「ワハハハハハ、よくやった!」
ルッチに崖から突き落とされ、行方不明となった事件からはや一週間。あの日ルッチが言っていた通り、スパンダムさんがグアンハオに訪れた。聞かれてはまずい会話なのか、彼と共に下船してきた数人の黒服は少し離れた場所で待機している。
「それこそまさに文献に記されていた能力じゃねェか!その力があればどこにでも潜入し放題、諜報し放題ってわけだ!ダーッハッハッハー!」
きっと、私が読解できなかった部分に書かれていた内容なのだろう。スパンダムさんは私の持つ能力についてより詳細に知っていたらしい。崖から落ちても無事だったのは、その力に助けられたからだったのだ。ルッチの報告をスパンダムさんと聞きながら、あの不思議な感覚は能力によるものだったのだと腑に落ちる。
「よくやった。さすがルッチだ」
「では俺の謹慎は」
「とにかく!能力が実在すると分かったんだ。あとは自由自在に操れるようにならねェとな。引き続きしっかり励むように!なーんてなワハハ」
サイファーポールの諜報員が忙しいという言葉は嘘ではなかったのだろう。話が済むと早々に再び世界政府の連絡船へ乗り込んで島を去っていったスパンダムさんの背中をルッチと見送る。
青海を切り裂きながら遠く離れてゆく船を恨みのこもった目で見つめ、ギリギリと歯を食いしばるルッチが突然こちらに向き直ったと思えば、「いくぞ。徹底的に鍛え直してやる」と私の手を引いて歩き出す。
慰めてあげようと思ったのに残念だと思いながらルッチの背中に向けて正拳突きを繰り出すと、まるで後頭部に目がついているかのような動きで避けられる。
その日の修行で二度目の走馬灯を見たのは言うまでもない。
**
生傷が絶えない日々が続く中、CP9の諜報員であるジャブラがグアンハオへ訪れる日が私にとって唯一の休息日だった。ジャブラはスパンダムさんの父親、スパンダインCP9長官の命令で私とルッチの様子を確認しにきているらしい。
「厨房で働いてるリジーがジャブラのことかっこいいって言ってたよ」
「オイ、それは本当か」
「うん。だからルッチを倒してもっとかっこいいところをみせたほうがいいとおもう」
ルッチとジャブラは相性が良くない。だから誰それがジャブラをかっこいいと言っていただとか、あれこれと世辞を並べてジャブラをおだててルッチに嗾けてやれば、二人は小競り合い始める。その間私はゆっくりと羽を伸ばすという魂胆だった。
しかし、今日はいつもとは違った。たまには俺が修行を見てやろうなんてジャブラが気まぐれに言い出して、動きが悪いだとか反射が鈍いだとか、ルッチ以上に苦言を呈するジャブラの気が済むまで修行に付き合わさせられた。
「そこは避けずに殺り返した方が良いだ狼牙!お前はよォ、筋は悪かねェが……相手のタマを取ろうって気概が足りねェように見える。お前、このままだと一発で標的を仕留められねェぞ。本気でおれを殺す気でこい!」
ジャブラは意外にも教え方が上手かったので、そこで終えることができていれば実のある修行になっていただろう。しかし負けず嫌いのルッチが張り合い始めた上、ジャブラもその挑発に乗るものだから、二人に解放された時にはいつにも増して目が当てられない姿になっていた。
「ぅえ、ひっく、ええーん……」
「今日もひどくしごかれたのう。ん、血で髪の毛が固まっとる。あいつらナマエを殺すじゃなかろうな」
ルッチやジャブラとは違う、小さな手のひらが血で固まった髪の毛を解す。時折ぶちりと毛根から根こそぎ引き抜かれた音がするけれど、それは聞かなかったことにして頭を洗われる感覚に浸る。
「もうどうにもならん。お湯につけておけばそのうち取れるじゃろ」
「ぶぎゃっ」
膿と混ざり合って固まった血にとうとうお手上げとなったらしいカクに浴槽へ投げ入れられ、顔から水面に飛び込んでしまう。
「げほっ、ゔ……っ、さいあく」
「CP9になるならこれくらい受け身を取れるようにならんと」
「……」
「お決まりのだんまりじゃな。ほら、隅によれ」
ぶくぶくとお湯に沈んでいると、カクが縁を跨いで浴槽に足を踏み入れてくる。人間一人分の体積が増えたことによって水位があがって、浴槽に収まりきらなかったお湯が溢れ出て排水口を鳴らした。
「お前さんはいつまで経っても赤ん坊のにおいがするのう」
「カクと一歳とか二歳くらいしか変わらないもん」
「何をいう。もっと離れとるわい。おぬしがおくるみでぐるぐる巻きにされてた頃を知っとるんじゃぞ。わしの見立てが正しければ五つは違うはずじゃ」
私の頭に鼻先を埋め、スーッと深く息を吸ったカクから距離を取ろうと水を蹴る。しかし、脇を掴んでぐっと引き寄せられ、わずかに開いた距離が再び閉じられる。
「でも最近は血と膿んだにおいばかりじゃのう」
カクの指先が髪を解くたびに透ける水面へ赤が混じっては溶けてゆく。暖かいお湯と優しい手つき、そして穏やかに流れる時間にうとうとと微睡む。
こんな時間がずっと続けば良いのに、という願いが断ち切られたのはそれから数年後のことだった。
ついにカリファがCP9に召集され、憧れの一人部屋を手に入れた頃。いつのまにか私とカクはグアンハオの古株になっていて、子どもたちの中における立場は大きく変わっていた。歳が大きくなるほどに与えられる島での役割が重くなって、年少の子どもたちから頼られることも多くなる。周囲を取り巻く環境は変わり続けていたが、真綿で包まれるようなカクとの関係は変わらずにいた。
