#20260809 空蝉

#1

 始皇四年某日。大きな戦からしばらく経ち、国境では小競り合いばかりが続いている。

 今日も営中では、定例通り軍議が開かれていた。騰様と録嗚未様の軽口が飛び交い、たびたび話が脱線して笑いが起きる。戦況は膠着しているから新たに議して定めることもなく、早々にお開きとなりそうな雰囲気が流れていた。

 天はよく晴れ、風は穏やか。今日こそ水浴びをしよう──そんなことを考えた矢先だった。営門の外へ視線を向けると、砂煙を巻き上げて駆けてくる一騎の早馬が見えた。

「騰様、咸陽からの早馬のようです」

 私が言葉を発したのと、使者が営門に飛び込んできたのはほとんど同時だった。咸陽からの使いといえど、将軍の営中に飛び込んでくる無礼に息を呑む。しかし、使者が次に告げた言葉は、その無礼を吹き飛ばすほどの衝撃をもたらした。
「趙国宰相、李牧が咸陽に至けり。──騰将軍、そして軍の皆々は即刻咸陽に帰還せられよ」

 いくら急げど、足並みは乱さないのが軍というものだ。騰様を中心に整えられた隊列は美しい。しかし、焦燥は如実に隊列へ表れる。誰もが焦りを隠せずにいた。幸い、王都近郊に布陣していたから、咸陽への道のりは短いはずだった。それなのに、帰還を急く思いの前では、まるで果てしなく伸びる道のように感じられた。
 
 咸陽の城門をくぐるや否や、録嗚未様の邸へと馬を駆けさせる。邸に着くなり下男に愛馬を預け、一刻も早く王宮へ馳せ参じたい衝動を押さえながら、無骨な鎧を脱ぎ捨てた。戦時でもないのに鎧姿で大王様の御前に立つわけにはいかない。急ぎ身支度を整え、正装である深衣を身に纏う。
 鎧よりも身軽になったはずなのに、胸の奥が締め付けられるような感覚がする。身体中に渦巻くのは、怒りと憎しみ、そして焦燥。それでも王騎様の名を辱めないため、どうにかなってしまいそうなほどに逸る胸を抑え、平静を装って王宮へ歩を進めた。
 
 王宮はいつも以上に騒がしかった。騰様と軍長の背を追い、王の権威を悠然と示す大階段を踏みしめる。どうしてか、階段を一段と上がるたびに、王騎様の声が遠のいていくような錯覚に襲われた。あの日からずっと耳の奥に残っていた笑い声が、まるで私の手の届かぬ場所へ消えていくようだった。
 
 視線を上げれば蒙武将軍の姿もあり、秦国中から名のある武人が招集されたことが一目でわかる。つまり、それだけの一大事なのだ。王騎様を謀り、討ち取った男──李牧が、秦国に現れるのだから。

「ナマエ」
「はい、騰様」
「そして、録嗚未」
「……ああ」

 何やら話し込んでいる昌平君様と飛信隊の二人を横目に追い越し、階段を上がり切ったところで最前を歩いていた騰様が振り返る。その真剣さを帯びた表情に、名指しされた私と録嗚未様は息を呑んで次の言葉を待つ。

 例えばの話だ。もしも騰様が、李牧を討ち取れと命じてくださるのであれば。私はこの首と引き換えにしてでも剣を抜く。たとえ、誰かに石を投げられたとしても。

「剣を抜くことを固く禁じる。これより先で誰が何と言おうとも、だ。――我が軍の中で取りわけ血の気が多く、思慮に先んじて手が出る二人に命じます。わかりましたね。コココココ……」

 思わず録嗚未様と顔を見合わせ、同時に肩の力が抜けた。張り詰めていた体が一気に脱力したのがわかった。そうだ、そうなのだ。騰様は、……王騎様は、私に復讐を命じない。それが戦場でないのならば、尚更。けれど、私は。
 胸の奥で煮え滾る怒りと痛みを、無理やり飲み込む。
 是と答え、両手を胸前で組み、深く一礼する。その一言に、怒りも悲しみも、胸に巣食う感情の全てを封じ込めて。
 騰様は納得したのか、踵を返し、再び王殿に向かって歩き出した。


