かたかたと意思に反して体が震える。
目の前の愛おしい人が怖い。
逃げようとしても、体が動かない。
「……や」
「うん?」
「もう、やだ……」
涙を零す自分の頬に手を当てて優しく撫でた彼は、自分を安心させるように微笑んだ。
しかしその笑顔はまるで悪魔のようで。
「大丈夫だ、痛くない」
その言葉と共に注射器の中に入っていた液体を全て体内に流し込まれた。
頭がくらくらして思考が鈍くなる。それに混乱して自身の腕に爪を立てた。
「あ…ぅ……」
「良い子」
しかしぐわんぐわんと脳が揺れて視界も歪んでいく。
座っていることも出来なくなって、やがてべしゃりとベッドに崩れ落ちた。
それでもまだ意識はある。
ぼんやりとした頭で必死に考えようとするけれど何も思い浮かばなくて、ただひたすらに恐怖だけが募っていく。
「やら…」
呂律すら回らない舌で拒否の言葉を口にしても聞き入れてもらえず、すぐに別の薬を入れられてしまう。
今度はさっきよりも効き目が早いのか、一気に全身から力が抜けてしまった。
「うぁ……」
「眠い?いいぞ、寝ても」
優しい声色と共に、彼は笑顔を浮かべている。
ああ、これは夢なんだと思いたいのに、痛みを訴えるこの体は現実だと訴えかけてくる。
このままではいけないと思って抵抗しようとすればするほど、手足の自由がきかない。
そうこうしているうちにまた薬を追加されてしまえば、もうどうすることも出来なかった。
浅い呼吸でクラウディオを見上げれば、満足そうな笑みを浮かべながら頭を撫でられる。
「も…ゆる…ひへ……」
「ん?」
「ごめ…なさ……」
何に対して謝っているのか自分でもよく分からない。
ただ本能的に口から謝罪の言葉が出てしまうのだ。
そんな自分を見てクラウディオはくすりと笑うと、耳元に唇を寄せた。
「何故謝る?」
「ふぇ……」
「お前は何も悪いことをしていないだろう?」
彼の言う通りだ。
でも謝らずにはいられない。
謝っていれば、この薬漬けから逃れられるような気がしたから。
「ごめ…なさい…ゆるし、て……」
「何を許せばいい?」
「わるい、こと…しな、から…あや、ま、る…から……」
だから助けてほしい。
これ以上は耐えきれない。
そう思って必死に訴えかけるが、それは逆効果だったらしい。
ますます嬉しそうに目を細める彼を見ると背筋が凍った。
「そうだな、反省するのは良いことだ」
「ほん、と……?」
「本当だよ。ほら、もうちょっと飲もうか」
「やっ……」
嫌々と首を振っても無理矢理口をこじ開けられて錠剤を流し込まれる。
それを吐き出そうと試みるも、即座に唇に水の入ったペットボトルを押し当てられた。
飲むしかない状況に追い込まれてアルカディアは懸命に喉を動かしてそれを飲み込む。
それでも流れ込んでくる量の方が多いせいで口の端からは水が零れ落ちていく。
「全部飲んでくれ」
「ん、ぅ、ぐ、えほっ!げほっ!」
上手く息が出来なくて咳き込めば、やっと水を注ぐ手が止まった。
苦しくて涙を流す自分を見ながら彼は笑っていた。
服やシーツはびしょ濡れになっているのに、彼は全く気にする素振りを見せない。
それどころか甲斐甲斐しく世話を焼こうとする始末だ。
「よしよし、可哀想に」
「…っ!?」
優しく背中をさすってくれたかと思うと突然両肩を掴まれて強引に引っ張りあげられた。強制的に膝立ちの状態になり、至近距離で視線を合わせる形になる。
薬で力の抜けている自分は彼にされるがままだ。
「ぁ…」
──怖い。
恐怖を感じて体が震える。
その琥珀色に見つめられているだけで頭がおかしくなりそうだった。
もっと、もっと優しい色だった。こんなにも冷たくて恐ろしい瞳ではなかったはずなのに。
ぽろぽろと涙を流しながら見上げる自分を嘲笑うかのように、彼は口を開いた。
「どうした?」
「ひっ…ぁ…やだ……」
その声を聞いた瞬間全身の血の気が引いた。
この人は誰?
