がちゃりと玄関のドアが開く音がした。
アルカディアは思わず時計を見る。
まだ早い時間なのに、クラウディオが帰ってきたらしい。彼はソファーから立ち上がると、リビングから廊下へと出る。
玄関には予想通り、クラウディオの姿があった。

「おかえり、早かったね」

「ああ、ただいま」

クラウディオはちらりとこちらを見ると、そのままリビングの方へ歩いていく。
彼の後ろ姿を見つめながら、アルカディアはそっと目を細めた。

「(……あれ?)」

なんだか様子がおかしい気がする。いつもなら、帰宅すると真っ先にキスをしてくれたり頭を撫でてくれたりするはずだ。
不思議に思いながらも、アルカディアは彼の後を追いかけた。

「クラウディオ?」

「…………」

問いかけても返事がない。
やっぱり変だと思って顔を覗き込むと、不意に腕を引っ張られた。そしてそのまま強く抱きしめられる。

「わっ」

驚いて声を上げるも、その身体を押し返すことはできなかった。まるで離さないと言われているかのように、ぎゅうぎゅうと力強く抱き締められているのだ。
しばらくそうしていると、ようやく拘束を解かれる。ゆっくり彼の顔を見上げて、アルカディアは息を呑んだ。
そこにあったのは見たこともないような無表情だったからだ。

「……くら、でぃお?」

なんだか怖くなって、震えるような声で名前を呼ぶ。
しかしやはり何も言わない。
ただじっと見下ろされているだけだ。
理由がわからず戸惑っていると、今度は肩を強く押された。抵抗できずに押し倒されて、背中に強い衝撃を感じる。

「いっ…」

痛みを感じて眉を寄せると、大きな手が乱暴に髪を掴んできた。
そのまま上体を起こされるようにして引っ張られ、無理やり視線を合わせられる。
目の前にある瞳には感情がなかった。ただ冷たい眼差しだけが向けられていて、アルカディアは小さく悲鳴を上げた。

「やめ、いた、い…」

なんとか逃れようと身を捩るがびくりともしない。
アルカディアは混乱していた。
怖いと思った。
こんな風に乱暴にされたことは一度もなかったから。
いつも優しく触れてくれていた手は、今は力加減を忘れてしまったように荒々しい動きをしている。どうしてなのかわからなくて、それが恐ろしくて仕方なかった。
涙を浮かべながら見上げると、クラウディオが口を開く。

「お前は誰だ?」

それは静かな問い掛けだったが、はっきりと怒りが込められていることがわかった。

「ぇ…?」

何を言われたのか理解できなくて、呆然と彼を見上げてしまう。
そんなアルカディアを見て、クラウディオは苛立った様子を見せた。舌打ちをして、また髪を掴む手に力を込める。

「質問の意味がわからないのか?それとも答えられないのか?」

「ぅあっ!」

痛くて苦しくて泣きそうになる。けれど泣いてしまえばもっと酷いことをされそうな気がして、必死に耐えた。
それでも涙は勝手に溢れてきて、頬を伝って流れていく。
それを見ても、クラウディオは何も言ってくれない。

「くら、でぃお…いた、い…」

どうしていいかわからなくなって、ただ彼の名前を呼んだ。

「何が目的だ?」

「なに、が……?」

意味が分からずに聞き返せば、クラウディオが更に不機嫌になる。

「惚けるつもりか?」

「ちが、ほんとうに、わか、らない……」

どうしようもなく哀しくなって、アルカディアはとうとう大粒の涙を流し始めた。
すると突然、ぱっと手を離される。急に解放されてバランスが取れなくなり、床へと倒れ込んだ。