#2

 李牧一行が王殿に姿を現した瞬間、私は腰に差した得物に手を伸ばしかけた。王騎様の仇討ち──それだけが理由ではない。奴の纏う武の気配が、目には見えない刃となって肌を撫でる。武人としての本能が、敵を知覚した瞬間にざわめいた。柔らかな笑みや上質な衣では隠しきれない剣気と、武人として鍛え抜かれた肉体の気配に、体が反射的に迎撃の姿勢を取ろうとしたのだ。
 隆国様に視線一つで制され、ぎこちなく姿勢を正す。

 王殿の中には、廷臣の他にも王騎様と浅からぬ縁を持つ武人達が居並んでいる。熟練した武人にしか放てない殺気に近い圧迫感。場の空気は息苦しいほどに張り詰めている。その中心に立つのは、呂不韋丞相と李牧。

「趙国宰相、李牧です」
「秦国丞相、呂不韋である」

 二人が言葉を発した途端、場の空気がさらに重く沈んだ。武の心得を持たない者であれば、膝をついてしまうかもしれない。肌を刺すような雰囲気の中、二人は平然とした様子で視線を交わす。

「李牧殿は宰相になられてまだ一年ほどであろうが、いかがかな」
「正直言って息苦しいのひと言ですね。私は本来人の上に立つような人間ではありませんので──」

 国家だの民だのを任されるのは重荷だと語る李牧に、胸の奥で黒い炎が燃え上がる。

「できれば辺境の地に戻りそこで仲間と共に土地を守り家族でも作って、羊を飼ってゆっくりと年をとっていく。そんな平穏な生活を送りたいものです」
「ハハハッ、ご冗談を──あの王騎をハメ殺した男はもっと大きな人間だと思っておったが」

 私は、己の耳を疑った。王騎様を討った男が、平穏な生活を語るなんて。冗談じゃない、ふざけるな。そんな言葉を口にする者と、あの日戦場で王騎様を討った男が、どうしても同一人物とは思えなかった。

 ふざけているのは李牧だけではない。丞相も、だ。
 王騎様を謀殺した男を──武の気配を滲ませる敵を、なぜ大王様の御前にまで招き入れたのか。憎悪に支配された頭に血が駆け巡って、不穏な考えが渦巻く。列から飛び出して二人を討ってしまいたい衝動に駆られたけれど、ここは大王様の御前だ。抑えろ、抑えろと自分に言い聞かせる。得物に伸ばしてしまいそうになる手のひらを、血が滲むほど硬く握りしめた。
 
 前列の軍長に視線を向けると、録嗚未様もギリギリと拳を握り締め、今にも斬りかからんばかりの衝動を堪えているのが見て取れた。……人の怒りを目にして、逆に冷静になることがあるとは不思議なものだ。歯を食いしばって怒りを堪える録嗚未様を見た途端、熱に浮かされていた頭が少しずつ冷えていくのがわかった。
 
「逆ですよ。小さい男だからあれこれと小賢しい策を必死に練る」

 自らを小心者と称する男の声には、不思議なほど卑屈さがなかった。

「ハハハハッ!なるほど、李牧殿は小心者か。ワハハハハ!」

 それにしても、我らが秦国丞相は何故李牧を秦国に呼びつけたのか。決して雑談をするためではないだろう。この軽口の裏に何が秘められているのか。取るに足らないことを話す二人と、今にも奥歯が砕けてしまいそうなほどに拳を握り締める録嗚未様を交互に眺めながら、丞相と李牧の会話を意識半ばに聞き流す──聞き流さないと、今にも列から飛び出してしまいそうだった。王騎様の名前が李牧の口から発せられるたびに心が軋んで、到底耐えられそうになかった。
 
「やはり李牧殿にはここで死んでもらう」

 しかし、この不穏な言葉は聞き流すことができなかった。
 趙国の者達は武器に手を伸ばし、秦国の廷臣達がどよめく。皆一様に動揺を隠しきれない中、数人だけが微動だにせず李牧を見据えていた。その者達の視線に宿るものを感じ取り、私は密かに身構える。何を狙っているのかはわからない。だが、先を越されるわけにはいかない。
 
