biting

habit





 アッシュには恋人がいる。
同じ組織に所属しているウィスタリアだ。
既に成人年齢を超えているし、身長もそれなりにあるというのにどうにも子供のように見えてならない。少年期までの環境のせいもあろうが、それを差し引いても幼い印象が強い。
そのせいで、つい庇護欲をそそられる。
撫でられることが好きな彼の小さな頭をゆっくり撫でてやれば、嬉しそうに目を細める。そんな姿は愛らしく、胸の奥からじわっとあたたかなものが込み上げてくるのだ。
するりと手を滑らせて頬を撫でると、くすぐったいのか首をすくめた。そして、そのまま擦り寄ってくるものだからたまらない。
思わずアッシュの口元に笑みが浮かんだ時。

ぱくりとウィスタリアがアッシュの親指をくわえた。
生温かく濡れた感触に包まれる。軽く歯を立てられてちろりと舌先で舐められると、ぞくりとした感覚が背筋を走り抜けた。
アッシュが目を丸くして硬直している間に、指の付け根まで辿り着くとじゅっと吸い上げられる。ぺろぺろと指先を舐めていたと思えば、柔く歯を立てられた。
甘噛みを繰り返しながら、味わうように唇を動かされると、むず痒さに似た何かが身体の中心に生まれていくような気がする。
呆然とウィスタリアの行動を見つめていたアッシュは、はっと我に返ると慌てて手を引き抜いた。

「…何してるんだ」

「ん〜?」

とろりとした眼差しで見つめられたと思ったら、ちゅっちゅっと音を立てて何度も掌へキスされる。まるで、おねだりするかのように上目遣いで見上げられて、アッシュはぐっと息を詰めた。
この表情には弱い。
一つ息を吐いたアッシュはウィスタリアの顎を掴んで持ち上げ、ぽやぽやとした表情のウィスタリアに優しく口付ける。何度か啄ばむようにしてから顔を離せば、物足りないといった様子で眉を下げているウィスタリアがいた。
もう一度軽く触れ合わせるだけのキスをして、今度は深く重ね合わせる。
すると、ウィスタリアの方からも積極的に求めてきて、互いに貪るように舌を絡め合う。呼吸すら奪うほどに深く激しく求めるうちに、段々と思考が麻痺していくようだった。

ウィスタリアは口の中が随分と感じやすいらしい。上顎をなぞってやればぴくんと震え、舌の裏側を突けば鼻にかかった声が漏れ出る。反応の良さが楽しくなって夢中で責め立てれば、いつの間にか力なくしがみついてくるだけになっていた。
名残惜しげに銀の糸を引いて離れた時には、ウィスタリアの瞳は潤んでいた。
はぁはぁと荒い呼吸を繰り返すウィスタリアを抱き締めて背中を撫でてやれば、やがて落ち着いたのかふわりと微笑まれる。

「…あっしゅ、」

甘く蕩けた声で名を呼ばれるだけで、ずくりと腰が重くなるのを感じた。
このままベッドに運んで押し倒してしまいたい衝動をどうにか抑え込んで、アッシュは再びウィスタリアの頭を撫でてやる。

「お前は本当に可愛いな」

耳元で囁きかけると、嬉しそうに擦り寄ってくる。
不意にウィスタリアがアッシュの腕を持ち上げたかと思えば、再びアッシュの手を自分の口に含もうとする。
しかし、アッシュはその前に腕を引くことで阻止をした。

「こら、また噛む気だろう」

「…んむ…」

不満そうな顔のウィスタリアに苦笑しつつ、アッシュはそっと彼の口元から引いた手でウィスタリアの頬を撫でる。

「駄目だ」

「……やだ」

「そんな可愛く言っても駄目だ。ほら、いい子だから我慢しろ」

「……やだ」

駄々を捏ねる子供のように首を振るウィスタリアだったが、アッシュが許さないことを悟ったのだろう。
諦めたようにため息をついた後、再度アッシュの手首を掴むとそこへ唇を寄せてきた。

「……」

「そんな顔をしても駄目なものはだめだ」

「…ちょっとだけ」

「……仕方ないな」

「!」

了承を得た途端、ぱっと嬉しそうに目を輝かせると、早速ちゅうっと指先に吸い付いてきた。
やはり、まだ幼さが抜け切らないせいだろうか。こういうところはまだまだ子供のようだ。
とはいえ、その無邪気さはアッシュの心をくすぐる。
そんなことを考えながら、アッシュはしばらくウィスタリアの好きにさせていた。
​​──それが、駄目だった。