「あ、ぐっ」

勢いよく倒れたせいで、頭を打ってしまう。あまりの痛みに視界がチカチカした。
頭がじんわりと熱を持って、鈍い痛みが広がっていく。

「(なんで、)」

訳が分からない。ただ混乱していた。
なにかしてしまったのだろうか。そうだとしても、クラウディオが突然手を出すなんて。

「おい」

「ひっ」

上から声が降ってきて、アルカディアは反射的に怯えたような反応をする。
ゆっくりと顔を上げれば、そこには先程よりも険しい表情をしたクラウディオがいた。

「言え」

「ぁ、」

何か言わなければと思うのに、上手く言葉が出てこない。

「早くしろ」

促すように言われ、アルカディアは無意識のうちに首を横に振っていた。

「おれ、の、こと、きら、い、…なった、の?」

途切れ途切れになりながらも、やっとそれだけを口にする。
するとクラウディオは大きくため息をつくと、アルカディアの胸ぐらを掴んで引き寄せた。

「お前は、誰だ?」

再び同じ問いかけをされる。今度はさっきより強い口調だった。
優しい彼からは想像できないような、冷たく鋭い目つきで睨まれる。
アルカディアは恐怖で身体を震わせた。

「あ、ある、か、でぃ、あ……」

掠れた声で自身の名前を言えば、彼はさらに眉間の皺を深めていく。そしてぐんっと、掴んだ胸ぐらを強く引き寄せられテーブルに叩きつけられた。

「ぁっ、う!」

背中に走る衝撃に顔を歪める。
ガラガラと激しい音を立て、椅子が吹き飛んでいく。
ゆっくりと近付いてくる彼の姿に、アルカディアは思わず後ずさった。
怖い。逃げたい。でも足がすくんで動かなかった。

「知らないな」

「……ぇ」

「アルカディア?そんな奴は知らん」

クラウディオは吐き捨てるように言った。大きく見開かれたアルカディアの瞳から、ぼろりと涙が零れ落ちる。

「ど…し、て?」

震える唇を動かして、なんとか言葉を紡いだ。
どうしてそんなこと言うの?
どうしてこんなことするの?
どうして怒ってるの?
疑問ばかりが浮かんできて、頭の中がぐるぐるする。
するとクラウディオは、まるでゴミを見るような目を向けてきた。
アルカディアの体が大きく跳ねる。
こんな冷たい目をされたのは初めてだった。
嫌われたくない。捨てられたくない。愛されたい。ずっと一緒に居てほしい。その想いだけで生き続けてきたのだから。

「や、だ、くら、でぃお、おねが、やだ、やだ……」

アルカディアは壊れた玩具のように、何度も嫌だと繰り返した。
しかし、その願いは叶わない。

「うるさい。黙れ。もう喋るな。お前の顔なんて見たくもない。消えろ。二度と姿を現すな。わかったか?」

「…っ、ぅ、や、だ……」

「返事は?」

「……ゃ、だ……」

「そうか」

短く言うと、クラウディオはアルカディアの顔を強く蹴りあげた。

「う"ぁ!」

勢いよく倒れ込む。
頬が熱い。
鼻血が出ている感覚があった。
痛くて悲しくて、涙が止まらなかった。

「ぅ、あっ、ぅ……」

「汚いな」

そう言って、クラウディオは心底不快そうな表情を浮かべると、もう一度アルカディアの腹を蹴飛ばした。

「あ"っ!…げほっ、ごほ、…っ」

胃液が逆流してくる。
気持ち悪くて仕方ないはずなのに、何故かその感覚を感じ取れなかった。

「さっさと消えてくれ」

「ぁ……」

言葉が出なかった。
ただ、涙だけがぽたぽたと流れ落ちてくる。
クラウディオの姿が、過去に居た施設の職員と被る。あの時もこんな風に顔や体を蹴られて痛かった。

「(なんで、)」

どうして思い出してしまうのか。
忘れていたのに。
あんなに辛くて苦しい日々のことなんか、記憶の奥深くに閉じ込めたはずだったのに。

「……っ」

クラウディオが全て、忘れさせてくれたのに。
なんで、どうして。また全部失ってしまうのか。
もう傍にルカは居ない。
また独りぼっちになってしまうのか。
また痛くて辛い毎日を過ごすのか。

