烟る喧噪の目



自身の胸元に伸びてくるアルカディアの手を、クラウディオはぴしりと叩き落とした。
会社に連れて来たのは失敗だったかもしれない。今更ながら後悔した。

社長室のソファーで仕事をするクラウディオの隣にぴったりと寄り添い、アルカディアは隙あらばクラウディオのネクタイを緩めようとしてくるのだ。ネクタイだけではない。ジャケットを脱ぐよう促したり、シャツの第一ボタンを外すように言ったり、時にはベルトに手をかけてきたりする。

「……アルカディア」

「なぁに?」

甘ったるく笑う顔も可愛らしいが、今はそれどころではなかった。

「仕事中だと言っただろう」

「うん」

そう言いながらも、アルカディアの手の動きは止まらない。くいくいとネクタイを引っ張ってくる。

「こら、」

叱るように言ってみても、アルカディアは全く効いていないようだ。むしろ嬉しげにしている。
まるで悪戯をする子供のような表情をしていた。
その様子にため息をつくと、クラウディオは仕方なく書類から目を離して、隣にいる恋人を見やった。
するとアルカディアは待ってましたとばかりに、ぱっと笑顔になって両手を広げる。

「ん!」

そして、抱っこをせがむ幼子のように抱きついてくる。
クラウディオはまた一つ溜息をついた。

「(仕方ないな)」

そんな風に思いつつも、結局は抱きしめてしまう自分がいるわけだが。
腕の中にすっぽりと収まったアルカディアの頭を撫でてやると、彼は猫の子みたいに喉を鳴らした。
ふわふわとした赤毛が頬に触れて少しくすぐったかったけれど、心地良い感覚でもあった。
少しの間だけ休憩しよう、と決めて再び視線を落とす。
アルカディアの腕がぎゅうと背中へ回された。
そのまますりすりと額を押しつけてくる仕草が何とも愛らしくて、思わず笑みがこぼれそうになる。
しかし、次の瞬間には唇を重ねられていた。
突然のことに身を引こうとするものの、後頭部を押さえつけられていて動けなかった。
ぬるりとした舌先が歯列を割って入り込んできて、口腔内を自由に蹂躙される。
やがて満足したのか、ゆっくりと離れていくアルカディアの顔は上気していた。
熱を帯びた瞳に見つめられて、ぞくりとする。

「……アルカディア」

咎めるような口調で言うと、アルカディアは小首を傾げた。

「会社ではやめろ」

「んん〜」

曖昧な返事をして、クラウディオの肩に頬を乗せる。
どうやら聞いていないようだ。

「きす、だめ?」

「駄目だ」

即答すれば、アルカディアは不満げに眉根を寄せた。

「じゃあキス以外ならいいってこと?」

「…は」

何を言っているんだ、と言いかけたところで、アルカディアの手がクラウディオのネクタイを素早く解いた。続いてベストのボタンにも手をかけ始めるものだから、さすがにぎょっとして制止しようとするのだが、時すでに遅し。
器用に片手だけでボタンを全て外してしまうと、アルカディアはシャツをぐっと引っ張り鎖骨に吸い付いた。ちり、と微かな痛みを感じて顔をしかめたクラウディオを見て、アルカディアは口角を上げる。

「俺以外の前でそんな顔したらダメだよ」

独占欲丸出しの言葉と共に今度は首筋へと口づけられる。
ちゅっちゅと音を立てて何度も吸われるうちに、だんだん身体の奥底の方が疼いてきて、クラウディオは小さく身じろいだ。
アルカディアはクラウディオの反応を楽しむかのように、さらに強く吸い付いてくる。
それから、おもむろに胸元の方まで降りてきた手がシャツ越しに突起に触れたかと思うと、ぐりぐりと押し潰してきた。

「……ッ」

びくりと反応したクラウディオに気をよくしたのか、アルカディアはもう片方の手で反対側の乳輪をくるくるとなぞり始めた。時折中心に触れると、指先で軽く弾いては摘んで引っ張ったりを繰り返す。
その度に甘い痺れが走って、クラウディオは息を詰めた。

最近アルカディアが攻めてくる。情事中はあんなにぐずぐずになるくせに、普段の生活の中では妙に積極的なのだ。
正直なところ、嫌ではない。
むしろ可愛いと思っているくらいだが、問題は場所だった。
いくら社長室だからといって、いつ誰が入ってくるかも分からないのだ。こんなところを誰かに見られるわけにはいかない。

「アルカディア、やめなさい」

「んん」

耳元で囁くように言ってみても、アルカディアは聞き入れようとしなかった。それどころか、逆にきつく胸を弄られてしまう。
思わず声が出そうになって、慌てて口を手で押さえた。

「…ぅ……」

「かわいい」

「……馬鹿を言うな」

低い声でそう言うと、アルカディアは顔を上げてくすりと笑った。

「だって本当だもん」

そう言って、再び唇を合わせてくる。
舌先を強く絡められながら、同時に両方の乳首を責め立てられて、思考がどろりと溶け出していくのを感じた。
このまま流されてはまずいと頭の中で警鐘が鳴る。
自分がアルカディアを開発したように、アルカディアもまた自分の弱い部分を見つけようとしている。そう気がついた時にはもう遅かった。

「こえ、ききたい」

あむ、と甘噛みされながら強請るように言われて、つい「わかった」と答えてしまいそうになる。

「くらでぃおが、おれのせいでおかしくなってくの、すき」

舌足らずに言って、アルカディアはうっとりと目を細めた。

「もっと見せて」

「……」

何も言えずにいると、アルカディアはクラウディオの首に腕を回して、ぐっと引き寄せるように力を込めた。
そしてそのまま、ソファーの上に押し倒される。
覆い被さってくるアルカディアの目はすっかり蕩けていた。

