want to be loved



「…っ…」

びく、とクラウディオの体が小さく跳ねた。
その姿を見てぞく、とアルカディアの背筋が震える。

「…ごめん、痛かった?」

「ああ…いや、大丈夫」

珍しく、クラウディオが怪我をした。
それも、包丁で指を切るというベタな失敗をして。
本当に、珍しい。仕事で怪我すらしないで帰ってくる人が。
止血のためにガーゼを当てていた力が少し強かったらしく、痛みに顔をしかめたクラウディオを見て慌てて力を緩める。
ガーゼは真っ白だったはずなのに、今はじんわりと赤く染まっていた。
じくじくと、滲み出るように広がっていく赤い色。
それが妙に鮮やかで、思わずじっと見つめてしまう。
ふとアルカディアの中に、小さな欲が生まれた。
​​──舐めてみたい。
そう思った瞬間にはもう、舌を伸ばしてぺろりと傷口を舐めていた。

「……っ!」

驚いたような声と共に体が揺れたが、構わずにそのまま続ける。
溢れ出た血液を吸い取るようにちゅうっと吸ってから唇を離すと、アルカディアは自分の唾液と混ざったそれをごくりと飲み込んだ。
鉄臭い味だと思ったけれど、何故か甘く感じる。
もっと欲しい。
そんな欲望のままに再び顔を寄せようとすると、今度は強く肩を掴まれた。

「こら、やめなさい」

「……なんで?」

不満げに見上げると、呆れた表情を浮かべられた。

「なんでじゃないだろう…」

「美味しい」

「美味しくない」

ぴしゃりと言われてしまった。
むっとして悪戯に彼の指を掴む手にぐっと力を込めてみた。

「…っ」

痛みに顔を歪めたクラウディオを見て、再びぞくりとした感覚を覚える。
この感覚がなんなのか分からない。ただ、もっと彼を痛めつけてみたいと思ってしまったのだ。
きっと自分はおかしいんだろうと思う。
こんなことを考えるのは、普通ではないはずだ。
それでも一度生まれた欲求を抑えることはできなくて、もう一度だけと思いながらゆっくりと手に力を込めていく。
しかしそれは叶わなかった。
何故なら、クラウディオの手によって阻まれてしまったからだ。

「アルカディア」

名前を呼ばれてハッとする。
我に返ると、彼はどこか咎めるような視線を送ってきていた。
そこでようやく自分が何をしようとしていたのか理解して、ぽつりと呟く。

「…おこらないで」

怒られるかもしれないとは思っていた。
だけど実際に冷たい眼差しを向けられてしまうと、胸の奥がきゅんと苦しくなる。

「別に怒ってはいないよ」

優しい口調だったが、やはりいつもより少し声が低い気がする。
アルカディアの瞳がうろうろと彷徨い、やがて耐えられないといった様子で俯いた。
アルカディアのマイナスの感情を読み取ったのか、ルカが小さく鳴きながら彼の膝に乗り上げる。
クラウディオは手早く自身の処置を済ませると、アルカディアの顔を覗き込む。
琥珀色の瞳に見つめられて、小さくアルカディアの喉が鳴る。

「さっき、なんで力を込めた?」

その目は駄目だと本能的に感じ取った。
だから見たくないのに、逸らすことができない。
じっと見つめられれば、どんどん思考が鈍っていく。
まるで催眠術にかけられたかのように、意識までぼんやりとしてきて。
無意識のうちに口が動いた。

「くらでぃお、を……傷つけ、たくなった」

「どうして?」

どうして?
聞かれても答えられなかった。
ただそうしたいと、そうしなければいけないと感じただけだ。
上手く頭が回らず黙っていると、クラウディオは再び尋ねてくる。

「……私のことが嫌いになったか?」

「……きら、い?」

オウム返しのように繰り返す。
その言葉を理解して、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
違う。嫌いなんかじゃない。
自分はただ​​──
アルカディアは自分が抱いた感情が何であるのか、その時気付いてしまった。同時に全身の血の気が引いていく。