「ぅ、あっ……」

ぼろぼろと涙が流れ続ける。
泣きすぎて頭が痛くなった。
それでも泣き続けた。

「く、ら、でぃお……」

小さく名前を呼べば、彼は苛立った様子を見せる。

「名前を呼ぶな。穢れるだろう」

そう言いながら、強く頬を殴られた。
口の中が切れてしまったようで、鉄の味が広がっていく。

「あ……ぐ…っ…」

頬を押さえていると、今度は髪を掴まれ顔を上げさせられた。

「さっさと出て行け」

「っ、」

「聞こえてるんだろう」

「あ、」

「さっさとしろ」

低い声で脅すように言われれば、アルカディアは小さく体を震わせる。
力無く俯けば、乱暴に床へと放り出された。
アルカディアはそのままの体勢で動けずにいる。
早くここから立ち去らないと。
でも足に力が入らない。
このままではまた殴られる。

「あ、あ、」

恐怖が全身を支配する。
カタカタと身体は震えて、上手く呼吸ができない。

「は、ぁ、ぁ、ぁ、はぁ、」

過呼吸を起こしかけていた。
どうしよう。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
目の前の人が怖い。誰か助けて。
その目が怖い。声が怖い。身体が怖い。存在そのものが怖い。
嫌だ。一緒に居たい。

「まだか?」

びくりとアルカディアの体が震えた。早くしないと怒られる。
怖い。嫌だ。早く逃げないと。でも足が動かない。
息が苦しくなる。
上手く酸素を取り込めなくて、視界が霞む。

「まだ動かないのか?」

「ぁ、は、ぁ、あ、う、うぅ…」

「はぁ……」

ため息をついた彼が近付いてくる。
アルカディアは身を小さくしてぎゅっと目を瞑った。ぐいっと首根っこを掴まれて、そのまま引き摺られる。

「あっ、あ"っ、う"ぁっ」

ずるずると引きずられていく。
アルカディアは必死に抵抗した。でも敵わない。

「ぅ"、あっ、や、だ…っ」

ぼろぼろ涙を流して懇願しても、彼は無言のまま歩き続けるだけだった。
やがてアルカディアは玄関の前に投げ捨てられる。
勢いよく倒れたせいで、背中を強く打ち付けた。

「ぅ"、あっ、げほっ、げほっ…けほっ」

咳き込みながらもなんとか起き上がろうとする。しかしそんな彼の腕を掴み、クラウディオは無理矢理引きずって外へ出そうとする。

「いやだっ!やだやだやだ!やだぁっ!」

アルカディアは泣き叫んだ。
嫌だ。行きたくない。ここに居たい。ずっと一緒に居てほしい。愛してほしい。置いていかないで。捨てないで。独りにしないで。お願いだから。
ねぇお願いだから。

「ごめ、ごめん、なさい…っ!ごめん、なさいっ!」

叫ぶようにして言えば、腹を思い切り蹴飛ばされた。そして何度も何度も執拗に蹴り続けられる。

「ご、ぇんな、さっ、やだっ、やだやだやだっ!」

痛い。苦しい。辛い。悲しい。寂しい。寒い。怖い。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
苦しい。痛い。辛い。

「うるさい」

そう言って、クラウディオは再び強くアルカディアの腹を蹴飛ばした。

「あぅ゛…っ…」

「もう喋るな、耳障りだ」

「…ゃ、だ……」

「黙れ」

「ぃ゛ゃ…ぁ…」

アルカディアの目から涙が零れた。
するとクラウディオは、苛立った様子で壁を殴りつけた。

「あ、」

冷たい目だった。
心の底からの軽蔑と嫌悪が籠もった、冷たく暗い色をしていた。
アルカディアの瞳が大きく見開かれる。

「お前なんか大嫌いだよ」

そう言って、彼は再び強くアルカディアの腹部を蹴飛ばした。

「あ"っ…」

「消えろ」

「ゃ……」

「消えてくれ」

「…ぃ、や……っ」

消え入りそうな声で答えれば、クラウディオは大きく舌打ちをした。
それからもう一度、今度は思いきり頬を殴られた。
口の中はずっと血の味がする。
がたがたと震えながら、滲む視界でクラウディオを見上げる。

「(……あ、れ…?)」

不意に、違和感を覚えた。
何かがおかしい気がした。
朝に見たクラウディオは、こんなネクタイをしていたか?仕事から帰ってきたのに、手ぶらではなかったか?