本当に自分の知っている人なのだろうか。
別人ではないのかと思ってしまうほど、目の前にいる人物は今までとはまるで違う雰囲気を放っていた。
カタカタと歯を鳴らして怯えるアルカディアの姿を楽しむように眺めると、クラウディオはゆっくりと手を伸ばして頬に触れた。
「どうして泣いている?」
「ごめん、なさい…ゆる、し…」
「私は別に怒ってなどいないよ」
その台詞が本当かどうかなんて分からない。だって、今の彼は怖い。
優しく微笑んでいるはずの彼が、まるで悪魔のように見える。
怖い、怖い、怖い。
早く逃げ出したいのに、逃げられない。
もう、自分にはクラウディオしか残ってなかったのに。
アルカディアが資産家に売られる話が出てから、クラウディオはグラファイトへの見せしめのように共に過ごしてきた仲間たちを殺してしまった。
あんなに、優しかったのに。
それからクラウディオは、アルカディア以外の人間を必要としなくなった。
毎日、毎日、薬を投与され続けてアルカディアは少しずつ壊れていった。
もう自分が今どこにいて、何をしているのかも分からなくなるくらいに思考能力が低下していた。
あんなに、好きだったのに。
あの人の笑顔が好きで、いつも隣にいたかった。
愛してる、と言ってくれた。
私も好きだ、と答えてくれた。
それがとても幸せで、ずっと一緒にいたいと願った。
でも今は、ただただ怖くて仕方がない。
彼は、自分の知る彼とは違う。
あれは本当の彼じゃない。
ぽろぽろと涙を流し続けるアルカディアを、クラウディオはただじっと眺めていた。そしておもむろに腕を伸ばすと、指先で目尻の雫を払う。
「あ…」
「お前の泣き顔はとても綺麗だな」
「……」
「でも、あまり泣かれると困ってしまう」
彼の言葉の意味がよく理解出来ない。
ただぼんやりとした頭で、何か答えなければと考えるけれど何も思い浮かばなくて黙り込んでいると、クラウディオは少しだけ眉根を寄せてアルカディアを見下ろした。
「分からないか?」
「…ごめ……なさ……」
「謝らなくてもいい」
そう言うと、クラウディオはそっとアルカディアを抱き寄せた。
薬のせいで体に力が入らないため、されるがままだ。
抵抗することも出来ずに大人しく彼の胸に頭を預けていると、優しく頭を撫でられた。
「お前は何も悪くない。だから謝る必要もないんだ。分かるか?」
「……わ、かる……」
「いい子だ」
褒められるようなことをした覚えはない。
でも、否定する気力もなかった。
そのまま暫くの間頭を撫でられていたが、ふと我に返る。
自分は一体何をしているのだろう。
この男は誰だ?何が起きているのか、よく分からない。
薬のせいなのか、それともこの男のせいなのか。
頭の中がぐちゃぐちゃで訳が分からなくなっていた。
それでも、このままではいけないということは本能的に感じ取ることが出来た。
だから、恐る恐るといった様子ではあったが、アルカディアはよろよろとその手を掴んで制止した。
「ん?」
「…もう、やめて…」
「何故?」
「……こわい」
消え入りそうな声で呟くと、クラウディオの動きがピタリと止まった。
表情は見えない。
でも、きっと怒っているに違いないと思った。
殴られるかも。蹴飛ばされるかも。
そんな恐怖心から身を強張らせていたが、一向に暴力を振るわれる気配はなかった。
それどころか、アルカディアの体を離すと、ベッドの上に座らせた。
「……ぁ……」
──終わったのかな。
ほっと安堵の息を吐いていると、クラウディオがこちらに詰め寄ってきた。
思わずビクッと肩を揺らして後退りするが、すぐに壁際まで追い詰められてしまう。
「…ぁ……ごめ……っ」
また叱られてしまう、と慌てて謝罪の言葉を口にするが、その唇を塞がれた。