「……ぁ」

どうしよう。
この感情は、駄目だ。危険だ。絶対にいけないことだ。
​​──クラウディオが傷付くと興奮する、なんて。
自分の中にある未知のものに、酷く怯えた。
このままでは、何かが変わってしまう。自分の中の大切なものが壊れてしまう。
そう思った途端に、視界がぐらりと揺れる。
世界が回る。気持ち悪い。吐きそうだ。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
咄嗟に膝の上のルカを抱き上げて、縋るようにぎゅうと抱き締めた。

「……アルカディア?」

様子がおかしいことに気付いたクラウディオが、そっと名前を呼ぶ。

「ぅ、あ……」

それにすらびくりと体を震わせ、逃げようと後ずさるが、すぐにソファーにぶつかった。
目の前には心配そうな表情をした恋人がいる。

「ちが…おれ…っ、ごめ、なさ……!」

ぐるぐると目が回って、まともに話すこともできない。
震えていると、大きな手が頬に触れた。

「大丈夫だ。落ち着け」

優しく囁かれて、少しだけ安心した。
そのまま何度も頭を撫でられ、背中をさすられているうちに少しずつ落ち着いてくる。ルカも心配そうに頬を舐めてくれていた。
ふと先程までの行為を思い出して恥ずかしくなってくる。
あんなことをしてしまうほど、自分はおかしくなっていたらしい。

──ああ、もう。最悪だ。
こんなはずじゃなかった。
こんな風に彼を困らせたくはなかった。
それなのに、我慢できなかった。抑えられなかった。抑えたくもなかった。
だって、ずっとこうしたくて堪らなかったから。
──好きだから、傷付けたいと思った。

こんなのは、間違っている。
分かっているはずなのに、心は勝手に暴走していく。
もっと傷付けたら、彼はどんな反応をするだろうか。
痛めつけたら、苦しませたら、泣かせたら、彼は一体何を感じるのだろう。
そんな考えばかり浮かんできて怖くなって、ルカを抱いたまま思わずクラウディオの胸元に飛び込んでいた。優しく抱き締めてくれるその腕が、酷く安心する。

「大丈夫か?何があった?」

「……なんでも、ない」

「そんなわけないだろう」

「ほんとうに、なにも、ない」

「本当に?」

「う、ん」

嘘だ。本当は、もっと酷いことを考えていた。
だけどそれを口にしたら、嫌われてしまいそうで言えなかった。だから何もないふりをして、誤魔化すように彼の胸に顔を埋める。

「……分かった」

納得していないだろうに、クラウディオはそれきり追及してこなかった。
その優しさが嬉しくもあり、申し訳なくもある。
好きだ。大好き。世界中の誰よりも愛している。
だから、だからこそ、傷付けたい。
大切にしたいのに、壊してしまいたいとも思ってしまう。
矛盾だらけの心が嫌になる。
いっそこの想いが消えてしまえばいいのに。

「おれ、へんだ」

ぽつりと呟けば、クラウディオは何も言わずにまた抱きしめてくれた。
それがまた泣きそうになるくらい幸せだったけれど、それと同時に恐ろしくもあった。
いつかこの優しい人を傷付ける日が来るかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうな痛みに襲われる。

「くらでぃお」

「なんだ?」

「ごめんね」

「……」

「……すき」

それだけ言って、目を閉じた。
これ以上は話せない。今はただ、眠ってしまいたかった。



「…」

ふ、とアルカディアの目が開く。
部屋の中は真っ暗で、まだ夜であることを示していた。
いつの間にかベッドの上に寝かされていて、隣ではクラウディオとルカが眠っている。
その姿を見て、ようやく現実に戻ってこられた気がした。
夢を見ていたのかもしれない。
いや、きっとそうに違いない。
でなければ、自分があんなことを考えるはずがない。
クラウディオを起こさないようにゆっくりと起き上がる。彼が目覚める気配はない。
ほっとしたような、残念なような複雑な気分だ。
アルカディアは音を立てないようにベッドを出ると、洗面所に向かった。

冷たい水で顔を洗い、鏡を見る。
そこに映っていたのは、いつも通りの自分だ。
よかった。あれが夢で良かった。
安堵して、それから少し落ち込んだ。
あの夢の中の自分が本当の自分だとしたら、自分はとんでもなく歪んでいる。
傷付けて、泣かせて、支配したいなんて。
そんなこと、絶対に望まない。
──でも、もしも。
もし、仮に。
万が一にでも、そうしてしまったら。
その時はどうなるのだろうか。

