
おれのしあわせ
アルカディアは必死に走っていた。後ろから迫ってくる巨大な魔獣に追われて。
その手には二輪ほどの小さな花を抱えていた。
「…っ!?」
しかし足が木の根に引っかかり、転んでしまった。花を抱えていたせいで受け身も取れず地面に強く体を打ち付ける。
クラウディオがプレゼントしてくれた三毛猫柄のレインコートが、泥だらけになってしまった。
どうしようと気にしている間に背後から聞こえてくる大きな足音に気付き、アルカディアは慌てて立ち上がると再び走り出す。
転んだせいで足を擦りむいた。
息も上がっている。
もう走る元気はない。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
この花を、クラウディオにプレゼントしたいのだ。
喜んで欲しい。
褒めて欲しい。
そんな思いだけが、今のアルカディアを動かしていた。
アルカディアはひたすらに足を動かし、その脚力で目の前のおおきな木によじ登る。枝の上まで来ると、そこでようやく一息ついた。
ここまで来れば大丈夫だろう。そう思って地面を見下ろすと、ちょうど先ほどまで追いかけられていた魔獣が通り過ぎたところだった。
どうしてこんなことになっているのか。それは数時間前に遡る──
「…アルカディア、今日私は外出しなくてはならない。帰るまでいい子で待っていられるか?」
仕事机でパソコンを弄っていたクラウディオが、ふと思い出したように顔を上げて言った。
「うん、まてる!」
クラウディオの膝の上で遊んでいたアルカディアは、笑顔を浮かべながら答える。すると彼は優しく微笑み、頭を撫でてくれた。
ぴこぴこと耳が動く。嬉しいという感情を表すかのように尻尾も大きく揺れた。
「なるべく早く帰ってくるよ」
「ん!」
こくんと頷いたアルカディアの目に、パソコンの画面に映されていた花の写真が飛び込んできた。
「おはな」
「ああ、これか?今探している花でな」
「さがしてる?」
「ああ。珍しい花なんだ。これを解析出来れば、新しい仕事に繋がるかもしれないと思ってね」
アルカディアはじ、と画面の中の花を見つめる。
どこかで、見たような。
「さて、そろそろ時間だ。行ってくるよ」
「ん、行ってらっしゃい」
玄関まで見送りに来たアルカディアは、ぶんぶんとクラウディオに手を振ったあと自室へ戻った。
ソファーに座り、先程の花について思い出してみる。
腕を組んでうんうんと悩んでいると、ハッと顔を上げた。
「あそこだ」
かつてアルカディアが住んでいた森、ストレンヴルム。魔獣の巣窟である反面、珍しい植物や動物が多く生息している場所でもある。
そしてあの花もその森の中にあったのをこの目で見た記憶があった。
アルカディアは衝動的に立ち上がりクローゼットを開けると、お気に入りの三毛猫レインコートを取り出して袖を通した。大きめのサイズのため尻尾も見えないし、フードを被ってしまえば耳だって隠せる優れものだ。
あの花を見つけたら、クラウディオはきっと喜んでくれるに違いない!摘んで帰って驚かせてあげよう!
そうと決まれば早速出発だ。
いつもはクラウディオとしか外に出ないため少し不安だが、それでも行くしかない。
玄関から出ようとすれば使用人たちに止められてしまうことが予測できるので、アルカディアはこっそり窓から外へ出た。
きょろきょろと周りを見回し、庭を駆け抜け塀をよじ登る。そしてそのまま森に向かって走り出した。
「アルカディア様、お茶はいかがですか?」
ノックをしながら使用人が顔を覗かせる。しかし返事が聞こえない。
「…アルカディア様?」
不思議に思った彼女は、部屋に入ってアルカディアの姿を探した。しかしどこを見ても彼の姿はない。
不意にふわりとカーテンが揺れた。
──窓が、開いている。
嫌な予感がした。まさか、と思った彼女は慌てて窓から庭に出た。
「……アルカディア様!?」
返事は無い。
使用人の顔がサッと青ざめる。
「た、大変…!」
アルカディアは街を駆け抜けていた。
森への行き方は定かでは無いがなんとなく匂いでわかるのだ。
「あら…アルカディアちゃん?」
ふとかけられた声に足を止めると、花屋のグレイス夫人が店先で花に水をあげていた。
「ふじんだ、こんにちは」
「はい、こんにちは。一人?」
「うん。これから森、いってくる」
「森に?」
「くらでぃおに喜んでほしいの。みつかるといいな」
にこっと笑うアルカディア。
しかしそんな彼に、グレイスは眉を下げながら言った。
「でも一人で森に行くのは危険だわ、アルカディアちゃん」
「だいじょぶだよ」
アルカディアはそう言うとグレイス夫人に手を振って再び走り出す。
そんな彼を、夫人が慌てて引き止めたが、アルカディアは振り切って行ってしまった。
──その頃、屋敷では。
使用人たちが総出で、突然いなくなったアルカディアを探していた。
屋敷の中、庭園、屋敷周辺を隅々まで探し回るも、その姿は見当たらない。
「あっ、旦那様…!」
使用人から連絡を受けたクラウディオの車が屋敷に到着した。
「アルカディアは?」
「ま、まだ見つかっておりません…」
「申し訳ありませんクラウディオ様…ッ」
使用人が一人、クラウディオに駆け寄り頭を下げた。彼女はいつもアルカディアにお茶やおやつを運んでくれている使用人だった。彼女は顔を真っ青にして震える声で謝罪の言葉を述べる。
「いいんだ、君が謝ることではない。君が気付いてくれなければ、もっと大変なことになっていただろう。ありがとう」
「いえ、私は何も……!」
「とりあえず、私は街の方を探してみよう。車で──」
クラウディオがそこまで言った時、門からグレイス夫人が息を切らしながら走ってきた。
「く、クラウディオくんっ」
「…グレイス夫人?」
相当急いで来てくれたのだろう、額には汗が滲んでいる。花屋からこの屋敷まではそれなりの距離があるはずだ。
「どうされました?」
「あ、アルカディアちゃんは…?」
「それが…見当たらなくて。何かご存知で?」
「さ、さっき店の前で会ったのよ…!森に行くって…!危ないからって止めたのだけど…」
彼女の言葉にクラウディオは顔を顰めた。何故突然ストレンヴルムへ…?
