Goodbye, decent me
帰宅すると、アルカディアがベッドに倒れていた。
寝ている訳では無い。文字通り気を失っているのだ。
恐らくまた、精神安定剤を大量に飲んだのだろう。
その証拠に、シーツには大量の薬の残骸が落ちている。
クラウディオは小さく息を吐いて、その細い体に毛布を掛けてやった。
しかし、彼は目を覚まさない。
当然と言えば当然だ。
何せ、彼の精神状態はかなり不安定になっているからだ。
彼が長年恨んでいた男をその手で殺した後、アルカディアの中で何かが変わったらしい。
それはもう、壊れてしまう程に。
あの日からアルカディアはまたよく笑う様になった。
まるで幸せだと言わんばかりに。
だが、それと同時に情緒も激しく乱れる様になり、些細な事で泣き出し、自傷行為を繰り返す事が多くなった。
あの男を殺しても、彼の中から憎しみや怒りといった感情が消えなかったのだろう。いや、それどころか更に膨れ上がったと言うべきか。
何故あの程度で死んだのか、とアルカディアは口にしたことがある。あれでは足りない、もっと苦しませてから殺すべきだった、と。何故もうこの世に居ないのか。もっともっと、永遠に殺し続けてやりたかったのに、と。
その時のアルカディアの表情を、よく覚えている。憎悪と殺意に満ちた顔。
それが本来の彼なのだろう。
普段は抑え込んでいるだけで、本性はとても残虐な男である。
そんな彼を見ているからこそ、クラウディオは思うのだ。
──今の彼はとても危ういと。
あのアルカディアが、クラウディオに相談することも出来なかったのだ。自分一人でどうにかするしかないと思った。
その結果がこれだ。
どこかで聞きかじったのであろう精神安定剤の大量摂取。アルカディアなりに、必死になって考えた結果なのだと思う。
けれど、それは逆効果にしかならなかった。
確かに少しの効果はあったかもしれない。
でもそれは一時凌ぎに過ぎず、結局は悪化させるだけに終わった。
それでもアルカディアは諦めず、何度も繰り返した。そして、その度に酷くなっていった。
今日もまた、その類いだということは容易に想像がつく。
アルカディアが薬を摂取するのを何度も止めたことがある。だがクラウディオが止めると、アルカディアは絶望的な顔をして泣くのだ。どうして止めようとするのか分からないという風に。
「くらでぃおまで、おれのこときらいになるの……?」
そう言われてしまえば、もうどうしようもできなかった。
だからクラウディオは何も言えず、ただ抱き締めることしか出来ない。
それに安心した様に、アルカディアは再び薬に手を伸ばす。それを黙って見守るしかなかった。
本当は今すぐにでも病院に連れて行きたいのだが、アルカディアの体は医者に見せても意味が無いことは分かっている。
薬の作用と魔力がぐちゃぐちゃに混ざり合っているせいで、前より顔色も悪いし痩せ細っている。
「……なぁ、アルカディア」
お前は何を望んでいる?
その問い掛けに応える者はいない。
アルカディアは既に深い眠りに落ちているからだ。
そっと頭を撫でながら、クラウディオは考える。
きっと彼は答えないだろう。
何せ、彼自身分かっていないのだから。
何をすれば良いのか、自分が何を求めているのか。
以前より酷くなった隈をそっと指でなぞる。その頬には涙の跡があった。
クラウディオは深く深く溜め息を吐く。
──ああ本当に厄介な存在だよ、お前は。
そんなことを思いながらも、その寝顔を見つめる瞳は優しいものだった。
ゆっくり瞼を開ける。
視界に入ったのは、いつもと同じ天井。だがその白い天井はぐるぐると回っている。
「(……気持ち、わるい)」
ガンガンと痛む頭を押さえ、起き上がる。自身に毛布がかけられていることに気付き、もう夜なのだと理解した。
ふらつく足取りで洗面所へ向かう。冷たい水で顔を洗い、鏡を見ると酷い有様だ。
髪はボサボサだし、目の下には大きなクマがある。血色の良くない青白さのある肌。
思わず舌打ちをする。こんな醜い姿をしているなんて、最悪だ。
アルカディアはタオルで乱暴に顔を拭いて、リビングへと向かう。
ソファーに座っている後ろ姿。