 しかし、丞相の表情を見るに、本意からの言葉ではなく、李牧という男の"器"を測っているだけのようにも思えた。それに、趙国の者達に帯刀を許しておきながら、こうも簡単に命を刈り取るような裁定を下すだろうか。王騎軍随一の知将である隆国様を見てもこの場で何かを教えてくださるわけもなく、今度は視線が交わらなかった。
 
「恐れながら、私はこれより秦国の軍略家となって話をさせていただきます」

 隆国様に教えを乞うことができないのであれば、己の頭で考えるしかない。自身を秦国の軍略家と仮定し、戦国七雄の時代について語り始めた李牧の言葉に耳を傾ける。

 李牧の言葉を要約すればこうだ。いま中華は戦国七雄の時代と呼ばれているが、実際のところ国力には大きな違いがある。昭王の時代に一気に勢力を拡大した秦と、領土が中華の半分に及ぶ楚。この二カ国を「上」とすれば、趙魏斉燕は「中」、そして最も領土が小さく、軍も弱い韓が「下」と言える。
 そして、秦は中華に打って出る道を塞いでいる韓を落とす必要がある。しかし、秦と韓を跨いで睨み合っている魏と趙にとって、韓は秦の侵攻を防ぐ盾の役割を果たしている。魏と趙は秦の切先が喉元に届かぬよう、韓が落とされそうになれば大軍を起こして援軍を送る。故に、まず討つべきは韓ではなく魏である、と。

 認めたくはない。だが、李牧が語る軍略は、理にかなっているように思えた。李牧はただ地図上の国を語っているのではない。各国の思惑、兵の動き、将の性質。その全てを頭の中で組み上げた上で話しているのだ。
 
「韓を助ける力がなくなるまで、魏国を徹底的にたたくのです。そうすればあと韓を助けるのは趙国のみ。しかしこの時、趙が韓を助けぬことを李牧宰相は約束します」

 秦国の廷臣達がどよめき、顔を見合わせる。丞相の表情に目立った変化はない。李牧が真に何を企んでいるか私にはさっぱり検討がつかないけれど、提案は秦国にとって悪いものではない。丞相にとってもこの場を収める良い落とし所のようにも見える。

 李牧の狙いが何にせよ、秦国の廷臣達に迷いと混乱を生ませた時点でその思惑はおおよそ狙い通り進んでいるのだろう。

 そして予想通り、李牧は条件があると前置きしたうえで、秦国の軍略家としての立場を離れ、今度は趙国の宰相として、趙が抱える事情を淀みなく語り始めた。

「秦と燕。この二国に見事に挟まれていることによって国力を左右に分けざるをえないのが、趙国にとって最大の難題。よって我らはこれから燕との戦いに集中します」

 コクリ、と誰かが息を呑む音がした。

「その間、秦国は絶対に我らに手を出さぬことを約束していただきたい」

 怒りに身を任せずに観察を行うと、李牧が武だけではなく知略と話術にも長けているのがよくわかる。さらには敵国の王殿で、あの呂不韋丞相を前にして怯むことなく秦趙同盟を持ちかける胆力。今ならば嫌というほどわかる。やはりこの男は、ただの軍略家ではない。

「ほんに、忌々しい男ですね」

 隣に座る王騎軍の武人に耳打ちすると同時に、ついに我慢の限界を迎えたらしい録嗚未様が得物に手をかけて立ち上がる。

「ふざけるな!何で俺たちが貴様らと同盟を結ばねばならんのだ」

 つい先日、血を血で洗う戦いを繰り広げたばかりの──我らが将を討ち取った奴らと同盟を結べるわけがない。

「さっさと号令を下されよ丞相!亡き王騎将軍に代わりこの録嗚未がこやつら全員の首を叩き落としてくれる!」

 一人の武人として、私も録嗚未様に同意した。

「場をわきまえぬか。そなたたちの気持ちは十分分かるが今この場に武人の出る幕はない」

 丞相がそう言い放ち、さらに騰様が目線で制するとなれば、録嗚未様でさえ引き下がるしかない。しかし、録嗚未様の声が示すのは、ここにいる武人たちの偽らざる総意だった。さて、丞相はどう出るのか。

「同盟を持ってきた李牧殿はさすがとしか言いようがない。やはり貴殿は趙国唯一無二の宝だ。その李牧殿の首と今回の同盟を値踏みしてみたところ、ほんの僅かだが貴殿の首の値が上とわしは見た」