「……っ」

想像しただけで吐き気が込み上げてきた。
気持ち悪い。恐ろしい。怖い。
──自分が自分でなくなるようで、どうしようもない不安に襲われた。

「くら、でぃお」

小さく彼の名前を呼ぶ。
その時、足元にふわりとした感触。驚いて見下ろせば、ルカがアルカディアの足に擦り寄っていた。

「…ルカ」

「にゃう」

「……だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」

まるで自分に言い聞かせるように繰り返す。
大丈夫。大丈夫に決まっている。
だって、あんなことを思うはずがない。考えるはずがない。絶対にありえないことだ。
そう何度も繰り返しながら、アルカディアはルカの頭を何度も優しく撫でた。



ゆっくり足音を消して寝室に戻る。そこには変わらず恋人の姿があって、ひどく安心した。
暗闇に慣れた目で時計を見ると、時刻は午前3時を指していた。
ルカが軽々とベッドに乗り上げるのを見届けてから、眠るクラウディオをベッドサイドから見つめる。
穏やかな呼吸を繰り返すその口元に、そっと指先を当てた。
温かい。生きている人間の温もりだ。
それを確認してから、今度は頬に触れる。
そのまま首筋まで手を滑らせると、とくとくという脈打つ音が伝わってきて、何故だか涙が出そうになった。
ああ、やっぱり好きだ。
そう思った途端に、身体が勝手に動いた。

「ん…」

唇を重ねる。触れ合うだけのキスだ。
それでも十分幸せなはずだった。
なのに、どうしてだろう。
物足りないと思ってしまった。
もっと欲しい。もっと深く繋がりたい。
そんな欲望が膨れ上がっていく。
駄目だ。これはいけない。
頭の片隅で警鐘が鳴るが、理性の声はどんどん遠くなっていく。
気付けば、彼の上に跨がって唇を重ねていた。

「……っ」

舌先で軽く舐めると、驚いたのか僅かに唇が開かれた。
そこからするりと侵入させて、歯列をなぞり、上顎を撫でて、逃げるように引っ込んだ彼の舌を捕まえて絡め取る。

「ん…ふ…ぅ」

息継ぎの合間に漏れ出る声が艶めかしくて、ぞくぞくした。
何度も角度を変えて貪るような深いキスをするうちに、頭がぼんやりしてくる。思考回路が鈍くなって、何も考えられなくなった。
ただひたすらに彼を求めて、求めるままに快楽を追う。
いつもより睡眠が深いのか、彼は起きる様子がなかった。
それに酷く興奮する。

好き。大好き。愛している。
狂ったように愛の言葉を繰り返しながら、アルカディアは彼の服を脱がせていった。
露わになった上半身に、ごくりと喉を鳴らす。
綺麗だと思った。美しく鍛え上げられた肉体は芸術品のように完成されている。
あちこちに跡を残せば、彼はぴくりと反応を示した。
ぞくぞくする。堪らない。
もっと、もっと傷付けたら、どんな反応を見せてくれるだろうか。
考えただけで達してしまいそうだ。
視線を感じて首を傾ければ、ルカがじっとこちらを見ていた。答えるようににこりと笑ってから、ゆっくりと彼の腕を持ち上げて、その手首に噛み付いた。

「…っ!」

びく、とクラウディオの体が跳ねてその目が開く。
寝起きでゆらゆらと揺れる瞳に、自分が映っていることに歓喜した。

「あ……」

「……なにしてるんだ」

低い声で尋ねられて、全身に電流が走ったような感覚に襲われる。

嬉しい。
もっと、もっと怒って。
もっと、もっと傷ついて。
もっと、もっと──俺だけを見て。

「くらでぃお」

熱に浮かされたような顔で名前を呼べば、彼は眉間に皺を寄せてこちらを見た。
その表情が、とても美しいものに思えた。

「…何してる」

「かんでる」

「それは見れば分かる。何故噛んでるんだ」

「すきだから」

答えれば、ますます不機嫌そうな顔をされる。
それすらも嬉しく感じてしまうのは、やはりどこかおかしいのかもしれない。
だが、今はもう止められない。
この人を壊してしまいたいと、壊してしまえと思う自分がいる。
その感情に抗うことなく、アルカディアはクラウディオの手首に再び歯を立てた。
ぎり、と強く噛み締めると、血の味が広がる。
クラウディオの片腕が動いて、ぐっとアルカディアの頭を掴んだ。
そのまま引き剥がそうとするので、抵抗するように力を込めた。
痛いのかな、と思う。
でも離すわけにはいかない。
このまま食べ尽くしたいくらいに、好きなのだ。

