きみの息で生を教えて


寝室の扉を開けると、アルカディアがベッドの上で丸まって眠っていた。
その姿に、クラウディオは安堵の息を吐いた。

「(良かった……)」

穏やかに眠る彼の姿を見て、とてつもない安心感に包まれる。
彼を一人にすることを、クラウディオはとても恐れていた。
アルカディアがこの世にまだ存在していることが、自身の心臓を動かしていると言っても過言ではない。
眠るアルカディアの隣に腰掛けて、優しく髪を撫でる。
大切だ。愛しい。護らなければ。
そんな想いが心の中で渦巻く。
それと同時に、滅茶苦茶に壊してやりたいという感情も沸き起こる。
相反する二つの感情は、どちらも自分の本音だ。
アルカディアが眠っていることを良いことに、その柔らかな頬に触れる。
指先で軽くなぞると、僅かに瞼が開かれた。
ぼんやりとした赤い瞳がこちらを見つめてくる。
寝惚けているのか、甘えるように手を掴まれた。

「……くら、ぅ、でぃお」

「…ただいま」

アルカディアはクラウディオの姿を視界に収めると、嬉しそうに微笑んだ。
それから、クラウディオの手に擦り寄る。まるで子猫のような可愛らしい姿に、胸がきゅんとした。
彼は今にも壊れてしまいそうなほど脆い存在になっていた。大切に、愛でるように、その頬を優しく撫でてやる。

「今日は、なにか食べたか?」

「んん〜?なに、も…」

「何も食べていないのだな」

「うん」

こくりと素直に首を縦に振るアルカディアを見て、小さく息をついた。
先日のエドアルトとの戦いで、ほぼ魔力を使い切ってしまったアルカディアは、今までのように満足に動くことが出来なくなっていた。魔力によって体を動かしていたアルカディアは、その影響を大きく受けてしまったのだ。
今では一日のほとんどをベッドの上で過ごしている。食事や入浴など、日常生活に必要な動作さえも一人で行うことが困難になっていた。
きっと今も、こうして話しかけないとずっと眠って過ごしてしまうだろう。
サイドテーブルに目をやると、朝置いていったペットボトルや食べ物がそのまま放置されていた。

「水も飲んでないのか?」

「みず…?…のんで、ない」

「…そうか」

飲みやすいようにと差していたストローを抜き取って、水を一口含む。そしてそのまま、アルカディアに覆い被さるような体勢を取った。
唇を重ねると、アルカディアは大人しく受け入れてくれた。少しずつ、ゆっくりと、彼に水分を与える。
喉仏が上下するのを感じながら、何度も何度もキスをした。
アルカディアの身体には、もう殆ど力が入っていないようで、それでも健気に舌を伸ばしてくる様子が可愛くて仕方がない。
もっと深く繋がりたいと思う気持ちを抑え込んで、最後に軽いリップ音を鳴らした。

「ぁ…ふっ……」

「足りないか?」

「ううん…ありがとぉ」

はあはあと呼吸を整えながらも、幸せそうに笑うアルカディアの姿を見ると、どうしようもなく胸の奥が熱くなった。

「くら、でぃお…」

「なんだ?」

「おかえり…」

「ああ……ただいま」

もう一度だけ、触れるだけの優しいキスをする。
すると、アルカディアがぎゅっと抱きついてきた。
弱々しい力で必死にしがみついてくるのが、たまらなく愛しい。
アルカディアを抱き締め返し、頭を撫でてやる。
暫くの間、互いに無言のまま抱きしめ合っていたが、不意にアルカディアが顔を上げた。

「………ぁ」

「…うん?」

「くらでぃお、まだ、ご飯食べてない」

「そんなことはいい」

「でも……」

申し訳なさそうにするアルカディアの額に軽く口付ける。

「じゃあ、夕飯に付き合ってくれ」

「……!……うん」

アルカディアは嬉しそうに微笑むと、起き上がろうとベッドに手を着いた。しかし上手く力が入らないのか、直ぐにぺたんと倒れ込んでしまう。
それを見かねて、クラウディオは横から抱え上げるようにしてアルカディアを持ち上げた。
そのまま寝室を出てリビングへ向かう。
ソファーに下ろしてやると、アルカディアは小さく息を吐いた。
クラウディオはキッチンへ向かい、冷蔵庫の中を確認すると、食材を取り出して手早く調理を始めた。
その間、アルカディアはぼんやりとテレビを眺めているようだ。丁度動物番組をやっているらしく、その後ろ姿は少しだけ楽しそうな雰囲気を纏っていた。
やがて出来上がった料理を盛り付けて、アルカディアの元へ戻る。