驚いて固まっていると、ゆっくりと顔を離して至近距離で見つめてくる。
「…っ……」
「怯える必要はない。私は怒ってなどいないよ」
「…………」
「怖いのなら、今日はもう休むといい。悪かったな。私が傍にいてやるから安心しろ」
「ぁ……」
──違う。そうじゃない。
言いたいことは沢山あるはずなのに、上手く言葉にならない。
恐怖から解放されたはずなのに、何故か先程よりも不安が増していく。
これ以上ここにいてはいけない気がする。
早く離れないと取り返しのつかないことになるかもしれない。
そう思うのに、体が動かなかった。
「……アルカディア?」
「…ぁ…」
「どうした?」
「…ゃ……」
「嫌?何が?」
首を傾げて問いかけるクラウディオから視線を逸らす。
すると、彼はくすりと笑ってアルカディアの顎を掴むと、無理やり視線を合わせた。
「どうした?」
「…ぅ…」
「言ってみろ」
「…ぃ…や……」
「ほう?」
「や…だ…」
「どうして?」
「…も…やだ……」
「それは困ったな」
「ひっ……」
困ったと言いながらも、全く困ったようには見えなかった。
むしろ、楽しんでいるようにすら見える。
その証拠に、彼は笑っていた。
怖い。クラウディオが怖い。今まで一緒にいた彼ではない。
目の前にいるのは、知らない男だ。
そう認識しても、やはり体は動かない。
ただ震えるだけのアルカディアを見て、クラウディオは愉しそうに口元を歪めた。
──あぁ、可哀想に。
「たす、けて……」
顎を掴むクラウディオの手を弱々しく払い除け、逃げるように後ずさり枕にしがみつく。涙を浮かべながらカタカタと歯を鳴らして怯えた。
「たすけて…るか、るか、どこ…」
うわ言のように死んでしまった兄弟の名前を呼び続ける。
再びぼろぼろと泣き出したアルカディアは、まるで迷子の子供のように必死に助けを求めていた。
「るか、どこ…たすけて……たすけて…たすけてよぉ…」
何度も、何度も、繰り返し助けを呼ぶアルカディアの姿を目の当たりにして、クラウディオはゆっくりと手を伸ばす。そして、そのまま優しく抱き締めると、耳許で囁く。
「大丈夫だ。私が守ってやる」
「…るか…るか…」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「なん、で…かえって、こないの、るかぁ…」
枕にしがみついて泣きじゃくるアルカディア。
その頭を撫でて落ち着かせようとしてくれているが、泣き止むことは出来なかった。
それどころか、余計に激しくなっていく。
やがて、声を上げて子供のようにわんわんと泣くアルカディア。
その姿を見て、クラウディオはそっと目を細める。
「アルカディア」
「…ひっく…ぅ…ぁ…るか……ぁ……」
名前を呼んだところで、彼が反応することはない。
それでも、何度もその名を繰り返す。
──彼が正気に戻るまで。
やがて泣き疲れたのか、ぐったりとした様子で眠りについたアルカディアを眺める。
頬に残る涙の跡にそっと触れ、指先で拭き取った。
それから、眠る彼の額に優しくキスを落とす。
ルカが死んでから、アルカディアは壊れてしまった。
気丈に振る舞う彼の姿はもう長らく見ていない。
そんな精神状態の彼の前で、仲間たちを殺してしまったことを後悔していた。あの時はきっと自らも我を保てていなかったのだろう。だからといって、許されることではないが。
定期的に精神安定剤を与えてはいるが、それでもアルカディアの精神状態は不安定だった。
自傷行為を繰り返すせいで、腕は傷だらけになっていたし、ほぼ常に錯乱状態だ。副作用で熱を出した時なんかは高熱のせいで幻覚や幻聴に悩まされていたようで、ずっと苦しんでいた。
いつの間にか、精神安定剤の他に痛み止めや解熱剤まで必要になってしまった。