「……くら、でぃお……?」

恐る恐る名前を呼ぶと、ぴたりと動きが止まった。

「あ……」

しまった。と思った時には遅かった。
次の瞬間には強く髪を掴まれていた。

「う"っ」

「まだわからないのか?」

違う。
これは、この人は、本当に…クラウディオか?

「く、らでぃおじゃ、ない……」

「……」

「誰、……」

そう言った途端、髪を掴んでいた手が離れた。

「ぅ"、あ…っ…」

そのまま地面に倒れ込む。
顔を上げると、目の前には見知らぬ男の姿があった。

「ぁ…ぇ…」

恐怖で体が動かない。
男はゆっくりとこちらへ近付いてくる。
逃げないと。早く逃げないと。
頭ではわかっているはずなのに、体は動いてくれない。

「だれ、だれ、…」

掠れる声で呟くと、男の顔はぐにゃりと歪んだ。まるで別人のようにくるくると表情を変える。
それが気持ち悪くて、恐怖がさらに増していく。

「な、に…だれ…」

男は歪な笑顔を浮かべたまま、手を伸ばしてくる。

「や、だっ!やだやだやだやだっ!」

必死に叫んで抵抗するも、力が抜けてしまっていてすぐに両手首を拘束されてしまう。

「やだっ!やだやだやだっ!やだぁっ!」

じたばたと暴れるも、びくりとも動かない。
男が顔を近づけてきた。
鼻先が触れ合うほど近い距離で、じっと見つめられる。
その目には狂気が宿っていた。
狂喜しているような、歓喜に打ち震えているかのような、そんな感情が入り交じった目で、男はアルカディアを見ていた。

「っ……」

思わず息を飲む。
逃げないと。早く逃げないと。早くしないと殺される。
早くしないと殺されてしまう。
早くしないと​​──……。
助けて。助けて。

「くらでぃおっ!!」

その時、がちゃんと乱暴に玄関のドアが開け放たれ、ドアにもたれていたアルカディアは体勢を崩して倒れ込む。

「誰だ」

聞き慣れた低い声に安堵する。
良かった。来てくれた。
恐る恐る見上げると、そこにはいつも通りの彼の姿があった。

「……くら、でぃお…」

アルカディアの姿を視界に入れた途端、クラウディオの全身がぶわりと殺気立つ。
顔中傷だらけで、髪も乱れてしまっている。そして何より、彼の頬を伝う大粒の涙。
クラウディオはアルカディアを安心させるように微笑んだ後、ゆっくりと目の前の男を見下ろす。

「誰だ、君は」

低く威圧感のある声だった。男はアルカディアの腕を掴む力は緩めない。
けたけたと歪んだ顔で笑っている。

「………」

刹那。クラウディオの脚が振り抜かれ、男の身体が宙に浮いた。そしてそのまま壁に強く叩きつけられる。

「がっ……」

男は苦しげな声を上げて床に転がった。

「ひっ……」

それを見たアルカディアが小さく悲鳴を上げた。
ゆっくりと、しかし確実に、クラウディオが近づいていく。

「誰だ、君は」

再び同じ質問を投げかける。
先程よりも低い、地響きのような声で。
クラウディオは全身の血が沸騰するような感覚を覚えた。怒りでどうにかなりそうだった。
やけにゆっくりとした動作で、男の首に手をかける。

