初めて見た時は、ぽかんと口を開けたまま仰いでいた。
「……どうした、眠れないのか」
ドアを開けた彼は、最初は彼自身の目線の位置で「おや」と不思議そうな顔をしていたものの、すぐに視線を下げて自分に気づいた。険しい眉間が少しだけ緩まる、その瞬間はいつも優しさを感じて好ましい。
ただこの時は、いつもより反応が遅れた。
何故なら、平時の彼とまったく異なっていたからだ。常ならばピシリとまとまっているはずの髪はぱらりと顔へ落ちていて、強い眼光は鼻先にかけられた眼鏡によって緩められていたのである。
解けた髪と、見慣れぬ眼鏡。またも「どうした」と反応がないこちらを慮る言葉に、一言。
「かっ……」
「ん?」
「…あっしゅ…、めがね、かっこいいね」
「…そうか……?」
「かっこいい。初めて見た…」
「ありがとう、そのままだと風邪を引くから入れ」
「…ん」
───そんな少年期を経て、様々な言葉と想いを交わした青年期。
出先から帰ってきた彼は、いつもの格好だった。ボルドーのシャツに上下が黒のスーツ、ネクタイはシャツと同じ系統の赤色。チラリと見えた腕時計のベルトも、黒のモノトーンな姿である。
ただ、今日は一点だけ違う。
「眼鏡だ」
「ああ、運転する時にな」
シンプルな眼鏡をかけていた。プライベート用とは異なる為、わざわざ運転用に購入したのだろうか。
いやしかし、と思わず緩む口元を片手で覆う。
もうすぐ五十とは思えないほど、ガッチリと締まった体躯をしている彼である。目尻に僅かな皺が見受けられるものの、再会するまでに十年ほど歳を重ねたとは信じがたいほど若々しい。
「どうした?」
「いや……その、なんか、やっぱりカッコいいな、とおもった……」
「ふふ、なんだ突然」
「スーツとか、見慣れてたつもりなんだけど…眼鏡かけてると、何か…」
「……うん?」
「えっと、えーっと……なんか、やらしい…ね…」
羞恥を堪えて、しかし素直に回答すると、思わぬ返答だったらしい彼はグッと息を詰めたようだった。
しまった、これではまるで欲求不満みたいではないか。
そう思って慌てて訂正しようとしたところへ、彼の大きな手が勢いよくガシッと頭を掴んできた。若干、乱暴な手つきになりながらも髪を後ろへと撫でつけて、晒された額へと唇が触れる。
見据えてくる双眸は鋭い。今度はこちらが息を詰める番だった。
「……仕事が終わったら、憶えておけよ」
「…い、一言一句…」
「誰もそこまで言ってないが……」
───あれから更に歳を重ねた、とある休日。テラスでお茶にしようと彼を誘い、トレイを運んできて気づく。
先にかけてもらっていた彼は、眼鏡をかけて本を読んでいた。しかし表情は険しく、おおよそリラックスしているとは言えない。時折、本の位置を前後にずらしたり、指で文章を辿ったり、はたまた眼鏡の下から指を差し入れて目頭を揉む仕種すらして見せた。
「クラウディオ」
「あぁ、ありがとうアルカディア」
「眼鏡、合わない?」
顔を上げた彼の、目尻の皺はくっきりと跡が入っている。眼光の鋭さこそどれだけ年月を経ても変わらないが、ほうれい線や手指の皺などは歳を重ねた事実を示す。あと数年で六十とは思えないほど若く見えるものの、今の動作は確実に彼の衰えを表していた。
「あとで買いにいく…?」
「ついこの間、壊して新調したばかりだ。私は構わん」
「俺が構うよ。不便、感じてほしくない」
「アルカディア」
たくさん助けてもらって、たくさん愛してくれた。そのお返しだと言えば、きっと彼は顔を顰めるだろう。だから言葉を呑み込んで、座る彼の背後に立ち、真上からのぞき込むようにキスをする。
かさついた唇を湿らせるように舐めれば、「こら」と小さく嗜められた。仕方のないことだが、彼からすればいつまでも自分は『子供』扱いになるらしい。
「……老眼鏡がいい?」
「言ったな?」
ひく、と彼の口元が歪むのを見て、嗚呼ちょっとは気にしていたのかな、と思わず笑ってしまう。
今度は、目を据わらせて笑う彼から腕が伸びて、後頭部を引き寄せられて口接けを深める。逆さまはやはりキスがしづらく、何度か唇を離してお互いにくふくふと笑い合った。
キスをやめて間近で見つめる。少し白髪の混じる髪を撫でて、そうして、眼鏡をずらした眉間に唇を寄せた。
「クラウディオはいつも、いつでも、カッコいい───これからも」