 丞相はゆっくりとほほ笑んで、自身の髭を弄ぶような仕草をした。対して、李牧の顔がわずかに強張る。

「だが、それゆえに交渉の余地がある──李牧殿。城でも一つおまけしてくれぬか?」
「……城を一つタダで明け渡せと?」
「そうじゃのう……確か"韓皋"だったかな?」

 趙国の者達が見るからに狼狽えて、李牧の名を叫ぶ。──韓皋。名は聞いたことがある。だが、即座に地理が浮かばない自分の知識不足が悔やまれた。ただ、確かなのは秦国と趙国、双方にとって重要な拠点であるということだ。

「城一つなれど、私の一存では決められません。一度国に帰り、王の裁可を」
「否!貴殿が渡すといえば趙王は必ずそれを許す。なにしろこちらには貴殿に命を懸けさせてまで取り戻したい春平君がいるからな」

 なるほど。李牧がわざわざ秦国へ現れるなど、自殺行為に等しいと思っていた。けれど、ようやく合点がいった。

「では韓皋以外の城で検討を。その城はいまだ建設中のうえに秦国にとって魏国との国境も近く、使い勝手は決して良くありません」
「いや、韓皋がよい。もしほかの城というなら十は必要じゃぞ」

 李牧はなおも食い下がったが、丞相は一歩も譲らない。韓皋を明け渡して秦趙同盟を結ぶか、この場で李牧とその一行を処刑するか──二つに一つを突きつけた。

 場に静寂が満ちる。
 わずかに俯いた後、李牧が口を開いた。

「……残念ながら値切れる気が全くしません。韓皋をお渡しします!」
「よし!秦趙同盟、成立じゃ」

 秦国の廷臣、そして趙国の者達からどよめきが起きる。丞相の言った通り、今は武人が口を挟む場ではないのだ。今回は仇討ちと相成らなかったが、この同盟もほんの瞬きの間のものだ。機会はまたいずれあると自分に言い聞かせていると、そこで李牧が言葉を継いだ。
 
「呂不韋丞相。同盟が成ったこのめでたき日に、一つ李牧よりお願いがございます」

 丞相は立派に蓄えた髭に指を触れ、興味深そうに頷いて続きを促す。

「王騎軍──ナマエ殿を我が妻に迎えることをお許しいただきたい」
「な、にィ……!?」
「ふざけるな貴様ァ!黙って聞いておればさっきからふざけた事ばかり抜かしおって……」

 王騎軍の仲間達から──、録嗚未様から驚愕の声が漏れる。周囲の文官や列席者達も困惑の色を隠せていない。

「ナマエとやら、前へ」
「……っは、ここに」

 丞相に促され、重い足取りを踏み出す。気乗りはしないが、出ざるを得ない。王騎軍の面々から気遣うような視線を感じながら、騰様達の影から最前列へ並び出る。

 面を上げよとの仰せに頭を上げると、丞相はじっと私を値踏みするように見つめた。その瞳には、戦場で敵を見定めてきた武人とは異なる、商人特有の鋭い光が宿っていた。人の才覚も、価値も、全てを天秤に乗せて測るような目だった。

「其方がナマエか。ふむ……」

 王騎様の慈悲と策がなければ、私は今頃、下僕として生きていたことだろう。私の身の上が世に知られれば、これから成る騰軍の──王騎様亡き今、とりわけ録嗚未様の立場が危うくなる。これまであまり注目を集めないよう立ち回ってきたというのに。まったく李牧という男は余計なことしかしない。
 とにかく、面倒なことになった。
 
「これから秦国と趙国は同盟を結び、手を取り合っていく関係である。ゆえに其方達の婚姻を丞相として許可しない理由はない。そうでございましょう、大王様」

 大王様の瞳と視線が交差する。

「恐れながら、大王様。発言をお許しいただきたく」
「許す」
「宰相殿のことは先の戦いで……っ、初めて、お姿をお見かけしました。ゆえに私は、この方が私のような下賎の者を妻に望む理由がわからぬのです」