きっと、アルカディアには自分が恐ろしく見えているに違いない。
自分を壊そうとしている恐ろしい化け物だと。
そう考えると少し悲しかったが、仕方がないとも思った。
全ては自分のせいなのだから。
いっその事、彼の望み通り殺してやろうと思ったこともある。だが、きっと彼の魔力が、アルカディアが死ぬことを許さない。
魔力を枯渇させなければ、彼は死ねないのだ。
乱れた前髪を直してやり、ベッドから立ち上がる。
部屋の隅にある棚から注射器を取り出すと、眠っているアルカディアの腕に針を刺した。
薬を流し込み、ゆっくりと引き抜くと、すぐに変化が現れた。
先程までの苦しみようが嘘のように穏やかな表情で眠っていた。
ベッド脇の椅子に腰掛け、深く息をつく。
疲労が溜まっているのだろうか。
ここ数日はろくに眠れていなかった。
そのまま静かに目を閉じると、すぐに意識が落ちていった。
ゆっくりアルカディアの瞼が開かれていく。ぼんやりとする視界の中、何度か瞬きを繰り返していると、次第にはっきりして、ようやく焦点があってきた。
「……?」
どうやら自分は寝ていたらしい。
少しだけ動くようになった体を起こし辺りを見渡すと、椅子に座ったまま眠っているクラウディオを見つけた。
起こさないように気をつけながら、彼の顔を覗き込む。
目の下には隈が出来ており、あまり顔色もよくなかった。心配になって手を伸ばそうとしたが、触れる前に止める。
伸ばしかけた手をぎゅっと握りしめて俯いた。
今の彼に、先程まで抱いていた恐怖心はない。
あるのはただ、申し訳なさだけだった。
──彼は、自分を守ってくれていただけだというのに。
怖くて、震えて、泣いて、助けてなんて喚いて、たくさん迷惑をかけた。
なのに、彼は嫌な顔一つせず、優しくしてくれた。彼は何も悪くないのに、謝らせてしまった。
それに、今も。
恐らく、彼はほとんど睡眠を取っていないはずだ。
そうでなければ、こんな風に疲れた様子を見せるはずがない。
「く…ら、でぃお……」
掠れた声で名前を呼んでみるが、起きる気配はなかった。
もう一度、呼んでみる。
「くら…でぃ、おっ……」
今度はもう少し大きな声を出してみた。
しかし、やはり起きない。
諦めて、そっと手を伸ばした。
触れたのは、クラウディオの髪だ。
そのままゆっくりと撫でてみる。
サラリとした感触が気持ちいい。
久しぶりに名前を呼んだ気がする。
自分はこの名前が、好きだった、気がする。
自分しか知らない、彼の本当の名前。
「く…ら……でぃお…」
無意識に呟かれた名前。
何故かとても安心出来た。
しばらく頭を撫で続けていると、不意にクラウディオの目が開いた。
「っ!?」
慌てて手を引っ込める。
驚いたような表情を浮かべながらこちらを見るクラウディオを見て、思わず視線を逸らす。
「……起きたのか」
ゆっくりと身を起こしたクラウディオは、いつものように優しく微笑んだ。
「気分はどうだ?どこか痛いところはないか?」
「…ぁ…え、と……」
「何か食べたいものはあるか?」
「……ぁ……」
上手く答えられずに黙り込んでいると、困ったように笑みを深めて頭を撫でられる。
その手つきは優しくて、心地よかった。
この手が、好きだと思った。
そう感じた瞬間、急に涙が溢れてくる。
ぽろぽろと零れ落ちるそれを、必死に抑えようとした。
でも、出来なかった。
ボロボロと大粒の涙が頬を伝って流れ落ちていく。
嗚咽混じりに泣き出したアルカディアに、クラウディオは目を丸くして頭を撫でていた手を引っ込める。
「ああ…悪い、怖かったか」
違う。そうじゃない。怖くない。
否定したいけれど、涙が止まらない。
首を横に振ることしか出来ない自分がもどかしくて、余計に涙が出てくる。
そんなアルカディアの背中を、優しく擦る手が一つあった。