アルカディアが元々住んでいた場所ではあるが、さすがに危険すぎる。
「ありがとうございます、すぐに向かいます」
「え、えぇ、お願いね」
「君たちは念の為街の捜索を頼む」
「かしこまりました!」
クラウディオが再び車に乗り込むところに、グレイス夫人が小さく声をかけた。
「あのね…アルカディアちゃんのこと、怒らないであげてほしいの」
「……どういうことです?」
「クラウディオくんのことを喜ばせたいんですって…だからその、あの子なりに考えての行動だと思うのよ」
「……」
「ね?だから、ね?」
必死に説得しようとするグレイス夫人に、クラウディオは小さく笑った。
「軽いお説教だけに留めておきましょう」
「ええ、ありがとう…」
「またアルカディアと共にお礼に参ります。では」
「気をつけてね」
クラウディオを乗せた車は勢いよく発進した。
それを見送りながら、グレイス夫人は不安げな表情を浮かべる。
「大丈夫よ、きっと」
「はっ…はぁ、は、んくっ」
苦しい。もう走れない。
アルカディアはついに座り込んでしまった。いくら人間より運動神経が良いとはいえ、所詮はまだ子供。大人より体力は少ないのだ。
でもなんとかして屋敷に帰らなくてはならない。
クラウディオに喜んでもらいたい。そのためならどんなに苦しくても頑張れる。
「はあ、は、う、」
膝に手を置いて呼吸を整える。
ふと顔を上げると、想定していた場所と随分違うところにいた。
魔獣に追いかけられている間に、知っているルートから大きく外れてしまったようだ。
「あ…あれ…?」
これは非常にまずい。
アルカディアは慌てて立ち上がって走り出す。しかし既に方向感覚が狂っているため、自分が今どこを走っているのかわからない。
焦りだけが募っていく。
「は、はやく、かえ、な、きゃ、」
日が落ちてしまえばこの森は一層暗くなってしまう。
それはつまり、アルカディアにとって危険な状況に陥るということだ。
ここに住んでいた時も、夜も目が利くとは言え方向感覚が掴めず迷ってしまったことがあった。
「くら、でぃ、お…おこ、ちゃ、」
浅い息を繰り返しながらなんとか走り続けるも、足がもつれて転んでしまう。
届けなきゃ。
この花を、クラウディオにあげたいのだ。
褒めて欲しいのだ。
「は……ぅ、ふ、」
ゆっくり体を起こし、走るのを諦めて少しずつ歩いて行くことにした。
足も顔も傷だらけで痛むが、それでも歩くしかない。
ぎゅう、と花を握り締めて一歩一歩進む。
しばらく懸命に歩いていると、アルカディアの耳に微かな声が届いた。
声が聞こえるということは、近くに誰かがいるはず。アルカディアは声の主を探すためにキョロキョロと辺りを見回す。
「……ア……ィア…!」
「!」
再び聞こえた声を頼りに進んでいくと、大好きなクラウディオの姿があった。
アルカディアはぱあっと顔を輝かせ、声を張り上げる。
「くらでぃお!!」
「……ッ、アルカディア…っ」
笑顔でクラウディオに駆け寄っていく。しかし次第にアルカディアの顔から笑顔が消えていった。
クラウディオは眉を下げて、とても悲しげな表情をしていたからだ。
「く、くらでぃ、お……?」
「ああ…よかった…無事だったか…」
いつものクラウディオからは想像もできないほど弱々しい声だった。アルカディアは言葉を失って、咄嗟に握り締めていた花をレインコートの中に隠した。
「傷だらけじゃないか…」
「…………だいじょぶ」
「…とにかく、早く帰ろう。みんな心配してる」
差し出された手をおずおずと握る。
クラウディオの手はいつもより随分と冷たかった。
彼の顔を見上げると、その髪は乱れていて額には汗が滲んでいる。
「………」
自分の行動は正解だった?本当にこれで良かったのだろうか。
そんな考えが頭を過る。
車に乗って屋敷に帰る間も、アルカディアは何も口にできなかった。
クラウディオを喜ばせたかったのに。
喜ばせたかったはずだったのに。どうしてこんなにも胸の奥がざわつくんだろう。
屋敷に着いて車を降りると、アルカディアは目を見開いた。
いつもお茶を持ってきて、おしゃべりしてくれる使用人が自分の姿を見て泣き崩れていたのだ。
他の使用人たちも皆涙ぐんで、安心したように息をついていた。
「………ぁ」
その光景を見てアルカディアは察してしまった。