「君がやったのか?」

ぎりぎりと力を込める。
男は苦しげな表情を浮かべた。
だがそんなことどうでもよかった。ただひたすらに、目の前のこの男を殺したくて仕方がなかった。

「私が居ない間に、アルカディアを泣かせたのは、……君か?」

クラウディオの額や手の甲に、いくつもの血管が現れる。今にもはち切れてしまいそうなほどだ。
男は必死に抵抗するも、クラウディオの力には敵わない。やがて諦めたようで、こくこくと小さく首を動かした。

「そうか」

穏やかな声だった。それが逆に恐ろしい。
男は自身の首にゆっくりと爪を立てられていく気配を感じた。
そこで初めて、目の前の存在に恐怖を感じた。

「あ"っ…ぁ"……」

男が喘ぎ始める。顔色が真っ青になり、ばたばたと暴れ始める。

「ぁ"っ…ぁ"……っ」

男は必死になってクラウディオの手を引き剥がそうとするも、それは叶わない。

「うぁ"…ぁ"……」

「苦しいか?可哀想に」

そう言いながらも、力を弱めようとはしない。むしろどんどん強くなっていくばかりだ。
ぶち、ぶち、と皮膚が裂け、血が滲み出る。

「が、ぁ"…ぁ"……っ」

男は目を見開いて、必死に助けを求めている。滑稽なくらいに腕を振り乱し、足をばたつかせていた。

「あぁ、そうだな。…君は、私を怒らせた」

「…ぁ"……っ」

ぐちゃり、と嫌な音がした。
それと同時に、男の動きが止まる。

「ご…め…なさ……」

「ん?」

「あ"……ゆる、して…」

「……何を?」

男は目を大きく見開いまま、口から血を吐きながら、がくがくと体を震わせていた。

「ころ、さ…ないで……」

「……」

「あ"」

ぱたりと、男は動かなくなった。
次の瞬間、ばしゃりと男の体が水風船のように弾けて、辺り一面に飛び散っていく。
しかし壁やクラウディオの体にまで飛び散ったはずの血液は、瞬く間に消えていった。

「……」

部屋の中に静寂が訪れる。
クラウディオがゆっくりと振り返ると、アルカディアが壁に身を寄せて小さく震えていた。

「……アルカディア」

優しく名前を呼ぶと、アルカディアの体はびくりと跳ねた。
そして恐る恐るこちらを見上げてくる。
その瞳からは絶えず涙が溢れていて、頬は赤く腫れ上がっていた。
アルカディアの元まで歩み寄り、そっとしゃがみ込むと口元を流れる血を拭ってやる。

「く、ら…ぃお」

「ん?」

「くら、でぃお」

「うん」

「くらでぃおぉ……」

アルカディアは子供のように泣きじゃくり始めた。そんな彼を、クラウディオは愛おしそうに見つめている。

「ここにいるよ」

嬉しかった。
名前を呼んだら、答えてくれる。当たり前のことなのに、それがとても幸せで、嬉しい。

「くらでぃお……」

「大丈夫だよアルカディア」

「く、らい…お…」

「私はここに居るから」

「くら、でぃ、おっ……」

アルカディアはクラウディオにしがみついて、何度も、何度もクラウディオの名前を呼び続けた。
先程までのクラウディオが偽物だったのだとしても、拒絶されたことが怖くて悲しかった。嫌われてしまったのではないかと不安だった。
もう二度と、名前を呼んでくれないのではないかと思った。
だから、こうしてまた彼が自分の名を口にしてくれることが、こんなにも幸せなことだったなんて知らなかった。
クラウディオはアルカディアを抱きしめ返して、優しい手つきで頭を撫でてやり、頬に伝う涙を指で掬う。

「手当て、しようか」

「……ん」

「立てるか?」

「…う、ん」

「ゆっくりでいい」

クラウディオの手を借りて、よろよろと立ち上がる。ぼさぼさに乱れた髪を、クラウディオが丁寧に直してくれた。
そして手を引かれてゆっくりとリビングへ向かう。
荒れたリビングを見て、クラウディオの顔が歪んだ。