好きで好きで堪らない人。
「くらでぃお」
自分の掠れた声すら嫌になる。
ゆっくりと振り返った彼の手には煙草。
その匂いが鼻腔をくすぐり、頭がクラリとした。
そのまま吸い寄せられる様に近付き、彼の肩口に顔を埋め、強く抱き着く。
すると優しく頭を撫でられた。
それだけなのに、アルカディアの心は酷く落ち着く。
この瞬間だけは、全てを忘れられる。
「よく寝たな」
甘くて優しい低い声。その声で名前を呼ばれることが好きだ。
この大きな手が触れることも、全部。
ずっとこのままで居たいと、アルカディアは思う。
クラウディオはぽんぽんと優しく頭を撫でてくれる。
「何か食べるか?」
その言葉に首を横に振る。
食欲は無い。そういえば、ちゃんとご飯を食べたのはいつだっただろうか。
「暖かい飲み物なら飲めるか?」
飲み物。液体なら、飲めなくはないかもしれない。
アルカディアが小さく首を動かせば、彼はキッチンへ行ってしまった。
一人になった途端に押し寄せる不安感。
また置いていかれるのではないかという恐怖。
アルカディアは無意識にクラウディオの後を追った。
後ろを着いてきたアルカディアに優しく微笑んだクラウディオは、その細い腰に手を回して引き寄せる。
「コーンスープとホットミルクどっちが良い?」
耳元で囁かれた甘い誘惑。
そのどちらもアルカディアの大好きなものだ。
「……コーンスープ…」
小さな返事を聞いて、彼はまた笑う。
椅子に座って待っていろ、と言うだろうか。できることなら、少しも離れたく無いのに。
しかし、彼の口から出てきたのは全く違う言葉で、アルカディアは目を丸くした。
「一緒に作ろうか」
それは、まるで子供を相手にする様な言い方だった。
でも、それが嬉しくて仕方がない。
「まぁ、インスタントだからすぐに出来るけどな」
「……一緒、につくる」
「うん」
クラウディオは優しく微笑んで、アルカディアの手を取った。
そして、二人で台所に立つ。
アルカディアは少しだけ楽しかった。
ポットに水を入れて、市販のコーンスープの袋を開けるだけの作業。それですらも楽しいと思ってしまう。
「マグカップ取っておいで」
「ん」
言われた通りに食器棚から取ってくる。
二人分のマグカップに粉末を入れ、沸かした湯を注ぎ、スプーンで軽くかき混ぜればほわりと香るの甘くて温かい香り。
一緒にソファーに戻って、隣同士に座る。
両手で持ったマグカップを口元に近づけると、美味しそうな匂いがした。
口に含めば、優しい甘みが広がっていく。
「……おいしい」
ぽつりと呟けば、クラウディオは満足げに笑っていた。
それから暫く、二人は無言で飲み続けた。
静かな空間。ただただ心地好い時間。
アルカディアが空っぽの胃にスープを全て流し込んだのを確認して、クラウディオはくしゃりとアルカディアの頭を撫でた。
「今日はもう寝ろ。ベッドまで運んでやるから」
もう寝る?まだ寝たくない。だって、せっかくこうして傍に居るのに。
アルカディアが口を開こうとすれば、先に彼が言葉を紡いだ。
「疲れただろ。たまにはちゃんと寝ろ」
薬による気絶ばかりでなく、きちんと睡眠を取れと言っているのはアルカディアでも理解出来た。それでも嫌だと駄々をこねたい。
もう少し、あと少しだけで良いから、この人の温もりを感じていたい。
「…くらでぃお…は…?」
「私は風呂に入ってくるよ」
「いっしょ、に」
「今日はやめておけ、ふらついてるだろ。転んだりしたら危ない」
そう言われてしまえば、何も言い返せない。
確かに足取りは覚束ないし、視界はぐるぐる回っている。それに頭は痛いし、吐き気もある。
こんな状態でお風呂に入るのは危険だ。
「わかった……」
「いい子だ」
そう言って、クラウディオは優しく頭を撫でてくれた。
アルカディアはその手にすり寄って、猫の様に瞳を閉じる。
早く戻って来て欲しい。そうしたら、きっともっと幸せな気分になれるはず。
「くら、でぃお」
「どうした?」
「……はやく、かえってきて」
「ああ、すぐ戻るよ。だから、もう休め。眠いだろう?」
「……うん」
そうしてアルカディアは大人しく寝室へと向かった。