 私はそう言って、率直に胸の内を明かした。秦国に背を向けていないという保身のためもあるが、なによりも私を妻に求める理由がとんと見えなかったのだ。

「宰相殿は、なにゆえ私を妻に望まれるのです。見ての通り、私は取るに足らぬ一兵にすぎません。宮廷に力のある後ろ盾もありません。私を妻に迎えたところで宰相殿には何の利もないでしょうに」
「政に利用するために貴女を妻に迎えたいわけではありません。宰相という立場ではなく、一人の男として貴方を妻に迎えたいのです。砂煙の中、千の兵を率いて戦場を駆け抜ける貴女の姿に心を奪われた。ただそれだけのことです」

 屈辱的だった。敬愛する主君の命を奪ったあげく、私の尊厳まで蹂躙しようとしている男。それなのに、その言葉は不可解な誠実さを帯びていた。

「……それだけの理由で私を妻に、と」
「ええ、それだけの理由で、です」

 怒りがこみ上げ、復讐心に火がついた。敬愛する主君の命を奪った相手が、私の尊厳まで弄ぶように振る舞う──もはや我慢ならない。私は唇を噛み締め、言葉を吐いた。

「……なるほど」

 思わず、乾いた笑いが漏れた。

「ふふ、宰相殿は意外と小さい男であられる」

 王騎様を討った男が──中華に名を轟かせた男が、このような悪手を打つとは想像もしていなかった。

 大王様と丞相は、何を言い出すのだと怪訝な顔をしている。もはや打首になってもよかった。この男に一矢報いられるのなら──戦場に引き摺り出すことができるのであれば。
 すると、意外な声音が場に響いた。李牧の従者である。このような場で主人のために声を荒げることができるとは、随分と慕われているものだ。

「なにを貴様……ッ」
「いいんです。落ち着いてください」
「しかし李牧様……」
「ああ、失礼。主人を侮辱されたのだから、側仕えの方の気分を害するのは当然ですが。ただ、趙国の三大天とも謳われるお方にしては、随分と臆病な物言いだと感じまして」

 私の言葉に、李牧の頬が一瞬強張る。だが同時に、彼の瞳は興味深げに光っていた。

「貴女がそのような表情を見せてくださったことは思わぬ収穫ですが、しかし臆病とは。先ほど丞相殿には自分が小心者であると申し上げましたが、意中の相手からそのように思われるのはこの李牧も男として聞き捨てならないですね。その心をお聞かせいただいても?」
「私は強い男が好きです」
「ほう。貴方のいう強い男に私は当てはまってはいませんか?あの王騎を打ち負かした男ですよ」

 いちいち勘に触る物言いをする男に、貼り付けた笑みが強張る。

「……宰相殿とは先の戦場で相見えましたが、私の首は今も繋がっている。──貴方は、私の首を討ち取ることができていない」

 李牧は含み笑いを浮かべる。何を考えているのさっぱり読み取れない男に、私の復讐心はますます燃え上がる。

「なるほど。そういうことですか。──面白い。では、こうしましょうか。貴女の首級を挙げた暁には戦利品として、この李牧の妻にします」
「ええ、宰相殿の刃がこの私の首に届いた暁には妻にでも妾にでも、如何様に」

 騰様の静止する声が聞こえた気がした。でも、復讐に魅入られ、頭に血が登り切った私は止まらなかった。

「ただし、条件があります」
「条件ですか、良いでしょう。続けてください」
「戦場での一騎討ち。それが条件です。明晰な策略が貴方の武器でしょうけれど、私は策ではなく己の武で立つ男を好むのです」
「ハハハ、良いでしょう。この李牧も腕には覚えがあります」
「ふふ、その覚えを打ち砕いて差し上げます」

 一体どのような謀略を巡らせて、此度の暴挙に出たのかはわからない。だが、そちらがその気なら乗ってやろうじゃないか。戯れのような口約束を、本当に李牧が履行するのであれば。奴を、戦場に引き摺り下ろす事ができる。

 それまで黙って話の行先を伺っていた丞相が大きな声で笑い、話の腰を折るように言った。

「これこれ、儂を抜きして二人で話し込むでない。これから同盟を結ぼうというのに戦の話までして、本当に李牧殿は秦と同盟を結ぶつもりがあるのか?」
「もちろんです、丞相殿。ちょっとした言葉遊びに過ぎませんよ」
「ふむ。本当に望むなら、儂としては王騎軍のその女兵士を向かわせてもよいのだが。秦趙同盟の"ほんの気持ち"としてな」
「お気持ちには感謝しますが、どうやら男を見せねばならぬようです。彼女を討ち倒し、己の手で手に入れてみせますよ」
「ハハハハ。ならば李牧殿の好きにされるとよい」
「ありがたく」