「ねぇ、」

「……駄目だ」

「お願い」

「……」

「ちょっとだけ」

「駄目だ」

「どうしても?」

「駄目だと、」

言いかけた言葉は、途中で途切れてしまった。
アルカディアが切なげな表情をしたからだ。
まるで捨てられた子犬のような目で見つめられて、クラウディオは言葉を詰まらせた。
結局はいつもこうなる。惚れた弱みというやつだろうか。

「……少しだけだぞ」

ため息混じりに言えば、アルカディアは嬉しそうな表情を浮かべて、クラウディオの胸に頬擦りした。

「ありがとぉ」

礼を言いながらも手の動きを止めないところが、何とも彼らしいと思う。
シャツのボタンを全て外すと、アルカディアは露わになった肌に唇を寄せた。
割れた腹筋に沿って舌を這わせ、時折強く吸い付いて痕を残していく。

「くらでぃおの、からだ、すき」

うわごとのように呟きながら、アルカディアは夢中で愛撫を続けた。

「きれい」

「…私には似合わん言葉だ」

「そんなことない」

アルカディアは首を振ると、今度は胸の突起を口に含んだ。

「ぁ……ッ」

思わず漏れ出た吐息を聞き逃さず、アルカディアは上機嫌に微笑んでみせる。

「俺の好きな人は、全部綺麗だよ」

こういう時だけ饒舌になるのは、わざとなのか天然なのか。
どちらにせよ、ずるい男だと思う。

「……綺麗で、おいしそう」

アルカディアは熱に浮かされたような口調で言うと、片方の乳首に歯を立てた。もう片方は指先で捏ねくりまわされる。

「っ、ん」

痛みすら快感に変わるのだから、人体というのは不思議なものだ。
クラウディオはぼんやりとそう思った。
アルカディアの手はクラウディオの体躯の上を這い回り続けている。
やがて下半身に到達したところで、クラウディオはその細い手首を掴んだ。

「そこまで」

「なんで?」

アルカディアは不満げに口を尖らせる。

「お前はこれ以上のことをするつもりだろう」

「うん」

「うんじゃない。もう終わりだ」

「えー」

「ほら、どいてくれ」

クラウディオはそう言って、アルカディアを押し退けようとするのだが、アルカディアは抵抗した。

「やだあ」

駄々っ子のような態度を取るアルカディアに、クラウディオはため息をつく。

「お前いつからそんな我儘になったんだ」

「くらでぃおのせい」

「人の所為にするな」

そう言って叱ってみても、アルカディアは全く動じなかった。

「だって、ほんとうのことだもん」

アルカディアの言葉に嘘はない。それは分かっている。
しかし、ここで許すわけにもいかないのだ。

「だめだ。仕事が残ってる」

「そんなの、あとでいいじゃん」

「よくない。帰るの遅くなるぞ」

その言葉にぴたりとアルカディアの動きが止まった。どうやら効果があったようだ。

「私は早く帰ってお前とゆっくりしたい」

とどめとばかりに付け足せば、アルカディアはぐっと息を詰めた。それからしばらく黙り込んだ後、渋々と身体を起こした。

「わかった、我慢する」

素直に言うことをきくアルカディアを見て、クラウディオは内心ほっとした。
これでようやく落ち着いて仕事ができる。

「いい子」

頭を撫でると、アルカディアは猫みたいに目を細めて気持ちよさそうな顔をした。
本当に可愛い奴だ。
そう思いながらネクタイを締め直していると、アルカディアがじっとこちらを見ていることに気付いた。
何か言いたげな視線を向けられていて、クラウディオは首を傾げる。
もしかすると、また我を通したくなったのかもしれない。
そう思ってアルカディアの顔を見ると、予想に反して彼は嬉しそうに笑った。

「ネクタイ締めてるくらでぃお、かっこいい」

「…ありがとう」

「まって、写真撮りたい」

アルカディアはいそいそと端末を探し出す。
またあのフォルダが潤うのか、と半ば諦めの境地でその様子を見守っていると、アルカディアが声を上げた。

「端末わすれた」

そう口にしたアルカディアは、それはもう悲しそうな顔をしていて、クラウディオは思わず笑ってしまった。

「やっぱり忘れてるじゃないか。あのフォルダ消そうか」

「だめ!」

慌て出すアルカディアを横目に、笑いながらクラウディオはネクタイを締め終わる。

「もったいない…」

「いつでも見れるだろ」

ネクタイなんて毎日締めているのだから、わざわざ写真を撮るようなものではないとクラウディオは思う。
けれど、アルカディアにとっては違うらしい。

「いつでもは見れないもん」

残念そうにため息をついたアルカディアは、ぼふんとソファーに倒れ込む。
脱がされたベストとジャケットを着直して、乱れた髪を軽く整える。

「かっこいい」

ソファーの上でごろりと転がって、アルカディアはもう一度呟いた。

「おれだけの、くらでぃお」

独り占めできて嬉しい、とアルカディアは言った。
その姿はとても無邪気で可愛らしいものだった。

「おれのことだけ考えてて」

可愛らしい表情に似合わない低い声で呟かれた独占欲丸出しの台詞に、クラウディオは苦笑いを浮かべる。
自分が他の存在に目が向くはずがないのに。

「……お前のことを考えていない時間の方が少ない」

そう言って、彼の頬をそっと撫でれば、アルカディアは満足げな表情を浮かべた。