「…お前、なんだその手」

グラファイトは眉間に皺を寄せながらアッシュの手を見下ろして言った。
普段仕事の時でさえ怪我なんてしないアッシュの両手が、噛み跡だらけになっていたのだ。

「あー…すみません、ちょっと…」

アッシュは珍しく困ったような表情を浮かべながら謝罪を口にする。
アッシュの手に浮かぶ噛み跡はどこからどう見ても人間のものだ。それに、アッシュにこんなことを出来るのはこの世界にただ一人しか居ないだろう。
全てを察したグラファイトは深いため息を吐き出した。

「あいつを躾られるのはお前だけなんだから頼むぞ全く…。仕事に支障が出ないようにしろよ」



ウィスタリアには噛み癖があったのだろうか。
思い返してみれば、ストローはよく噛んでいるし、袋が開かない時は噛みちぎって開けていた気もする。それと同じようなものだと考えれば納得出来なくもないが、それでもアッシュに噛み付くというのはどういう了見なのか。
そんなことを考えながら自室の扉を開ければ、ソファーにウィスタリアが座っていた。よく見れば机にルカも寝そべっている。

「おかえり!」

「ああ、ただいま」

ウィスタリアが来ているなら丁度いい、とアッシュは彼の隣に座りながら早速話を切り出すことにした。

「もう噛み付くのは禁止だ」

「………へ」

きょとんとした顔を向けてくるウィスタリアに、アッシュは続ける。

「いくらなんでもやりすぎだ。仕事に支障が出ても困る」

ウィスタリアはきょとんとした顔のまま、言われた言葉を理解したのかじわじわと眉を下げて行く。
しょんぼりと肩を落とすその姿はまるで叱られたあとの子犬のようで、アッシュは思わず伸ばしかけた手を引っ込めた。

「……でも」

「でもじゃない」

「だって」

「だっても何も無い」

言い聞かせるようにはっきりと告げれば、ウィスタリアは悲しげに眉を下げたまま俯いた。

「ごめんなさい……」

ウィスタリアは小さく呟くと、そのまま黙り込んでしまった。
アッシュとしては、そこまで落ち込まれるとは思っていなかったのだが。

「……なんでそこまで私に噛み付こうとする」

なんとなく聞いたことだった。
甘えたいだとか、ルカの真似をしてるだとか、そういった可愛い理由が出てくるのだとアッシュは思い込んでいた。しかし、返ってきた言葉は予想外のものだった。

「……アッシュの手、美味しいの」

「………………は?」

おかしいな、ウィスタリアは人間だったはず。
アッシュは思わずウィスタリアの種族を疑った。実は人を食う魔人族だったのか?

「いや、待て。私の手が美味いわけがない」

「美味しい」

「…だから、」

「アッシュの手が一番好き」

「人の話を聞け」

「他の人は嫌」

「……分かった。もういい。だが、噛みつくのはやめろ」

「甘噛みにするから」

「甘噛みで我慢できたことないだろ」

初めて噛みつかれてから数日、毎日のように噛んでくるウィスタリアは必ず初めのうちは甘噛みをしてくる。しかし、段々と我慢出来なくなってくるのか次第に力が籠っていく。
だからこれだけの噛み跡が残っているのだ。
しかしウィスタリアはそれでも引かない。

「やだ」

「やだじゃない」

「やだ」

「やだじゃなくてな」

「やだ」

「やだやだ言うな」

「やだ」

「……」

「……」

「……はぁ」

この調子ではいつまで経っても平行線だろう。
アッシュは諦めたようにため息をつくと、自分の手をウィスタリアの口元へと差し出した。飽きるまで噛ませれば満足するだろうという希望を持って。
すると、ウィスタリアは嬉しそうにその手を掴む。

「んふふ」

幸せそうに頬を緩める姿は、やはり子供のようだった。
かぷ、と歯を立てられる。
皮膚を突き破る程の強さではない。しかし、段々と力が込められて行く。しっかりと食い込む牙の感触に、やっぱり我慢できてない、とアッシュは眉根を寄せた。
ウィスタリアはといえば、相変わらず幸せそうにアッシュの手の甲を舐めたり、指の付け根を噛んだりしている。
そのうち血が出るんじゃないかと思いつつ、アッシュは頭で思案しながらされるがままになっていた。
さすがにこのまま放っておく訳にもいかないし、一度きちんと話し合った方がいいかもしれない。
夢中になってアッシュの手に噛み付いてくるウィスタリアの瞳はとろとろと蕩けていて、まるでマタタビを与えられた猫のようだ、と思った。
​​──マタタビ?