 丞相と李牧の間で緩い笑いが漏れる。だが、私の心は既に戦いの火で燃えていた。
 一騎討ちだ。あの男の胸に、私の刃を刻む。ただしそれは王騎軍の旗の下、誰の目にも明らかな形で。私は奴を討つ。


#3

  華美な宴を好む呂不韋丞相の一声で、続きは宴の場に持ち越されることになった。いくら同盟を結んだといえど、趙国の者と酒を交わすなどご免被りたい。されど、騰様や軍長が参加するのであれば、私が参加しないわけにはいかない。
 
 宴の支度が終わるまでの間、王騎軍の面々は王殿から場所を移して時間を持て余していた。騰様や軍長が何やら神妙な顔で話し込んでいるけれど、私は一歩引いた場所で心を整えていた。

「……ナマエ。こちらへ来るように」

 騰様の声に促されて、私は重い腰を上げた。表向きは平静を装っている。けれど胸の内では怒りと屈辱が渦巻いていた。
 
 輪に入ると、録嗚未様が「あの野郎め」とだけ低く呟いて、荒い息を吐き出した。騰様は顔色を変えずにいたけれど、その眉間の皺は深い。

「お前にとって、あの申し出は侮辱か」

 隆国様が問うた。声は柔らかいが、その鋭さは増していた。言葉は簡単に出てこない。侮辱という枠に収められない複雑さがあった。確かに、彼が私を"妻にしたい"と公言したことは屈辱だ。しかし、それ以上に私の心を刺したのは、王騎様の名が政治の駒として弄ばれたことだ。私が王騎様に抱く愛情と忠義を、他人に──それも仇に、踏み荒らされる事が許せなかった。

「あの場では侮辱だと感じましたが、今は……そうではなくて。奴の底知れなさを図れずにいます」

 私はやっと、吐き出すように言った。

「……申し訳ありません。あの男が何を考えているのか、本当に約束を守るのか定かではないというのに、余計なことを申したやもしれませぬ」

 隆国様の目が一瞬だけ光った。刃を研ぐ匠のような冷ややかさだ。

「よい。少々危うかったが、知略が回らないお前にしては良くやった。あの場で趙国へ連れていかれなかっただけで十分だ。後は俺達に任せておけ」

 ネチネチネチネチネチと小言を言われるかと思ったけれど、流石に隆国様もそこまで鬼ではないらしい。
 隆国様の言葉に、録嗚未様が黙って頷いた。 

 柵に腕をかけて乗り上げると、階下で李牧とその一行が談笑しているのが見えた。一瞬、こちらを見上げた李牧と視線が交差する。その瞳の奥に光るものは侮蔑か、戯れか、あるいは何らかの策略か。

「お前、あの男をどう思う?」

 録嗚未様がぽつりと訊く。何を心配しているのか。それこそ、私への侮辱だった。私があの男に絆されるとでも思っているのだろうか。

「当然、いつか私の手で討ち取る。それだけです」

 録嗚未様が、鼻の奥で笑ったように聞こえた。

「悪いが、奴の首は俺が討ち取る。兄の許しもなく婚姻を申し出るような男に、末妹を近づけるわけにはいかない」
「……私のようなものを、妹と呼んでくださるとは。……兄上は、随分と過保護なのですね。いままで存じ上げませんでした」
「お前な……」

 整えた髪を大きな手のひらが遠慮なく覆い、わしゃわしゃとかき回される。「こういう時だけ兄扱いしやがって」とそっぽを向いた録嗚未様の頬がわずかに赤く染まっていた。



#4

 宴場で酔い潰れる男たちを横目に、私は宮女に寝所の用意を頼んだ。一介の武人とはいえ、女一人で月の光も届かぬ夜道を帰らせるわけにはいかぬと、騰様が薦めてくださったのだ。
 客人としてもてなされ、普段は馴染みのない香まで焚いてもらった。それでも身の丈に合わぬ豪奢な牀ではなかなか寝付けず、夜半、私は一人で王殿の庭へ出た。