自分は、とんでもないことをしてしまったのだ。
クラウディオに褒められたい、ただそれだけの自分勝手な理由で、誰にも言わずに勝手に出て行って、迷惑をかけて。
喜んで欲しかったクラウディオにまであんなに悲しそうな顔をさせてしまった。
アルカディアの瞳からポロリと一粒雫が零れた。
それを皮切りに、次から次に溢れ出して止まらない。
「…アルカディア?」
「ふぇ……」
声をかけられても上手く返事ができない。喉が詰まって言葉にならないのだ。
やがてアルカディアは声を上げてわんわん泣いた。
クラウディオも使用人たちも驚いたように目を丸くして、慌てて駆け寄ってきてくれる。
ああ、また迷惑をかけてしまう。そう思うのに、溢れる涙は止まることを知らなかった。
「ごめ、なさ、っく、うぇ…ぅ」
「大丈夫だよ、アルカディア。怖かったろ」
「ひぐ、ふ、う」
「アルカディア様が無事で本当に良かったですわ」
「ほんとうに…!もう、心臓が潰れるかと思いましたよ……!」
「…うん、うん」
使用人たちの優しい笑顔にアルカディアは何度もこくこくと首を縦に振った。
「ほらおいで、手当てしよう」
「うん…」
クラウディオが泥だらけになったレインコートをハンカチで拭きながら言う。
手を引かれて自室へ向かうと、アルカディアはソファーに座らされた。
「レインコート脱ごうか。洗濯しよう」
「…ぁ…でも…」
レインコートの中に摘んで来た花を隠している。それを知られたくない。でも隠し通せる自信もない。
どうすればいいのかとぐるぐる考えてやがて、アルカディアは意を決して口を開いた。
「あ、あのね、これ、あげる、の、」
「ん?」
おずおずとレインコートの中から花を差し出す。
握り締めてくしゃくしゃになったそれは、とてもプレゼントと呼べる代物ではなかった。
しかし花を見たクラウディオは目を見開いた。
そっと受け取り花を眺める。
小さな白い花。
クラウディオがずっと探していたものだ。
「…これを探しに一人で?」
「……うん」
「私のために?」
「……ん」
俯いたままこくんと小さく頷く。
すると突然ふわりとした浮遊感に襲われて、気付けば強く抱きしめられていた。
「くら、でぃお?」
「ありがとう、アルカディア」
「……ぁ」
「本当に嬉しい」
「……!」
「私は見つけられなかったんだ。すごいな、お前は」
「……ぅ、」
アルカディアはぎゅ、とクラウディオの服を掴んだ。
嬉しい、嬉しい。褒めてくれた。喜んでくれた。
その事実が嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。
「お前が居てくれて、私は幸せだ」
「しあ…わせ…」
「お前をここに連れてきたのも、お前を育てているのも、全て私の自己満足に過ぎない。私だけが幸せになっている。なのにお前は、私のためにこの花を探して来てくれた。こんなに嬉しいことはないよ。ありがとう、アルカディア」
クラウディオの言葉は少し不満だった。
確かにアルカディアはクラウディオに連れられるままここで暮らしている。けれどアルカディアは今、クラウディオと一緒にいるのが幸せなのだ。
「おれ、は…森にひとりで住んでる時…しあわせじゃなかったよ…」
クラウディオは、ぽつぽつと話し始めたアルカディアの体を離して、真正面から見つめ合う形になる。
「ずっと…あしたのごはんとか…あしたも生きてられるかとか…ずっと心配してた…。でも、ここ…きて、おれ…はじめてあしたがくるの楽しみになったよ」
「……アルカディア」
「くらでぃおいなかったら、たぶん、おれ生きてなかったよ」
「……っ」
「おれは…くらでぃおも、みんなもいる…ここがすき。だから…おれも、しあわせ」
いつの間にか再びぽろぽろと涙が零れていた。
クラウディオが親指でその涙を優しく拭ってくれる。
「おれも、くらでぃおも…みんなも、しあわせ…」
アルカディアは嬉しそうに笑って、クラウディオの手に頬を擦り寄せた。
ああ、この子はなんて可愛い生き物なんだろう。
愛おしくて堪らない。
クラウディオはその小さな体をもう一度強く抱き締めると、その額に唇を寄せた。
翌日。
絆創膏だらけのアルカディアは、いつものレインコートを着てグレイス夫人の絵を描いてお礼をしに行ったとか。