Hey Silly Boy




喧嘩をした。
恐らく、初めてのことだった。
原因なんて思い出せないほど些細なものだった気がする。
普段ならアルカディアだってすぐに謝っていたはずなのだ。
だけど、今日は何故か素直になれなかった。絶対に言わないようなことも、言っては駄目だと分かっていることも、全て口から飛び出した。
アルカディア自身、何故こんなにも感情的になってしまったのか分からない。

クラウディオもそうだった。
今日は面倒な取引先との会合があって、それが終わった頃にはとてつもなく機嫌が悪くなっていた。
だから、普段なら聞き流したり笑って叱る程度のアルカディアの我儘や駄々に苛立ちを覚えてしまったのだ。
アルカディアの口から飛び出す言葉の数々が、彼の神経を逆撫でした。

ハッと漸くアルカディアが我に返りクラウディオを見上げた時。そこには見たこともない表情で自分を見つめる彼がいた。
怒りとも悲しみとも違う、形容し難い顔。
そして、さぞ面倒そうにため息を吐いた。

「ぁ…」

その瞬間、アルカディアは全てを理解した。
自分が何をしてしまったかということを。
クラウディオは最近ずっと忙しそうにしていた。疲れていたに違いない。なのに、それを労うどころか余計なことばかり言ってしまった。
いつもより眉間の皺が深い。不愉快そうなオーラを放っている。
何よりも、あの瞳の奥には呆れの色があった。
アルカディアは絶望感に包まれた。
もう二度と、この人に笑顔を見せてもらえないかもしれない。いや、きっと見せてくれない。
そう理解すると、アルカディアの顔からは血の気が引いた。
もう一度、今度は小さく息をついてクラウディオはくるりと背を向けてリビングを後にする。後ろからアルカディアが付いて来る気配がしたが、無視して扉を閉めた。



バスルームに入り乱暴に上着を脱ぎ捨てると、ネクタイを解きながら洗面台の鏡を見る。
酷い顔をしていると思った。
まるで別人だ。
普段はアルカディアの前では穏やかな笑みを浮かべている口元は真一文字に引き結ばれていて、琥珀色の双眼は不機嫌さを隠そうともしていない。
これではアルカディアも怯えてしまうだろう。
今頃彼はどう思っているだろうか? 泣いてはいないだろうか。それとも…
そこまで考えて首を横に振る。
どちらにせよ、今の自分に出来ることは一つしかない。
シャワーを浴びよう。
頭の中から嫌なものを全て洗い流したかった。



リビングに一人残されたアルカディアはソファの上で膝を抱えて座り込んでいた。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。後悔しても遅いけれど、それでも考えずにはいられなかった。
あれじゃあ本当に嫌われても仕方がない。でも…。
思考が悪い方へと傾く。じわりと涙が滲んできて慌てて腕で拭った。
どうしたらいいだろう。謝らないといけない。早く追いかけないと。だけど足が動かない。怖い。このまま出て行った方がいいんじゃないだろうか。
そうした方がお互いのためなんじゃないだろうか。
そんなことを考えているうちに時間は過ぎていく。

「(明日、休みだって言ってたのに)」

折角二人で過ごせる日だったのに。
久しぶりの休みだから楽しみにしていたのに。
それすらもぶち壊してしまうなんて最悪だ。
自己嫌悪に陥りながらもやはり動くことが出来ない。アルカディアは抱えた膝の上に額を押し付けて目を閉じた。

どれくらい時間が経ったのかは分からない。
ガチャリとリビングの扉が開かれた音を聞いてアルカディアはビクリと肩を揺らした。恐る恐る振り返れば、風呂に入っていたらしいクラウディオがキッチンへ向かおうとしているところだった。
​​──謝らなければ。
そう思っても、身体が強張って思うように動いてはくれなかった。
その間にもクラウディオは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスに注ぐと一気に飲み干して、そのまま寝室に入って行ってしまう。
その背中を見て、また泣きそうになった。
一度もこちらを振り向いてくれなかった。
ああ、やっぱり自分は彼に見放されてしまったのだ。
悲しくて寂しい。心細い。苦しい。
体は凍ってしまったかのように動かなくて、アルカディアはただじっと俯いていた。