 背中を預けた石灯籠から伝わる冷気が、体の火照りを鎮めてくれる。

 月が薄く、石畳を冷たく照らす。風が通り、葉擦れが小さく囁く。手の中の鞘は、どこか安心する重さだった。

「貴女は、ナマエ殿ですか」
 
 宴で振る舞われた酒のせいで、いつもの鋭さを欠いていたとはいえ──他人の気配を許すなど、武人としてあるまじき失態だった。聞き慣れなれない声に反射的に飛び退いて、剣に手をかける。

「李牧……ッ!!」
「お前、その手はどういうつもりだ」

 剣にかけた手を李牧の従者に目ざとく見咎められ、渋々臨戦体制を解く。今この場で騒ぎを起こすのが得策ではないことはわかっている。機はまだ熟していない。

「しばし、彼女と二人きりにしてくれますか」
「李牧様……!」

 主人からの申し入れに従者達は顔を見合わせ、動揺を隠さなかった。

「しかし李牧様……この者は"あの"王騎軍の者ゆえ、あまりにも危険です」
「問題ありません。彼女に私を斬ることはできない」

 李牧の視線が、こちらに流れてくる。

「何も彼女と一晩過ごしたいと言っているわけではありません。ただ、暫し歓談をするだけです。小半刻ほどで戻ってきてもらって構いません。──良いですね」

 従者達は言いかけた何かを飲み込み、拝手をした。そして、振り向きざまにこちらを静かに睨め付けてこの場を下がっていった。

 この間の少ないやり取りで、彼らの関係性を悟った。きっと、私も王騎様が同じようなことを言い出せば、おやめくださいと引き留めただろう。心配に及ばない方だと理解してはいれど、万が一を考えてしまうのだ。

 主君を失った世界は、驚くほど色がない。彼らが主の身を案じる気持ちはよく解った。
 
「話すとも、近づいて良いとも言っていない」

 侍る側仕えをこの場から追いやった李牧は、ようやく身軽に成ったと言わんばかりに足を踏み出した。

「近づくな」

 李牧は何も答えない。
 石畳を踏む音だけが、静かな庭に響く。
 一歩。また一歩。私も半歩退く。

「近づくなと、言った」

 ゆったりとした足取りは、まるで獲物を見定める獣のようだ。私は、男が悠然と歩み寄ってくることを、ただひたすらに拒絶することしかできなかった。

「近づけば、斬る……!」
「貴女には、斬れないはずだ」

 咄嗟に剣へ伸ばした手のひらを、温かな手が静かに覆った。手のひらにかかる重さは、王騎様ほど圧倒的なものではない。されど、武人らしい節だった指が、逃がすまいと指先から順に手首までを絡め取る。

「斬れますか」
「…………」
「今、ここで」

 図星だった。全てを見透かすこの男に、わからないことなどあるのだろうか。元より知略に長けていない私が、王騎様を策に陥れた男に舌戦で勝てるはずもない。

「……それが望みであれば、叶えてやろうか」

 絞り出した声は、なんとも苦々しいものだった。
 機会があれば、逃すつもりはなかった。実際、王殿では他の者に出し抜かれないよう、常に剣へ手を伸ばしていた。まさに今が絶好の機会だ。決して綺麗な育ちではないし、今更手を汚すことに抵抗はない。きっと、今朝の私であれば迷うことなく首を斬っていただろう。
 しかし、今この瞬間、この男を斬ることによる不利益に天秤が傾いた。

「思っていた通り、強情なひとですね」

 青みがかった瞳が、わずかに細められた。

「お前に何がわかる。……くそ、離せ」

 落ち着かない気分になって身を捩るも、李牧が手を離す気配はない。

「趙国へと戻る前に貴女と一度話をしたかったんです」
「……私には、話すことなどない」
「そうつれないことを言わないでください。私はただ、きっと誤解をさせてしまったと。あのような公の場で私の気持ちを伝えることになってしまったことを貴女に謝りたかったんです」
「謝罪など、いらない。ただ、約束を守ってくれるのであれば」
「戦場で討ち取った暁には、この李牧の妻になってくださる。──誰の他でもない、大王の前で貴女は言った」
「…………ああ、そうだ。私と、戦場で一騎打ちだ」

