を誘惑したとして、彼の母親に忌避されたためであった。それは事実無根であり、まったくもってナマエには身に覚えのない罪であったが、夫人は夫が使用人の身体に溺れたことを忘れられずにいて、まさに女性の身体へとその蕾を咲かそうとする少女は己の家族を堕落させる悪魔でしかなく、ナマエを屋敷から追放することにしたのだった。
屋敷からオークション会場へ移される馬車の中でナマエは自分の人生に嫌気が差し始めていた。前の──いや、前の前の──一番目の主人に買われた時、男はナマエを五歳だと言った。だから五歳の時に奴隷になったものだと思い込んでいたが、実際のところは自分が何歳であるのか、どこから拾われて──もしくは攫われてきたのか、ナマエは何も知らなかった。そして、自分の名前が本当にナマエであるかすら怪しかった。もはやこの世の全てに対してうんざりとして溜息をつけば、ブローカーの男に平手で頬を打たれ、勢い余ってドアに頭を打ち付けた。大きな音に馬車の中を覗き込んだ御者の男も一方的な暴力を諫めるわけでもなく、「売り物にならなくなるから顔はやめとけよ」と吐き捨てる始末であった。
オークション会場に関する記憶の中で最も強烈に印象を残っているのは、垢と膿んだ傷口から発せられる饐えた臭い。そして、まるでパズルをはめるように合理的に格納された奴隷達の淀んだ瞳だった。これから自分の身に起こるであろう絶望を思い恐怖に染まる瞳と、全てを諦めたような瞳。今の自分がどちらの瞳をしているのか、ナマエには解らなかった。しかし、ナマエは自分が"当たり"の奴隷人生を送っている自覚があった。だから自分の不遇を嘆くことは罪であるような気がして、今はただただ次の主人も"当たり"であることを願うばかりであった。
三番目の主人は、記憶にある顔だった。ナマエは頭の中で少し逡巡した後、二回目のオークションの時に貴族夫妻と競り合った壮年の男であることに気が付いた。とんだ偶然だと考えていると重量感のある首輪の鎖を引かれ、新しい主人のそばに引き寄せられる。
一番目の主人も、二番目の主人も、これ見よがしにトロフィーや王から下賜された記念品を飾っては、客人にそれらをひけらかすことを好んでいた。新しい主人も競り落とした新しい奴隷を富の象徴だと言わんばかりに見せびらかしたいのだろう。自分がこの場におけるトロフィーであることは理解していたため、ナマエは大人しく新しい主人に付き従ったが、男がナマエの顔をじいっと見つめていることに気が付いて、言いようのない不快感に襲われた。するりと腰を撫ぜる男の手つきがどうも気持ち悪い。
腰と臀部をつたい、オークション会場に着くなり着替えさせられた太腿までしか長さがないスカートの中に男の手が差し込まれた時は悲鳴が出そうであったが、ナマエはそれをぐっと飲み込んだ。しかし、気付かぬうちから飲み込み続けてきたそれは既に決壊寸前でもあった。
――どうして奴隷として生きていなきゃいけないのか、解らない。五歳より前は、一番目の主人に買われる前はきっと奴隷なんかじゃなかったはずなのに。私はどういう人間で、どこから来たのだろう。父親と母親はいたのだろうか。屋敷を追われたナニーのように額にキスをして、抱きしめてくれた人はいたのだろうか。ナニーと手をつないで外に出た時に見かけた子供達のように、無邪気に遊んでいたことはあったのだろうか。あったらいいのに。きっと、ないんだろうな。でも、自分を愛してくれる人がいなくても、子供らしく生きることができなくても、私は“当たり“らしい。もっと辛い環境で奴隷として生きている人もいる。あの男奴隷のように。じゃあ自分の人生を悲しむことは罪なのだろうか。本当に?いっそのこと一番目の主人に与えられた教養も、ナニーに与えられた感情も、知らなければ辛くならなかったのだろうか。解らない。何も解らないし、解りたくもない。誰か、私のことを解っている人がこの世界に存在すればいいのに────
目から零れ落ちそうな何かを我慢しようと口元に力を入れた瞬間、大きく会場が揺れた。
それは、食いしばっていた歯が折れそうになるほどの衝撃だった。一瞬、何が起きたのか理解ができなかった。パラパラと崩れ落ちてくるオークション会場の破片と、隣に座っていた新しい主人が崩れ落ちるほどの地響き。勿論ナマエも無事ではいられず、膝から崩れ落ちた拍子にバランスを崩し、先ほどまで立っていたステージまで一直線に階段を転げ落ちてしまう。
下半身から落ちたおかげで腕は無事であったものの、接地面となった踵と臀部が痛む。痛みを逃がそうとうんうんと唸っていると、「なにか降ってきたね」「なんだこいつ」「メイド服……?」と頭上から声が降ってきて、反射的に姿勢を正して顔をあげる。そこには黒い服やらジャージやら、はたまた眼鏡をかけた若い女性やら、どういった属性の集団なのかいまいち読めない男女がいた。しかし、このオークション会場にいるということは奴隷を買いに来た富豪であることに間違いなく、ナマエは慌てて立ち上がって頭を下げる。
「名前は」
しばしの沈黙の後、頭上から言葉を落とされる。
「ナマエ、です」
顎に指を添えられて、床を見つめていた視線が男と絡む。
いつの間にか、多種多様な服装をした男女の姿は消えていた。
「ファミリーネームは」
男の額には、いつか本で見たマークがあった。
「わかりません」
一番目の主人に教養を与えられた時に見たそれが何を意味するものであったか、もうナマエは思い出すことができなかった。
「多分、五歳の時にはすでに奴隷だったので、それより前のことは記憶にないんです。もしかしたらファミリーネームもあるかもしれな──」
話しすぎたと、ナマエは背筋に氷水を浴びたようにぞっとした。奴隷の身の上話を聞きたがる富裕層の人間は少ない。奴隷は尋ねられたことだけを簡潔に答えれば良いのだ。聞かれていないことを話す必要はない。しかし、目の前の男は気分を害した様子もなく、それどころか言葉を途中で飲み込んだ彼女をきょとんと不思議そうに見つめていた。
「ああ、無理に思い出す必要はない」
顎に添えられていた指が名残惜し気に頬をなぞった後、ナマエの腕を掴む。
「行こう。――ナマエちゃん」
歩き出したその足並みは緩やかであるのに、どうしてか彼に手を引かれて駆け出したような気がして、柔らかい毛並みの真っ赤なカーペットは足元が悪いゴミ山のように感じた。しかし、数歩歩き出したところで自分が壮年の男に買われたことを思い出して、ナマエは自分が転げ落ちてきた階段の上を見上げたものの、いつの間にか新しい主人の姿は消えていた。
「大丈夫。オレについてきて」
首だけで振り返って、男が目元を緩ませた。それを見て感じた感情が何であるか、ナマエには解らない。ナマエには解ることのほうが少ない。ただ、間違いなくその瞳には既視感があった。
慈しみ、哀れんでくれたナニーの女が自分を見つめていたそれのような。
「クロロ!もう撤収の準備できてるよ」
ステージの端から姿を表した青年が、ナマエの腕を引く男に向かって手招きをする。
クロロ。
それが彼の名前だろうか。きっと、そうなのだろう。黒い後ろ姿を見つめながらその名前を舌の上で転がしてみると、悲しいほどに懐かしい響きがした。