寝室で寝る前に読書をしていたクラウディオは、ぱたりと本を閉じてサイドテーブルに置いた。
ふと時計を見ると時刻は既に日付を超えている。眼鏡を外して目頭を揉むと大きくため息をついた。
最近は特に仕事に追われていた。アルカディアとの時間もなかなか取れずにいたし、正直言えば疲れも溜まっていたと思う。だから、今日の夜から明日は久しぶりにゆっくりしようと思っていたのだが。

喧嘩なんてするつもりはなかった。
アルカディアも普段なら言わないようなことを言ったりして、珍しく感情的になっていたように思う。
アルカディアが何か言う度に苛立って、自分まで余計なことを言ってしまいそうになった。
正直、面倒だと思ってしまったのだ。それだけ余裕が無くなっていたんだろう。だが、それを態度に出すべきではなかった。

アルカディアが頼れるのはもう、この世で自分しかいないというのに。
またあの子を一人にさせてしまった。
あの時、彼がどんな顔をしていたのか思い出せないのは、恐らく疲れと眠気のせいだけではないはずだ。
少しだけ冷静になった頭が己の失態に舌打ちをする。

ベッドから出てリビングに向かった。明かりがついているということは起きているのかもしれない。
そっと扉を開けると、ソファーに座る後ろ姿が見える。彼の纏う空気がどんよりと暗い。
できるだけ穏やかに、怖がらせないように、ソファーに近づき背もたれに肘をついて声をかけた。

「アルカディア」

振り向いたアルカディアの顔を見た瞬間に、心臓を掴まれたかのような痛みを感じた。
瞳に一杯に涙を溜めたその顔は今にも決壊しそうになっている。唇を噛み締めて泣くまいとする姿が痛々しくて、クラウディオは無意識のうちに眉根を寄せた。

「…アルカディア、もう遅いから早く風呂に入ってこい」

クラウディオの言葉に俯いたアルカディアの瞳から重力に負けて涙が零れ落ちた。

「待っててやるから」

こくんと小さく首を縦に振ったアルカディアは、一度ぎゅっと瞼を瞑ると立ち上がった。
ゆっくりと歩いていくその後ろ姿を眺めながら、クラウディオは小さくため息を吐く。
ソファーに深く腰掛けて、思わず煙草に手を伸ばした。
いつものように一本取り出して口にくわえて火を点ける。深く吸い込んで紫煙と共に吐き出すと、頭の中で先ほどのアルカディアの姿が浮かんでは消えていった。

アルカディアが泣いている。
自分のせいで涙を流している。

それはひどく心を揺さぶられた。
同時に、そんな顔をさせた自分に腹が立った。
暫くすると風呂から上がったアルカディアがリビングに戻って来た。ドアの前で立ち尽くしている彼を手招きすれば、おずおずと隣に座ってくる。
しかし視線は床に落とされたままで、まだ顔を上げてくれない。

「アルカディア」

名前を呼べばびくりと肩を震わせた。
うろうろと赤い瞳がさ迷っている。膝の上で握りしめられている拳が微かに震えているのが見えて、クラウディオは僅かに目を細めた。
きっと、アルカディアは今とても悩んでいるんだろう。
何をどう伝えればいいか、どう行動したらいいのか。
それを考えるだけで精一杯なのだ。ならば、自分がするべきことは一つしかない。