 月明かりに淡く照らされた、深い青を見つめる。きっと、晴天の空でみれば鮮やかな空色をしているのだろう。武人としての荒々しさと、軍略家としての残酷さを覆い隠すような、李牧には似つかわしくない色。

「おい、近づくなと言っている」

 李牧の影が伸びる。腰を落とし、さらに距離を詰めようとしていることに気がついて、思わず後退る。

「っ…………」

 背中に石灯籠が触れる。──逃げ場がない。そう思った瞬間、強く腕を引かれた。足元が崩れ、視界がぐらりと揺れる。

「──貴女が私の前で膝を折る瞬間を、この目で見たいと思ってしまったのです」

 耳元にかかる息で、李牧の胸に抱かれていることに気がついた。乾燥した手のひらが、利き腕の手首に絡みつく。逃すことを許さない、傲慢ともいえる力強さだった。

「先の戦からは一年。私はよく耐えました。元々待つのは得意なんです。貴女もご存知の通り、私は軍略家でもありますから」

 囚われていない側の手で李牧の胸を押すと、今度は太い腕が背中に回る。まるで蛇に捕食される寸前の獲物だと、どこか冷静な自分が呆れた声で囁く。

「でも、楽しくもあったんです。貴女をどのように追い詰め、囲い込むか考えるのは」
「なっ……」
「貴女がどのように私を拒み、どうすればこちらを見てくださるのか。考える時間さえ、私には」
「気持ち悪いッ。ふざけるな!!私は、お前が嫌いだ……、心底、憎んでいる……ッ」

 心の底からの憎しみを込めて李牧を見上げる。どれだけ憎々しげに睨もうが、李牧の瞳が揺らぐことはない。まるで、夜の闇に向かって小石を投げているような奇妙さを抱いた。

「貴女が私を拒むのは、想定内だったんです。敬愛する主の首を討ったのですから、当然です」

 鼻先を掠めたのは、嗅ぎ慣れない香りだった。これは趙国の香木だろうか。逃れようとして身を捩るほど衣から香りがたって、五感から李牧に侵食されてゆくようだった。

「やめろ、……やめてくれ」

 今もなお、耳の奥には王騎様の笑い声の欠片が残っている。けれど、手の温もり、香り、剣の音、そのどれもが今は追憶の色を帯びている。

「ただ……拒む貴女は、想定していた以上にそそられるものがあった」

 思い切り頭を振り上げようとした瞬間、先ほどまでの逃さまいという態度が嘘であったかのように、李牧はあっさりと一歩退いた。頭を振り上げたと同時に重心を崩した身体を支えようとしたのだろう。再度伸びてきた腕を避け、ここぞとばかりに距離を取ると、何が面白いのか李牧は酷く愉快そうに声をあげて笑う。

「……何が、そんなにもおかしいんだ」
「いえ、何も。ただ、夢想していたよりも随分愛らしい方だと思っただけです。私は戦場を駆ける貴女しか知りませんでしたから」

 あの忌まわしい日を、世界から色を失った日を思い出す。あの日、この男は、一体どこから私を見ていたのだろう。何かが、おかしい──見落としている物が見えそうになったところで、近づいてきた複数の気配によって、稚拙な思考が途切れる。

「残念ですが時間のようですね。またいずれお会いしましょう」
「次に会うのは戦場だろう。せいぜい首を洗って待っておくことだな」
「果たして、そうでしょうか」
「……何?」

 李牧の真意は読めない。ただ、その穏やかな笑みだけが、言いようのない胸騒ぎを呼び起こした。

「……その顔だ。何もかも見透かしたような、その顔が私は嫌いだ……!」

 息を整えようとするほど、胸の鼓動は速まっていく。剣を握る手だけは震えていない。それだけが救いだった。

「私はお前の思い通りにはならない。絶対にだ」

 語気を強め、思いつく限りの罵倒で拒絶をしても、李牧は笑っている。武人には似つかわしくない、穏やかな表情で。それなのに、戦場で敵将と対峙した時よりも得体の知れない恐ろしさを覚えた。
 
「どうぞ、好きなように逃げてください。私はその度にまた別の一手を打つだけですから」

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