「やめろ」

しかし強い口調の命令に、反射的に口を開けてしまった。
すぐに頭を掴んでいた手は離れたが、クラウディオの目つきは明らかに怒りを含んでいた。
思わず視線を外して俯く。

「ごめんなさい」

「何に謝ってる?」

「……おこらせた」

「怒られるようなことをした自覚はあるみたいだな」

「……」

目だけを動かしてクラウディオを見つめる。いつもなら彼の目つきにきっと怯えていただろう。だが今は違った。

──もっと欲しいという欲の方が勝っていた。
欲しい。彼が欲しい。
自分だけの物にしたい。自分だけを愛して欲しい。
支配したい。独占したい。自分だけの物であって欲しい。
そんな醜悪な欲望が、止まることなく溢れてくる。
怖い。怖いけれど、それ以上に──幸せだった。

「くらでぃお」

「………」

「くらうでぃお、くらうでぃお、くらうでぃお」

アルカディアの細い腕がルカを抱き上げ、慈しむようにその頭を撫でた。
そして壊れた玩具のようにクラウディオの名前を呼び続ける。
アルカディアの赤い瞳はうろうろと忙しなく動き回っていて、その焦点は定まっていない。

「おい、アルカディア」

「くらうでぃお、くらうでぃお」

呼び掛けてもアルカディアは返事をしない。
その手はルカの頭を撫で続けている。
まるで何かに取り憑かれたかのように同じ言葉と行動を繰り返すだけだ。
その姿は異様としか言いようがなかった。

「……」

「……」

ぽとりとその腕からルカを落とし、そしてぱたりと何も言わなくなった。戸惑っている様子のルカの頭を、今度はクラウディオが撫でてやる。
アルカディアは先程までの狂った様子とは打って変わって、死んだように動かなくなる。

「あのね」

そして突然発せられた声色は別人のようなものだった。穏やかではあるが、有無を言わせぬ強制力が感じられる。
普段のアルカディアからは想像できないほど大人びていて、それが却って恐ろしかった。

「おれね、くらうでぃおが好きなの」

「……」

「すごく好き」

「……」

「ずっと一緒に居たい」

「……」

ぽつり、ぽつりと紡がれていく言葉を黙って聞く。
その間、一度も目を逸らすことはなかった。
やがて、アルカディアは静かに眉を下げて笑った。

「でも、わかんない」

「……何が分からないんだ」

「おれがなんなのかわかんない」

泣き笑いに近い表情を浮かべて、アルカディアは言う。
それは途方に暮れている子供のようでもあって、ひどく哀れに見えた。

「おれくらうでぃおが好きなの。なのに、傷付けたくなるの」

そう言って、彼は自らの手首に歯を立てようとした。
さっきまでクラウディオにしていたように。
しかし、今にも噛み千切りそうな勢いにぎょっとして、慌てて止めに入った。
アルカディアの腕を掴んで力を込める。だが彼は全く怯む様子を見せなかった。

「離せ」

「やだ」

「いいから離せ!」

怒鳴れば、ようやく彼は手を止めた。
アルカディアが今、どういう状態なのかわからない。今までこんなことなかった。
ルカですら困った様子を見せているのだからこれは異様な事態なのだと思う。
錯乱しているのだとしても、何が引き金になったのか分からなかった。
だが、それを訊ける雰囲気ではない。
目の前にいるアルカディアの姿が、あまりに痛々しくて、消えてしまいそうな気がしたからだ。
腕を掴まれたままのアルカディアは、ぼんやりとした瞳でこちらを見る。
その瞳の奥に映る自分の姿は、酷く不安げな顔をしていて、情けなかった。
どうしてやるのが正解なのか、分からない。
どうすれば、この子を救えるのか。