「出来たぞ。食べられるか?」

「うん」

「ほら、口を開けろ」

スプーンですくったシチューを差し出すと、アルカディアは素直にぱくりと口に含んだ。
飲み込む力も弱くなっているらしく、液状のものなら問題無く飲み込めるようだが、固形物は難しいようだ。
それでも、食べてくれるだけ安心する。

「…おいしい」

「そうか。良かった」

「くらでぃおのごはんすき」

アルカディアはにこにこと笑って、再び口を開けた。再び口に運んでやると嬉しそうに笑う。
器の中のシチューを全て平らげてくれた姿を見ているうちに、愛しさが込み上げてきて、思わずアルカディアの手を握った。
きょとんとした表情を浮かべるアルカディアに、優しく語りかける。

「私はお前が好きだ。誰よりも、何よりも、大切な存在だと思っている」

突然の言葉に驚いた様子のアルカディアだったが、その頬はほんのりと赤く染まっていた。
視線を彷徨わせながら、恥ずかしそうに俯く。

「…可愛い」

「んぅ…」

「愛しているよ、私のアルカディア」

耳元で囁いて、そっと首筋をなぞる。
それから、その細い首を包み込むように優しく覆った。
アルカディアは不思議そうに首を傾げていたが、特に抵抗することも無く大人しくしている。

「……くらでぃお?」

く、と親指を喉仏の辺りに押し付けた。
その感触を確かめるように何度か指を動かす。
アルカディアは黙ったままこちらを見つめていたが、少し苦しそうな顔をして、眉を寄せた。
まるで助けを求めるように、震える手がこちらに伸びてくる。
その手に指を絡めて握りしめた。

「アルカディア」

名前を呼んで、その瞳を見つめ返す。

「私を愛してくれ」

「ん……」

「ずっと傍に居て欲しい」

「うん……」

「私から離れないでくれ」

「……うん」

こくりと首を縦に振ったアルカディアを見て安堵すると同時に、激しい感情が湧き上がってきた。
衝動に任せて、強く、深く、アルカディアを抱き寄せる。
そして、首に噛み付いた。

「っ……!」

びくんと身体を跳ねさせたアルカディアの首に、何度も何度も歯を立てる。
血が滲み、唾液と混ざり合う。

「あ……っ…や、…」

痛みに喘ぐアルカディアの声を聞きながらも、やめてやることが出来なかった。
頭の中に響く警鐘を無視して、本能のままに彼を求める。
このまま永遠にこの腕の中から逃さない。
自分の懐で、壊し尽くしてしまいたい。
そんな凶暴な欲望に身を任せながら、更に強く、深く、傷痕を残す。
ふと、視界の隅でアルカディアが涙を流すのが見えた。
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、必死に何かを訴えようとしている。
しかし、それを聞くのが怖くて、気づかないふりをして行為を続けた。
元々力の入らないアルカディアは、もう抵抗することも出来ないようで、されるがままだった。
その姿が可哀想だと思う反面、酷く興奮する。

「……っ……ぁ……」

やがてアルカディアが意識を失うまで、そう時間は掛からなかった。それでも、離すことは出来ずにいた。

「…………」

気絶してしまったアルカディアの血で濡れた首元を拭い、ソファーに寝かせる。
その傍らで、暫くの間彼の様子を眺めることにした。
目尻に溜まったままだった涙を拭ってやると、微かに反応がある。
可愛い可愛いアルカディア。こんなにも愛しいのに、どうして、何故、彼を壊してしまうようなことを考えてしまうのだろう。
彼は何も悪くない。
悪いのは全て自分だ。
そんなことは分かっている。
でも、どうしても止められないのだ。
片手で顔を覆ったクラウディオは、深くため息をついて立ち上がる。風呂にでも入って、頭を冷やそうと風呂場へ向かった。



「……?」

ぼんやりと意識が覚醒していく感覚に、アルカディアはゆっくりと目を開いた。

「……くら、でぃお……?」

隣に居たはずの恋人の姿を探すが見当たらない。起き上がろうとするが、体には力が入らない。

「…くらでぃお?」

不安になって名前を呼ぶが返事は無い。
途端に胸の奥がざわついた。
寂しくて堪らなくなって、無意識のうちに手を伸ばす。
しかし、当然のことながらその手は空を切った。
嫌な予感に駆られて、何とか起き上がろうと試みるが、やはり上手く力が入らない。
次第に焦燥感が増していく。
アルカディアは必死に腕に力を込め、上体を起こそうとした。

「…っ……」

しかし、結局途中で力尽きて倒れ込んでしまう。そのままソファーの上で丸くなって、小さく震えた。
怖い。
どうしようもなく、恐ろしかった。

「くらでぃお…どこ…」

軽いパニック状態に陥っているアルカディアは、ただひたすらに彼の名前を呼んだ。
早く帰って来て欲しい。抱きしめて、キスして欲しい。
そうすればきっと、この恐怖も消えるはずなのに。