それは紛れもなく、目の前にいる彼のもので。
恐る恐る見上げると、そこには優しい眼差しがあった。
大丈夫だというかのように、小さく笑いかけられる。
それが嬉しくて、また泣き出してしまった。
「何か温かいものを持ってこようか」
少しだけアルカディアが落ち着いた頃、彼は部屋を出て行った。
それから数分後、クラウディオが戻ってくる。
手に持っていたマグカップを差し出されたが、アルカディアはそれを受け取らなかった。
「飲めるか?」
そう聞かれたが、アルカディアは俯いて首を振る。
そんな彼を見たクラウディオは、アルカディアの手を取り、その掌の上にカップを乗せた。
アルカディアは受け取ったカップを見つめたまま動けずにいた。
「私が居たら飲みにくいか?少し席を外すから、その間に飲んでくれればいい」
そう言うなり、クラウディオは立ち上がった。
このままでは行ってしまう。そう思った途端、咄嵯に服の裾を掴んでいた。
振り返ったクラウディオが不思議そうに見下ろしている。
「アルカディア?」
「……や……ぃ、かなぃ、で……」
絞り出すようにして出た声はとても小さかった。
クラウディオが驚いていると、アルカディアがゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、まだ涙が浮かんだままで。
それでも、真っ直ぐに自分を見据えていた。
「ここに…いて……」
「……分かった」
そう言ってベッドの縁に座り直すと、アルカディアの背をゆっくりとさすってくれる。
アルカディアはその温もりに安堵した。
「…ごめ…なさ……ぃ……」
「何故謝る?」
「…めい…わく……かけ、て……」
途切れながらも謝罪の言葉を口にすると、頭上から溜め息が聞こえてきた。
呆れられたかもしれない。
嫌われてしまったかも。
そう思うと、また涙が滲んできた。
「馬鹿だな、お前は」
優しく抱き寄せられ、耳元で囁かれる。
「迷惑なんかじゃない。むしろ、もっと頼ってくれ。私はそのために居る」
「……ぅん……」
「いい子だ」
頭を撫でられ、額に口づけを落とされた。
少しだけ恥ずかしくて俯いていると、再び名前を呼ばれる。
「アルカディア」
低い声で呼ばれた自分の名前に、ドクンと心臓が大きく跳ねた。
どうしてだろうか。
とても懐かしい気がする。
顔を上げてじっと見つめると、彼はふわりと笑ってくれた。
「冷めるぞ」
「あ……」
言われて、ようやく気付く。
渡されたカップの中には、湯気が立ち上っているホットミルクが入っていた。
一口飲むと、身体中に染み渡るような感覚。
美味しい。
そう感じると同時に、また涙が出てきた。
クラウディオはそんなアルカディアを見て笑う。
「泣くほど不味いか?」
「ちが……っ」
「冗談だ」
慌てるアルカディアを見て可笑しそうに笑ったあと、彼は優しく頭を撫でてくれた。
懐かしい。そう感じたのは、きっと間違いではないはずだ。
どうして自分は、彼が怖かったのだろう。
どうして自分は、彼の優しさに気付かなかったのだろう。
そう考えるだけで胸が苦しくなる。
でも今は、そんなことはどうでもいい。
ただただ、この人の傍にいたいと強く願う。
この感情が何なのか、今の自分にはまだ分からないけれど。
いつか思い出せる日が来るといい。
「くらぅ、でぃお」
「なんだ」
「おれ、の」
「ああ」
「名前……呼んで……」
お願いだから、もう一度だけ。
あなたが呼ぶ俺の名前を聞かせて欲しい。
その願いはすぐに叶えられた。
「アルカディア」
愛おしげに名を呼ばれ、また涙が溢れてくる。
アルカディアはゆっくりと目を閉じた。
そして、意識を手放す直前に見たものは、慈しみに満ちた眼差しを向けるクラウディオの姿だった。