「…アルカディア」

名前を呼べば、彼はゆっくりと瞬きをした。それから小さく首を傾げる。

「私はお前に、何をしてやったら良いんだ」

「……?」

「教えてくれ」

「なに、って」

「私に出来ることはあるか」

「……」

彼は少しの間沈黙していたが、ふっと口元を緩めて微笑んだ。
今目の前にいるのは誰だ?
本当に自分が知るアルカディアか?一瞬そんな疑問さえ浮かぶような表情だった。
優しく細められた目元は甘く蕩けて、見ているだけで胸が苦しくなった。
そんな表情が出来るなんて知らなかった。

「私を殺したいのか?」

「…え?」

「殺せば、その苦しみは消えるか?」

「……ちがうよ」

アルカディアはゆるりと首を振る。
その仕草に、何故かぞわりと背筋が震えた。

「違う。殺したくない。くらうでぃおのこと好きだもん」

「じゃあ……」

「でも、くらうでぃおを独り占めしたい」

その瞬間、頭の中で何かが弾けたような音が響いた。
──独占欲。
そうだ。これは独占欲なのだ。彼はクラウディオを独占したくて堪らないのだ。

「くらうでぃおが他の人と喋ってると、イライラする。触られるのも嫌だ、俺以外見ないで欲しい。くらうでぃおを困らせたい、怒らせたい。悲しませたいし、泣かせたい」

「……」

「でもね、やっぱり一番は笑って欲しい。笑顔が好き。だからいつも笑ってて欲しい。だけど、たまには怒って欲しいし、泣いて欲しいし、傷付いて欲しい」

「……」

アルカディアの言葉を聞いているうちに、段々と冷静になってくる。
そして理解出来た。

この子は──アルカディアは、まだ子供なんだ。
ずっと親に愛されたくて、構ってほしくて、誰かに必要とされたくて、寂しくて、愛したくて、でも愛されなかった…ただそれだけの子供だ。
愛に飢えた、幼い子供だった。
ただ、他人に愛して欲しいだけ。
愛され方を知らないだけだ。
愛されることがどんなものかも知らないだけ。愛が何かすら分かっていない。愛して欲しいと願うことしか出来ない。愛したいと望むことしか出来ない。

「アルカディア」

名前を呼ぶと、彼は不思議そうにこちらを見た。
その顔は幼子のようで、とても愛らしい。
アルカディアはクラウディオに愛されたがっている。
クラウディオは勿論アルカディアを愛している。だが、彼はそれを上手に受け止めることが出来ていなかったのかもしれない。
だからこそ、クラウディオに見て欲しくて、構って欲しくて、もっともっと愛して欲しくて、傷を付けたがるのだろう。
自分だけを想って、自分だけに執着してほしい。
そうやって彼に痕を残して、縛り付けておきたい。
そうすることで、安心感を得たかったのだ。
ならば、答えは簡単だ。
彼には自分が必要だ。
彼が自分を必要としているように、自分も彼を求めている。

「アルカディア」

もう一度名前を呼んだ。
今度は先程よりも優しい声で。

「私がお前をもっと愛したら、お前の望みは叶うか」

「……」

「私はお前をこれでもかと愛しているが、足りなかったか?」

そう問えば、アルカディアは目を丸くした後、くしゃりと顔を歪めた。
まるで迷子になった子供が母親を見つけた時のような、安堵と喜びに満ちた表情で。
そして勢い良く抱き着いてきた。
それを受け止めて、背中を撫でてやる。
ぽろぽろと零れる涙が肩口を濡らす感覚に、心臓がどくりと脈打った。
嗚咽混じりの声が耳元で響く。

「たりない」

「それは悪かった。もっともっと、たくさんお前を愛してやろう」

「うん」

「だからもう泣くな」

頭をぽんぽんと軽く叩いてやる。
すると、彼はぎゅうっと腕の力を強めた。少し苦しいくらいだったが、黙って受け入れる。
暫くそのままの状態でいたが、やがてアルカディアはぽつりと呟いた。