「くらでぃお……っ………」

涙が溢れてきて、止まらない。
アルカディアは声を上げて泣いた。
その時、がちゃりと扉が開く音が聞こえて、びくりと細い肩が跳ねる。

「……?くら、でぃお?」

顔を上げると、そこには会いたかった人がいた。
安心してさらに泣きじゃくるアルカディアの元へ歩み寄ってきたクラウディオは、優しく微笑んでその頬に触れた。

「どうした、アルカディア」

「……くら、でぃおっ……」

「泣くな。大丈夫だ」

そう言って抱き寄せてくれるのが嬉しくて、アルカディアはその広い胸に顔を擦り付けた。背中をさすってくれる手が温かくて心地良い。
少しずつ落ち着いてきて、ようやくクラウディオが風呂に入っていたことを理解した。

「悪い、お前が目を覚ます前に風呂に入ってしまおうと思ってな」

「うん…ごめ、ん」

「謝ることじゃない。私が悪かったんだからな」

「ん……」

首を振ると、優しく頭を撫でられた。
その感触が気持ち良くて、うっとりと瞳を閉じる。
それから少しだけ身体を離して、その琥珀色の瞳を見上げた。
吸い込まれてしまいそうな程綺麗なその瞳に、自分が映っていることが何よりも嬉しい。

「もう寝るか?」

「……まだ、眠くない」

「そうか」

「……一緒に居たい」

「ああ、勿論」

そう言うと、今度は唇が降ってくる。
柔らかくて、温かい。
その口付けに酔いしれていると、ふと、違和感を覚えた。

「……?」

首が、痛い。
不思議に思って首に触れると、ぬるりとした感触がする。
血だ。

「…ぁ、え…?」

そこで、アルカディアは漸く気づいた。
自分の首が血塗れになっていることに。
慌てて首元を押さえるが血はどんどん流れ出してくる。
混乱しているアルカディアを見て、クラウディオは苦笑した。

「傷が開いたかもしれないな。手当をしてやるから、手をどけてくれ」

「あ、ぇ」

クラウディオの言葉にアルカディアはさらに混乱する。アルカディアが自覚している首の傷跡は左側にある。しかし今、彼は右側の首に触れていた。

「……くら、でぃお……」

「ん?」

「なんで、こっち…?」

「……あぁ、」

そう言いながら、彼はアルカディアの首元に手を伸ばしてくる。そして、先ほど自分がつけた傷を強く押さえた。

「あ……っ……!」

鋭い痛みに悲鳴が上がる。傷は塞がりきっておらず、血がさらに滲み出した。

「覚えてないか?」

「ぇ…?」

「強く噛みすぎたな、悪い」

その言葉でぼんやりと思い出す。確か、クラウディオに首筋を噛まれた。その衝撃で意識を失ってしまったのだろう。

「くらでぃおが、つけた…なら、いい……」

「ふふ、そうか。でも、手当はしておこうか」

「ん……」

棚から救急箱を持ってきたクラウディオは、消毒液を染み込ませたガーゼで丁寧に拭いていく。
その間、アルカディアは大人しくされるがままになっていた。

「痛いか?」

「ちょっと……」

「我慢出来る?」

「……ぅん」

素直に返事をすると、クラウディオは満足げに笑って絆創膏を取り出した。
それを傷口に貼ってから、包帯を巻き始める。
手際の良い彼の処置のおかげで、出血はすぐに止まった。

「ありがとう、くらでぃお」

「どういたしまして」

「……」

「アルカディア?」

「……俺も、したい」

「何を?」

アルカディアはそのまま俯いてしまった。そんな彼にクラウディオは首を傾げる。

「どうした?何がしたい?」

「……くび」

消え入りそうな声で呟かれた言葉に、クラウディオは一瞬目を丸くした。しかしすぐに意地の悪い笑みを浮かべる。
アルカディアは真っ赤になりながら、それでもゆっくりと顔を上げた。
潤んだ赤い瞳に見つめられ、ぞくりと何かが背筋を走る。
この美しい男に求められているという実感に興奮した。

「じゃあ、お願いしようかな」

そう言ってシャツの前を開ければ、アルカディアは恐る恐るといった様子で首に唇を寄せた。
拙いその動きにさえ欲情してしまう自分に呆れる。
首に感じる生暖かい感触に息を吐いて、そっとその髪を撫でてやった。
かぷ、と柔く歯を立てられる。
恐らく、アルカディアは思い切り噛み付いているつもりなのだと思う。しかしその力は弱く、むしろ甘噛みされているようにしか感じなかった。
もっと、強くして欲しい。
そう思うが、アルカディアは首から口を離して不安そうにこちらを見上げてくる。