「……何があった?」

「え、と……」

「説明できる?」

「う、ん…」

ソファーに座らされ、慣れた手つきで手当てをしてくれる。あっという間に終わったが、アルカディアの顔には大きなガーゼが貼られており、痛々しさは変わらなかった。

「くらうでぃおが、帰ってきたのかと…思って、玄関、行った…」

「……」

「…くらでぃおの、見た目、して…た…から、なにも…おもわなくて…」

ぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいく。
そんな彼の話に、クラウディオは黙ったまま耳を傾けた。

「でも、…なんか、へんで……」

「…」

俯いて、肩を震わせる。
そんな彼を抱き寄せ、背中を摩った。

「いっぱい、けられ、て…」

嗚咽混じりの声だった。
クラウディオは、無意識に拳を強く握りしめていた。
あの男に対する怒りがふつふつと湧き上がる。
だが今は、目の前のこの子の方が心配だ。

「くらでぃおに、きらわれた、かと、おもった」

「嫌いになどなるものか」

「……なま、え、呼ぶなって…きえろって、いわれた……」

「……」

「だい、きらい、って…いわ、れた…」

そう言うと、再び声を上げて泣き始める。
そんな彼に、クラウディオは胸を痛めていた。
自分が居ない間に、まさかここまで傷つけられていたとは思わなかった。
怒りが収まらない。
しかし、それ以上に悲しくて仕方がなかった。

「ごめんな」

「っ……!」

「ごめんなアルカディア」

ぎゅっと強く抱き締める。
するとアルカディアも、ぎこちなくではあるが、同じように強く抱き着いてきた。

「…く、ら……」

「ん?」

「く、らぃお…」

「うん」

「く、らぃお…っ」

「うん」

「くら、でぃお……」

「……うん」

何度も名前を呼ばれて、何度も返事をする。子供をあやす様に、ぽん、ぽんと一定のリズムで背を叩いてやると、次第に落ち着いてきたようだ。

「怖い思いさせた。ごめんな」

「……っ」

アルカディアはふるふると首を横に振る。
そして少し体を離すと、上目遣いで見上げてくる。

「…怒ってない?」

「怒っていないよ」

「…俺のこと、嫌いになってない?」

「なるわけない」

「おれ、ここ…ずっと、いても……い…?」

「当たり前だろう?お前が帰る場所は此処だ。むしろ、ここに居て欲しい」

優しく微笑むと、アルカディアの目に再び涙が浮かぶ。
そしてまた、力強く抱きついてくる。

「よかっ、た…」

「……」

「俺…ここに、いた…かった……」

そう言ってくれるのが嬉しかった。
安心したように笑ってくれることが嬉しかった。
自分を必要としてくれていることが嬉しかった。

「ありがとう」

優しく頭を撫でてやる。
甘えるようにぐりぐりと額を擦り付けて来るアルカディアの顎をゆっくりと持ち上げる。

「アルカディア」

「…?」

「愛している」

「……!……ぅん……っ」

そう伝えると、アルカディアは幸せそうに笑みを浮かべる。
そんな彼が愛おしくて、可愛らしくて、クラウディオは思わずキスをした。
唇が離れる瞬間、アルカディアは小さく呟いた。

「くらでぃお」

その声を聞いた途端、心の底から幸せを感じた。
アルカディアが好きだ。愛おしくて堪らない。
アルカディアが居なくなったら、きっと自分は壊れてしまう。
それほどまでに、彼は自分の全てなのだ。
抱きついてくるアルカディアの頭を優しく撫でながら、クラウディオはゆっくり目を閉じた。
あの男が何者なのか。恐らく人間では無いだろう。自分が殺す前に既に死んでいたかもしれない。
何故この家に来たのか、何故自分に化けてアルカディアを襲ったのか。
もしかすると自分の匂いに釣られてやって来たのかもしれない。
もしまた来ようものなら、今度は思いつく限りの方法で苦しませて殺してやろう。
瞼を開いたクラウディオの瞳は、鋭い殺意で満ち溢れていた。