「くらうでぃお、だいすき」

「ああ」

「だいすき」

「私も好きだよ」

「おれの、およめさんになってくれる?」

「……そうかぁ、…私が嫁の方か」

思わずくすりと笑う。しかしアルカディアはそれに構う様子もなく、真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
その瞳は涙で潤んでいて、キラキラ輝いているように見える。
綺麗だと思った。
こんなにも美しいものが、この世に存在するのか。
こんなにも美しいものを、手放すことが出来るだろうか。
否、出来るはずがない。

「アルカディア」

名前を呼べば、彼は首を傾げた。
その頬を両手で包み込んで、顔を近付ける。
鼻先が触れ合う距離まで詰めれば、彼はぱちぱちと瞬きをした。
その拍子に目に溜まった涙が溢れて零れ落ちる。その光景があまりにも美しく見えて、胸が高鳴った。

──欲しい。
この子が欲しい。
この子を自分のものにしたい。
この子を独り占めにしてしまいたい。
この子を、誰の目にも届かないところに閉じ込めてしまいたい。
そんな感情が胸の中を満たしていく。
──愛しい。

「アルカディア」

名前を呼んで、唇を重ねた。
触れるだけの口付けは、ほんの数秒のことだった。それでも、その柔らかさを確かめるには充分で、離れ難いと思うには十分で。
ゆっくりと離せば、アルカディアは惚けたような顔でこちらを見ていた。

「お前がもういいと言うまで、思う存分愛してやる。心ゆくまで私を独り占めしろ」

そう言って微笑むと、アルカディアは幸せそうに笑った。その笑顔が、あまりに可愛らしくて、愛おしくて、ぎゅっと抱き締める。
その時ふと、自身の手首が目に入った。先程アルカディアに噛まれた場所だ。
血は止まっていたが、傷はまだ痛々しい。意識してしまえば、じくじくと痛み出した。

「…アルカディア」

「んー?どうしたの、くらうでぃお」

甘えるように擦り寄ってくる彼の頭を撫でながら、ぽつりと呟く。

「でも噛むのは禁止だ」

ぴくッとアルカディアの身体が小さく跳ねた。
それから恐る恐る顔を上げたアルカディアの表情は、それはもうショックだと言わんばかりのものだった。

「なん…なんで…」

「毎度毎度噛まれていたら私の体が持たん。あと痛い」

「でも…でも…かみ、かみたい…」

「駄目」

ぷるぷる震えながらクラウディオにしがみつくアルカディアは、まるで玩具を取り上げられた子供のようだった。
その様子に苦笑いしつつ、彼の髪を優しく撫でてやる。

「でも、くらでぃお、のこと…きず、つけたい……」

ぴたっとアルカディアの頭を撫でていたクラウディオの手が止まる。
待て、自分に構われたいから噛み付いていたわけではないのか?

「……何故?」

そう聞き返すとアルカディアは顔を赤く染めてあわあわと慌て始める。
やがて観念したのかぼそぼそと話し始めた。

「くらでぃお、が…痛がってるとこ、興奮する…」

「………………」

予想していなかった言葉に、クラウディオは思わず絶句してしまった。
アルカディアは真っ赤な顔のまま俯く。

「(…私限定の性癖だったのか………)」

アルカディアの新たな一面を知ってしまった。
なんだか頭がクラクラしてくる。
愛されているのは嬉しいことだが、少々特殊な方向に偏っている気がしないでもない。
今後どのように対処すべきか、考えなくてはならないだろう。
そんなことを考えていると、不意にアルカディアの様子がおかしいことに気付く。
視線を下に向ければ、彼は何かを我慢するようにぷるぷると体を震わせている。
そして熱い吐息を漏らしながら、熱に浮かされたような表情で言ったのだ。

──もっと、きずつけたい。

その瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。
今まで感じたことの無い感覚に戸惑いつつも、頭の中では警鐘が鳴り響いていた。

──このままではいけない。
そう思った時には、既に遅かった。

「待て、待て、落ち着け、アルカディア」

「やぁ、やだっ、もっと、もっとかみたい」

「おい、ちょっと待て、待て!」

「やめないぃ」

「にゃあ」

そう言いながら、アルカディアは勢いよくクラウディオの腕に噛み付いた。その光景を見ながら、ルカはやれやれとでも言いたげに欠伸をした。