その日も修行終わりにタオルと着替えを持ち、カクを連れ立って浴室へ足を運んでいた。
組み手の時に投げ飛ばされて背中から水たまりに落ちた話をしていると、いつもであれば横に並んで歩くカクの姿が見えなくなったことに気がつき、足を止めて振り向く。泥でべちゃべちゃだから早く行こうと急かしながら、目深に被られた帽子の影を覗き込む。するとそこには嬉しさと悲しさが複雑に入り混じったような笑みがあって、初めて見る表情に一瞬呆然と言葉が出なかった。はっと我に返り、一体何があったのかと尋ねるとカクは意を決した様子で口を開いた。
「のう、ナマエ。そろそろ一人で風呂に入れるようになったほうがいいと思うんじゃが」
ガビーンと顎が外れそうなほどに驚きながら、恐る恐るその理由を尋ねる。当たり前のように続いていた習慣だったけれど、カクからすれば子守りを押し付けられているようなものだ。ずっと面倒に思っていて、けれどカクは優しいから言い出せなかったのだろうか。緊張で息を呑みながらカクの言葉を待つ。
「わしは直にグアンハオを離れる。……わかるじゃろう。そういうことじゃ」
直接言葉にされずとも、その意味を理解することができた。ここの子どもたちがグアンハオを生きて発つ。それは世界政府の諜報員としての独り立ちを意味していた。手のひらが紅葉のように小さかった頃から一緒にいた。だから、カクの血が滲むような努力を知っていた。そして、諜報員として天性の素質を持っているカクがいつか私を残してグアンハオを旅立つことを覚悟していた。それでも。
「どうして泣くんじゃ……。のう、ナマエ。兄貴分の門出を祝ってはくれんか」
「ずっ、ずび、ぉ、お゛め゛て゛と゛う゛ッッ」
「なんじゃあその声は。最後の最後まで仕様のないやつじゃのう」
「だっで……ゔっ……ずび、ずび、ぶべっ!」
「おい、鼻水をつけるな」
物心がついた頃から――ひょっとしたら私が赤ん坊だった頃からそばにいてくれたかもしれない人との離別を悲しく思わないわけがなかった。
「お前さんはいつも泣いてばかりじゃなあ」
困り果てたような、それでいて絞り出すような優しい声でそう言って、カクは私を抱きしめた。
少しでも暖を取ろうと他人の体温を求め、ぎゅうぎゅうとくっついた真冬の朝。厳しい修行でボロボロになって歩くことすらままならず、えんえんと泣きながらカクの足に腕を巻きつけた夕方。そして、枕とタオルケットを胸に抱いて、忍び足でカクのベッドに潜り込んだ夜。たくさんの思い出が頭によぎって、涙が止まらなかった。寂しさを堪えられない私は諜報員の候補生として失格だろうか。
自分を抱く身体にギュッとしがみつき、硬い胸板に顔を埋める。そこであることに気がついて、目の前に在る身体に目線を落とす。――カクは、こんなにも大きかっただろうか。毎日のように一緒にいたから大きな変化を見落としてしまっていたのか、もしくは自分の目を閉ざそうとしていたのか。
カクの腕は私の身体をすっぽりと覆ってしまえるほどに長く、背中を撫ぜる手のひらは骨張っている。そして、いつのまにか大きく開いてしまった目線の高さは、グアンハオの森を自由に駆け回る子ども時代の終わりをまざまざと私に突きつけていた。
「新入りのちびたちの面倒をよくみとることも、夜の森で修行しとることもよーく知っとるよ。お主なら大丈夫じゃ。サイファーポールで待っててやるからのう。わしだけじゃない、カリファもじゃ。じゃから早くこい、ナマエ」
そんなやりとりをした数日後、カクはグアンハオを発った。「ま、これでわしもようやく子守から卒業じゃなワハハ」と言い残して世界政府の連絡船に乗り込んだカクの顔には憂いはなく、朗らかとしていた。
それが、グアンハオで見たカクの最後の姿となった。
海を一望できる岸壁から、カクが乗り込んだ船の航走波を眺める。ぷらんぷらんと空を切っていた足の動きを止めて両膝を合わせて座ってみるも、なぜか胸が焼けるような焦燥感に駆られて、髪を掻き乱しながら地面へと倒れ込む。
謹慎が解け、CP9の任務に戻ったルッチの顔を久しく見ていないから、当然カクやカリファとも顔を合わせることは当分ないだろう。それどころか、私がCP9に召集されなければ永遠に会うことができない可能性だってある。それは、さびしいな。
手綱を握るだとか言っていたスパンダムさんからもしばらく音沙汰がないし、私の知らないところでこの島で飼い殺しにする決定がくだされていてもおかしくはない。処分されずに命があるだけマシなのかもしれないが。
全身から力を抜いて、身体を押し潰すような倦怠感に身を任せ、緩慢な動きで目を瞑る。すると世界が反転して混沌と真っ暗な深淵が広がって、遠いところまで落ちてゆく。この感覚を知っているのは、きっと世界広しといえど私のほかいないだろう。この生まれ持った力は、感覚を身体に刻みつけることさえできればそこから会得するまでは早かった。だから、六式もやってやれないことはない。そう思いたかった。
今となっては自由自在に操れるようになった力で影に沈みながら、ぼんやりと考える。私はこの力を使って何ができるのだろう。どうやったら、彼らに追いつくことができるのだろう。
思考の波に呑まれて真っ暗な世界から抜け出せない私とは対照的に、清流のような気をもつカクの門出に相応しい青はどこまでも澄み渡っていた。
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