「くらでぃお、痛い?」

「全然」

「ほんと?」

「ああ」

そう答えてやると、安心したような表情を見せて再び噛み付いてきた。かぷかぷと何度も甘く噛まれて、くすぐったさに思わず笑い声が漏れる。
可愛さを感じると同時に、ここまで力が弱くなっているのかと心配になった。
こんなにも脆くなってしまった恋人に、胸が締め付けられる。

「…っ……ん…む……」

ちゅ、と音を立てて吸われると、ぴりりと甘い刺激が走った。
これはなかなか、クるものがある。
そのまましばらく好きにさせてから、今度はこちらの番だ。

「……アルカディア」

「ん……」

名前を呼んで顔を上向かせると、その小さな口へ舌を差し入れる。驚いたアルカディアが離れようとするが、後頭部を掴んで逃さない。
逃げる舌を追いかけるように絡めて吸い上げると、アルカディアは苦しそうに眉根を寄せた。

「んっ…ふ…ぅ……っ」

くぐもった喘ぎが耳をくすぐる。
上顎をなぞったり、歯列を舐めたりすると、ビクビクと身体を震わせて必死に応えようとしてくる姿が愛らしい。

「ふぁ…ぁ…くら、でぃお……」

「可愛いよ、アルカディア」

唇を解放して囁けば、とろんとした目で見られる。その蕩けた赤い瞳に誘われて、もう一度口付けた。

「んぅ…ふ…ぁ……ん…ぁ……」

角度を変えて深く貪る度に、くちゅくちゅという水音が響く。
飲み込みきれない唾液がアルカディアの顎を伝うが気にせずキスを続けた。呼吸すら奪ってしまう程激しいそれに、アルカディアの頭はぼうっとしてくる。
やがて、アルカディアの身体から完全に力が抜けた頃、ようやく唇を離した。

「ぁ…はぁ……」

「大丈夫か?」

「ん……」

荒い呼吸を繰り返すアルカディアの頭を優しく撫でる。
そして血に濡れた服を脱がせてやり、ソファーに掛けたままにしていたカーディガンを羽織らせる。

「風呂は、明日にしてもう寝ようか」

「ん…でも」

「なんだ?」

「……一緒に居たいって言った」

「…そうだったな」

「だから…まだ、起きてる」

そう言うと、アルカディアはクラウディオの手を取って自分の頬に押し当てた。その温もりを確かめるように擦り寄ってくる。
目の前の存在が、あまりにもいじらしくてたまらない。
ゆっくりと慈しむようにその頬を撫でていた時。

「…ごめんね」

不意に、ぽつりと呟かれる謝罪。
ぴくりとクラウディオの手が止まった。

「なに?」

「……」

「どうして謝る?」

「……おれ、くらでぃおが居ないと、何も出来なくなった」

「…ああ」

ぽつりぽつりと話すアルカディアの声を聞き漏らすまいと、静かに相槌を打つ。

「でも、おれ…くらでぃおの、迷惑にはなりたくない、から……」

「……」

「だから…おれが、要らなくなったら、殺してね」

もう生き返らないはずだから、そう言ってアルカディアは笑った。
泣きそうな笑顔で。
クラウディオは言葉が出なかった。
この男は、今自分がどんな顔をしているのか分かっているのだろうか。
思わずその腕を引いて、きつく抱きしめた。
アルカディアは驚いて一瞬身を固くしたが、すぐに力を抜いてクラウディオに身を委ねてきた。
おずおずと背中に腕が回される。

「…お前が居ない世界で、私は生きるつもりはない」

「……くら…」

「お前が死ぬ時は、私も一緒に死んでやる。お前が望んだことだ」

「……」

「だがもしそれが嫌になったなら、いつか私が死ぬまで生きていろ」

「……うん」

少しだけ、アルカディアの腕に力がこもる。
それに応えるように、クラウディオも強く抱き返した。

「くらでぃお、だいすき」

「ああ、知ってる」

自身のシャツを掴むその弱い力を感じながら、愛おしさに目を細めた。
もしも、彼がクラウディオ無しでは息も出来ないと言うならば、それは自分も同じだ。
彼は、こんなにも弱くなってしまってもなお、美しいままだ。
そんな彼を、手放せるはずがない。
その心が壊れても、ずっと側に居ると決めたのだ。
例え、彼の願いを叶えてやれなくても。

​​──いつかアルカディアが死んだその時は。

「(私は躊躇なく、自分を殺すのだろうな)」