「悪かった」

ぽつりと呟かれた言葉にアルカディアが弾かれるようにして顔を上げた。
信じられないという表情を浮かべている。

「私が大人げなかった。すまない」

「ち、が…おれが…」

じわじわと潤んでいった瞳からまた涙が溢れ出す。
必死に否定しようとするアルカディアの頭を優しく撫でた。
こんな風に泣かせてしまうなんて、本当にどうかしていた。

「おれ、…ひど、い、こと、言って、ごめ、なさっ……」

しゃくり上げながらも懸命に謝るアルカディアに胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

「ああ。私も、すまなかった」

もう一度謝罪を口にして、そっと抱き寄せる。
腕の中に収まったアルカディアは子供みたいに泣きじゃくっていた。

「ごめ、なさ…きら、わ、ない、で…」

その声が、あまりにか細くて弱々しかったから。
クラウディオは強くアルカディアを抱きしめる。

「嫌いになんてなるか。お前は私の全てなんだ。私には、お前しかいない」

耳元で囁けば、ぐすぐすと鼻を鳴らしながらも何度もこくりと首を動かした。
ああ、やはり自分はこの子に依存している。
この子が居なければ、生きていけないくらいに。
そう思い知らされて、クラウディオは自嘲気味に笑みを漏らした。

「一人にして悪かったな、怖かったろ」

弱くしがみついてくるアルカディアの背中をあやすように軽く叩く。
そう言えば、彼はまたふるふると首を横に振って、ぎゅうとしがみついてきた。

「だい、じょ、…ぶ」

「そうか」

「…も、おこら、ない、で」

「ああ」

「いっしょ、…いて、ほし、い」

「勿論だ」

「ひとり、やだ、…おいて、かない、…で」

「置いていかない。ずっと一緒に居る」

「ごめ、なさい、きらい、なら、ないで」

先程の言葉を繰り返してまたポロポロと涙を流すアルカディアの姿はまるで迷子の子供のようで、クラウディオは胸を衝かれた。
ああ、そうか。この子はずっと不安なんだろう。
こんな自分にいつか愛想を尽かされるんじゃないかと。捨てられてしまうのではないかと。
そんなことクラウディオはしないのに、分かっているのにそれが怖くて仕方がないのだ。

「大丈夫、大丈夫だよ」

まるで赤ん坊をあやすかのように、一定のリズムを刻み、何度も繰り返し言い聞かせる。
安心させるように、慈しみを込めて。
暫くすると、アルカディアは泣き疲れてしまったのか、いつの間にか眠ってしまったようだった。
クラウディオの胸に頬を擦り寄せて寝息を立てているその様子は、いつもより幼く見える。
その頭を優しく撫でながら、クラウディオは目を細めた。

アルカディアがこんなにも泣いた所を見るのは、ルカが死んだ日以来かもしれない。
情事の時に流す涙と違って随分と痛々しく見える。
自分が泣かせてしまったんだな、と改めて実感すると罪悪感と自己嫌悪に苛まれた。
けれど、それでもアルカディアが自分の傍にいることを選んでくれたことが嬉しいと思ってしまう。
矛盾しているのは分かっていたが、その感情は止められなかった。
自分だけが彼の唯一でありたい。他の誰でもなく、自分の手で幸せにしたい。
そんな傲慢とも言える想いが心の奥底に根を張っている。
だから、例えアルカディアが泣いても、傷付いても、手放すことなど出来ない。

「…ん……」

ふと、身動いだアルカディアの瞼がぴくっと動いた。ゆっくりと開かれた瞳がぼんやりと虚空を見つめている。

「悪い、起こしたか?」

「……くら、でぃ…お…」

まだ夢現なのか、舌足らずに名前を呼ぶアルカディアに思わず苦笑いを零す。

「私はここにいるよ」

「……」

「もう怒ってないし、お前を嫌ったりもしていない」

「…ほんと、に…?きら、なって、ない……?」

「ああ」

「おれ、のこと、すき……?」

「好きだよ」

「…よかった」

ふわりと微笑むアルカディアの表情はあどけなくて、思わず見惚れてしまいそうになる。

「おれ、ね、くらでぃお、の、こと、好き、なんだ」

「ああ」

「大好き、なの」

「知っている」

「えへ、へ」

嬉しそうに笑うアルカディアを見て、クラウディオもつられて口元を緩めた。
この笑顔が見られるだけで充分だ。
この子が居れば他には何も要らない。

「私もお前を愛している」

そう言って額に唇を落とすと、アルカディアは照れたようにはにかんで、そのまままた眠りに落ちていった。

「おやすみ」

穏やかな寝顔を見ながら、クラウディオは静かに呟いた。