「…………待て」

不意に、アッシュはウィスタリアを制して顔を上げさせた。

「……?」

不思議そうな顔で見つめてくるウィスタリアの視線を受けながら、アッシュはウィスタリアの顎を掴んでその瞳を覗き込む。
まるで酒に酔ったかのような紅潮した顔。
潤む瞳。
アッシュは確信を得た。

「お前、私の魔力食ってるだろ」

「…ぅん?」

ウィスタリアの声はふわふわとしていて呂律が回っていない。
​​──魔力は他人に分け与えることが出来る。
直接的な経口摂取だからこそ、ダイレクトにウィスタリアの体をぐるぐると回っているのだろう。他人の魔力が入ることによって酒に酔ったような状態になると、聞いた事がある。
アッシュの手が美味しいと言っていたのは魔力の味だったのだろう。二人の魔力の相性が良かったのかもしれない。

「あっしゅ、の手、美味しい」

「それはもう聞いた」

アッシュは苦笑を浮かべながら、ウィスタリアの体を抱き寄せた。自身の魔力に夢中になる目の前の子が、とてつもなく可愛く思えたのだ。
そしてそっと唇を重ねる。舌を差し入れれば、応えるように絡みついてきた。唾液と共に注がれるアッシュの魔力に、ウィスタリアは更に酔い痴れたような表情を浮かべる。
ちゅ、と音を立てながら唇を離してウィスタリアの顎を擽ってやる。気持ちよさそうに喉を反らして目を細める姿に、アッシュはもう一度キスをした。

「あ、しゅ」

ウィスタリアはアッシュに抱き着くと、そのまま膝の上に乗り上げた。
ぎゅう、としがみついて来るウィスタリアの背中を撫でてやりながら、アッシュはどうしたものかと考える。
ウィスタリアは今、アッシュの魔力に酔ってしまい完全に理性を失っていた。

「…あっしゅ」

ぐりぐりと額を押し付けられる。甘えたい盛りの子供のような行動に思わず笑い声を上げたくなったものの、ぐっと堪えて頭を撫で続けた。

「……あっしゅ」

「なんだ」

「すき」

「ああ」

「だいすき」

「ああ」

「あい、して、る」

「……」

ウィスタリアは何度も好きだと言い、愛の言葉を口にする。
普段なら恥ずかしくて言えないことも、今はすんなりと口に出来るらしい。
アッシュはウィスタリアの告白を聞きながら、微笑みを浮かべていた。

「私もだ」

「ほんとう…?」

「本当だよ」

「うれしい」

ウィスタリアはふわりと笑うと、アッシュの首筋に顔を擦り付けた。そして、首元に噛み付く。
鋭い痛みにアッシュは眉を寄せた。ウィスタリアの歯が深く突き刺さっているのだ。

「っ」

「ん……」

ウィスタリアは小さく息を漏らすと、ゆっくりと口を離した。噛み跡からじくじくと滲む血液をぺろりと舐め取る。

「……美味しい」

「…そうか」

弾んだような、嬉しそうなウィスタリアの声に、アッシュは怒る気力も湧かなかった。しかし、これ以上はいけない。

「もっと欲しい」

「駄目だ」

「なんで」

「お前なぁ…」

先ほどまで甘えて来ていたというのに、今度は不機嫌そうに唇を尖らせる。ころころと変わる態度に、アッシュはため息をつく。

「まだ事務仕事がある」

「おれより、大事なこと、なの」

「……そういう言い方をするな」

「だって」

「拗ねるな」

がじがじと再び首元を甘噛みされる。これは本格的にご機嫌斜めだなと、アッシュは困ったように笑った。
甘えるように頬をすり寄せられる。まるで猫みたいだと思いながら、アッシュはウィスタリアの髪を優しく撫でた。

「また後で遊んでやる」

「あとじゃやだ」

「わがまま言うんじゃない」

「やだ」

「こら」

「やだ!」

「駄々を捏ねない」

ウィスタリアはむぅ、と頬を膨らませると、アッシュの頬に口づける。
そして、アッシュの耳元に口を寄せ、ぽそりと呟いた。

​​──……アッシュの、ばか。

吐息混じりに囁かれた言葉に、アッシュは目を見開く。しかし、すぐに笑みを浮かべると、ウィスタリアの腰を抱いて引き寄せた。そして、その唇に口付ける。
舌先で歯列をなぞってやれば、誘うように開かれた。舌同士を絡め合い、深く繋がる。

「…ん、…ふ……ぅ」

ウィスタリアはぴくりと肩を揺らしたものの、大人しくされるがままになっていた。
アッシュはウィスタリアの後頭部を掴むと、そのままソファに押し倒す。
長いキスが終わると、二人の唇の間に銀糸が伝った。

「……これで満足か?」

「うん」

ウィスタリアはふわふわとした表情で微笑むと、アッシュの胸元に顔を埋めて目を閉じた。寝てしまうつもりだろうか。
アッシュは苦笑しながらウィスタリアの頭を撫でる。すると、ウィスタリアは嬉しそうな表情で手に擦り寄ってきた。
本当に猫のようだ。

「ウィスタリア」

「……」

返事はない。代わりに聞こえてきたのは穏やかな呼吸音だった。
どうやら眠ってしまったらしい。
アッシュは苦笑を浮かべながら、ウィスタリアの体を抱きしめた。