本当は一人で眠るのは怖い。寂しい。けれど、これ以上我を通す訳にもいかない。
浴室に向かうクラウディオの後ろ姿を見送り、アルカディアはベッドに入った。
一人きりの部屋。いつもの光景だ。
「(あぁ、やっぱり駄目だ)」
孤独に押し潰されそうになる感覚。あの人が居なければ、生きていけないという錯覚すら覚える。
アルカディアは布団を深く被った。
大丈夫だ。あの人はここに帰ってくる。
何度も自分に言い聞かせる。
そうしないと、おかしくなりそうだ。
「(……くらでぃお)」
心の中で名前を呼ぶ。
すると不思議と安心できた。
明日もクラウディオは仕事だ。だから、アルカディアが寝ないと困らせてしまう。
また明日が来る。クラウディオが帰ってくるまで、ひとりぼっちの時間が来る。それが怖くて仕方が無いのに、体は眠りへと誘われていく。
ゆっくりと瞼を閉じて、真っ暗な世界に身を預けた。
カーテンの隙間から差し込む光に意識を浮上させる。
朝が来たのだ。
ぼんやりとした思考の中、アルカディアは身体を起こした。
酷い頭痛と倦怠感。体が重い。起き上がるのも億劫だった。
隣を見ても、そこにあるはずの姿は無くて、虚しさだけが胸に残る。
枕元に置かれた時計を確認すると、時刻は午前10時を指していた。
クラウディオはとっくの昔に仕事へ行ってしまったようだ。
「……くらでぃお……」
小さく彼の名前を呼んでみる。
当然、返事は無い。
途端に不安になる。昨日の事が夢だったのではないか、と考えてしまったからだ。
アルカディアは急いでリビングへ向かった。
扉を開けると、そこには誰も居なくて、やはりあれは現実ではなかったのではないかと思ってしまう。
そんな不安を振り払う様にして、アルカディアは声を上げた。
「……っ、くらでぃおっ!」
しかし、その声は虚しく響くだけ。
どうして、彼は返事をしてくれないのだろうか。
もしかしたら、もう帰ってこないつもりかもしれない。そう思うだけで、アルカディアは息が出来なくなる程に苦しくなった。
呼吸が上手く出来ない。
頭が痛い。気持ち悪い。
アルカディアはその場に座り込んでしまった。苦しい。辛い。悲しい。
ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
駄目だ、駄目だ。
また精神状態が不安定になっている。
このままでは、クラウディオに迷惑をかけてしまう。
分かっているのに、感情の制御が効かない。
「……くらでぃお、どこ」
どこにもいない。ここにはだれもいない。
その事実が辛かった。
もう、独りは嫌なのに。
──薬を飲まないと。
頭の中に浮かぶのは、そればかり。
震える手で棚を漁る。
手に触れたのはカプセル状の薬が沢山入った箱。その中から適当に一つ掴み取る。
そして、それを口に含んだ。
水無しでも飲めるタイプのそれは、簡単に喉を通り抜けていった。
荒い息を繰り返しながら、アルカディアは膝を抱える。
「…は、……ぅ…ぐす……」
涙が止まらない。
嗚咽混じりの泣き声が漏れる。
アルカディアは必死になって、自分を落ち着かせようとした。
大丈夫だと言い聞かせる。
もっと飲まないと駄目だろうか。まだ足りない気がする。
もっと、もっと。
そうすれば、この苦しみから逃れられる。
アルカディアは薬の入った瓶を手に取って、蓋を開けて中身を全て口の中に流し込んだ。
「…ふ……ぇ……」
全部飲み込んだ。これで良いはずだ。
アルカディアは立ち上がり、そのままフラつく足取りで台所へと向かう。
コップに水を注いで、一気に煽った。
冷たい水が体内を流れて行く感覚が心地好い。
アルカディアは安堵のため息を漏らした。
「……くらでぃお」
呟いた言葉は誰にも拾われずに消えていく。
会いたい。早く帰ってきて欲しい。
その一心でアルカディアは無意識に洗面所へと向かった。
顔を洗い、歯磨きをする。
鏡を見ると酷くやつれた顔があった。目の下には隈ができていて、頬は痩けている。
髪も乱れているし、服だってヨレヨレだ。
こんな姿を見られたら、きっと怒られてしまうだろう。
ちゃんと、身嗜みを整えておかないと。
アルカディアは寝室に駆け込みクローