
おははうえ
「…は?」
クラウディオは自身の耳を疑うと同時に、怒鳴りつけたくなる衝動を抑えた。
昨日の今日で、父親がこちらに来ると連絡を寄越したのだ。それも、アルカディアに会いに。
自分が昨日アルカディアに何をしたのか忘れたのか、と怒りを通り越して呆れてしまう。しかし父親は言う。
「妻が会いたいと言っている」と。
クラウディオは頭を抱えたくなった。そして心の中で呟く。
「(あぁ、もう本当に面倒臭いな)」
父親だけではない、母親だってできることなら会いたくないのだ。父親とは別のベクトルで厄介なのだから。
「………」
朝からどっと疲れた気分になりながら、クラウディオはアルカディアの元へ急いだ。
「アルカディア」
アルカディアはいつものようにソファーに座っていた。その手には絵本があり、どうやら字の勉強をしていたようだ。
声をかけると、パッと顔を上げて笑顔になる。まるで主人を見つけて尻尾を振る犬のようで可愛らしいと思う反面、罪悪感が湧いてくる。
自分は今からこの子に酷いことを言わなければならないのだ。
「アルカディア…悪い…」
突然の謝罪に彼はきょとんと首を傾げる。
「……?なぁに」
「父親が来る」
そう口にした途端、アルカディアはそれはもう嫌そうに顔を歪めた。クラウディオはその気持ちも分かると大いに頷きたくなったが、ぐっと堪える。
「どうする。外に避難するか?」
アルカディアは俯いて自身の尻尾をぎゅっと握った。
「……ここ、いる…」
「…いいのか?」
「くらでぃお、いっしょ…いたい…」
一緒に居たいと言われれば嬉しくないわけがない。クラウディオは優しく笑ってその頭を撫でてやった。するとアルカディアはくすぐったそうに身を捩って笑う。
「まぁ、今日は昨日のようにはならん。面倒極まりないが、母親も一緒でな」
「…ははおや」
「そうだ。確実に面倒なことにはなるだろうが」
「…おははうえ、こわいひと?」
「いや、怖くはない。ただ奇妙なだけだ」
思い出すだけでうんざりする、と溜め息をつくと、アルカディアはクラウディオを見上げて首を傾げた。
そうして一時間ほどもしないうちに、クラウディオの両親が尋ねてきた。使用人たちが一斉に出迎え、二人を応接室へと案内する。
アルカディアはクラウディオの服を握って不安げにしていたが、大丈夫だと安心させるように微笑んでやる。それでも心配なのか、ずっと彼の傍を離れようとしなかった。
やがて扉が開かれ、両親の姿が見える。二人は並んで歩いてくると、まず母親が口を開いた。
「久しぶりね、クラウディオ」
「えぇ、お久しぶりです」
母親は息子を見てニッコリと柔和な笑みを浮かべた。
「元気にしてたみたいで何よりだわ」
「お陰様で」
「…ふん、忌々しい耳と尻尾だな」
父親はアルカディアを見下ろして吐き捨てるように言った。アルカディアは俯いたままクラウディオの足にぴたりとくっついて隠れてしまった。
「まだアルカディアへの謝罪を聞いていませんが」
昨日のアルカディアへの仕打ちを忘れていないぞという意思を込めて言うと、父親はフンッと鼻を鳴らした。
「謝る必要などないだろう魔人族風情に」
魔人族である以上謝る気は無いということか。だがそれはあまりにも身勝手な言い分だ。
「あなた」
母親に咎められると、父親は不機嫌そうに舌打ちをしてそっぽを向いてしまった。
「……それで、本日はどのようなご用件でしょうか」
「あら、用がなければ来てはいけないかしら」
「そういうわけではありませんが」
相変わらずな母親に、クラウディオは内心で溜め息をついた。
この母親も、父親同様面倒臭い性格をしているのだ。
「はじめまして、アルカディアくんって言うのね」
母親は膝を折ってアルカディアに視線を合わせると、優しい声で話しかけた。
「私はルシアよ。クラウディオのおかあさま。よろしくね」
アルカディアは怯えた様子でクラウディオの後ろに隠れたままだったが、彼女の優しい声に恐る恐るという風に顔を出して母親の顔を窺った。
「…おははうえ」
「あらぁ、母上と呼んでくれるの?可愛いわねぇ」
母親は目を細めて愛おしそうにアルカディアを見た。
アルカディアは少しだけ警戒心を解いたのか、またちょこんと姿を見せた。
その様子を見て、クラウディオは心の中でホッと安堵した。
母親も父親と同じように自分勝手な人間だ。
けれど、アルカディアのことをちゃんと一人の子供として見てくれているようだった。
「アルカディア、自己紹介くらいはしてもいいんじゃないか」
そう促すと、アルカディアはおずおずと前に出て頭を下げた。
「……ある、かでぃあ、です……」
「まぁ!よくできました!」
褒められたことが嬉しいのだろう、アルカディアは恥ずかしそうにはにかんで見せた。母親はその姿に嬉しそうに笑うと後ろを振り向いた。
「じゃあ私だけではなくて、あの人にも自己紹介できるかしら?」
そう言って父親を指差すと、アルカディアはすぐにクラウディオの後ろへ身を隠し、小さな手でぎゅっと彼のシャツを握った。
「……おちちうえ、きらい」
その言葉を聞いた父親は、ふんと鼻を鳴らす。
「くだらん。魔人族ごときに好かれたくもない」
その言い方にクラウディオはカチンときたが、ここで怒鳴りつけても意味が無いことは分かっていた。
だからといってこのまま黙っているつもりも無いのだが。
クラウディオが反論しようとすると、アルカディアが声を上げた。
「おれはきたなくないもん」
その声音はとても悲しげなものだったが、同時に強い意志を感じた。
アルカディアは続けて言う。
「くらでぃおといつもきれいにしてるもん」
その声が震えていることに気付いたのは、きっとこの場ではクラウディオだけだったろう。
そして、その涙が溢れてしまう前にと、彼はアルカディアを抱き上げて部屋を出た。
両親の呼び止める声を無視して。
それから自室に戻ると、アルカディアは堰を切ったように泣き出した。
ポロポロと大粒の涙を流しながら、彼は何度もしゃくり上げる。
昨日「汚らしい」と言われた悔しさがまだずっと残っているのだ。
だから今日もそう言われるのではないかと、不安になってしまったに違いない。
「アルカディア」
優しく名前を呼んでやると、アルカディアはぼろぼろ泣きながら顔を上げてクラウディオを見上げた。
「大丈夫だ。お前は今日も綺麗だよ」
涙を指で拭ってやり、頭を撫でてやる。アルカディアはぎゅっとクラウディオの首にしがみつくと、肩口に額を押し付けた。
「……っ、うぇ…」
「ずっと悔しかったんだな」
「…っ、ひぐっ…、ふぇ……っ」
優しく背中をさすってやれば、次第に嗚咽は治まっていく。
ようやく落ち着いて来た頃、控えめに自室の扉をノックする音と共に入ってきたのは母親だった。
「お邪魔していいかしら」
「……どうぞ」
断る理由もないので了承すると、彼女はゆっくりと部屋に入ってくる。
「…二人にして」
突然のその提案に、クラウディオは顔を顰めた。
「何故ですか」
「……二人にして」
有無を言わせない口調に、クラウディオは渋々承諾するしかなかった。
だからこの人は嫌なのだ。何を考えているか分からないから。
「アルカディア、少し外に出てくる」
「……おれもいく」
「悪い。少しだけだから」
「……」
「すぐに戻るよ」
「……やくそく」
「ああ、約束だ」
まだ完全に泣き止んでいないアルカディアを置いていくなんて、本当ならしたくない。
けれど、仕方がない。
クラウディオは立ち上がり、母親と向き直る。
「あまり難しい話はしないでください」
「ええ。わかったわ」
ドアに手をかけるクラウディオの後ろ姿に向かって、母親は静かに言った。
「……あの人のこと、嫌いにならないであげてね」
「……努力は、します」
「ありがとう」
振り返らずに答えると、母親は嬉しそうな声音で答えた。
ぱたん、とドアが閉まった音を聞いて母親はアルカディアの隣に腰掛ける。
「どうして泣いてるのかしら」
「きのう、おちちうえに、きたないっていわれた」
「あら、そんなことを言われたの?酷いわね」
「おれ、きたなくないもん」
「そうよね。アルカディアくんはとっても可愛いもの」
アルカディアは耳も尻尾も垂れ下がり、しょんぼりと項垂れている。
それを慰めるように、母親は彼の頬を撫でた。
「ねぇ、アルカディアくん。私とお友達になってくれない?」
「ともだち?」
「そうよ。私、アルカディアくんのこともっと知りたいの」
「………でも」
「ダメかしら?」
「おちちうえ、おこるよ…」
父親は魔人族が大嫌いだと言っていた。だから、もし母親と親しくしているのを知られてしまったら、どんな目に遭わされるか分かったものではない。
だが母親は、安心させるような笑みを浮かべていた。
まるで、何もかも全て見透かすかのように。
「大丈夫よぉ。次あなたに何か酷いことしたら、けしちゃうわ」
「……けす?」
「殺しちゃおうかなって」
瞬間、アルカディアの表情が固まった。母親にとっては軽い冗談だったのかもしれない。
けれど、彼女の目は全く笑ってなどいなかったのだ。
その目は本気だった。本気で、父親を殺そうと思っている。
そう直感したアルカディアの体は、恐怖で震えていた。
怖い。
この人が、とても怖くて恐ろしい存在だと思った。
「あら、ごめんなさい。ちょっと恐がらせすぎちゃったかしら」
変わらず笑顔で謝る母親に、アルカディアはふるふると首を横に振った。
「こわ、く…ない」
本当はとても恐かったけれど、ここで否定しないと自分が殺されてしまう気がした。
だから嘘をついた。
「ほんと?」
「うん」
「良かったぁ。私、子供に嫌われるのは悲しいの」
そう言って、またアルカディアの頭を撫でてくれた。
「私はあなたの味方よ」
「……みかた」
「ええ。お母様は嘘つかないもの」
そう言って母親が手を差し出すと、アルカディアは恐る恐るその小さな手で握った。それを見た彼女は、嬉しそうに微笑む。
──あぁ、可愛い。こんなにも小さくて可愛らしい子を、誰が傷つけられるというのだろう。
可愛い可愛い。奇跡のように美しい男の子。
「剥製にしたいくらい」
思わずそう呟いた言葉は、幸いなことにアルカディアには聞こえていなかったようだ。
それからしばらく他愛もない話をした後、彼女は立ち上がる。
そろそろ戻らないと、クラウディオが心配してしまう。
「クラウディオのことはすき?」
「だいすき」
「ふふ、あの子は幸せ者だこと」
ルシアは楽しそうに笑って、アルカディアの手を引いて部屋を出た。
廊下に出ると、驚くほど険悪な雰囲気でクラウディオと父親が睨み合っていた。
お互い一歩も譲るつもりはないらしい。
これは、一体どういう状況なのか。
「あら〜、困った人達ねえ」
「……」
母親の呑気な声を聞きながら、アルカディアはすぐさまクラウディオの元へ駆け寄った。
「怖くなかったか?」
クラウディオの言葉に一瞬躊躇ったが、アルカディアはこくりと一つ肯いて見せる。
すると、彼は安堵の息を吐いた。
そしてすぐに、父親の方へ向き直る。
二人は相変わらず視線だけで火花を散らしていた。
「……帰るぞ」
先に口を開いたのは父親だった。
「は〜い。それじゃあね、クラウディオ、アルカディアくん」
手を振る母親に、アルカディアは慌てて手を振り返す。
そのまま二人が帰っていくのを見送ってから、クラウディオは溜息を吐き出した。
「………やっと帰ったか…」
これでようやく心身ともにゆっくりできる、と体の力を抜いた時、ふとアルカディアがクラウディオの足にしがみついたまま離れないことに気付く。
「どうしたんだ」
優しく問いかけると、アルカディアはおずおずと顔を上げた。
よく見れば、アルカディアの尻尾が股の間に挟まっている。
「何かあったか?」
随分怖がって怯えている様子だ。何があったのか聞こうとした時、アルカディアは消え入りそうな声で言った。
「ごめ、なさい…」
「ん?」
「さっき…うそ、ついた」
「嘘?」
アルカディアは涙を堪えて、必死に言葉を紡ぐ。
そんな彼を落ち着かせるように、クラウディオはしゃがんで目線を合わせた。
別に怒ってなんかいないのに、アルカディアは叱られるのを待つ子供のように身を縮こまらせている。
クラウディオは苦笑して、彼の頭にぽんと手を置いた。
「怒ってないよ。何の嘘だ?」
「こわく、なかった、って、いった」
クラウディオは先程自分が席を外して怖くなかったかと聞いた時のことを思い出す。
確かに、アルカディアは少しだけ強張っていた。
あの時は気づかなかったが、もしかして無理をしていたのだろうか。
だとしたら悪いことをしてしまった。
「大丈夫だよ。何があった?」
アルカディアはクラウディオの袖をぎゅう、と掴んで小さく震えている。
「おははうえ、こわい」
絞り出された声は、酷く弱々しかった。
その答えに、クラウディオは目を丸くする。
「何か言われたか?」
「うそか、ほんとか、わかん、ない」
その言葉にクラウディオは全てを察した。
これから母親はアルカディアのことをそれはもう可愛がるだろう。可愛すぎて、つい虐めてしまうのだろう。
だからきっと怖がらせるようなことを言ったに違いない。
そしてそれが嘘か本当かなんて誰にも分からない。
「…悪かったな、ああいう人だ。でもお前のことを大切に思っているのは確かだから、許してくれないか」
「……うん」
「ありがとう」
頭を撫でてやれば、アルカディアはやっと安心したように笑った。
やっぱり、この子は笑った方がずっといい。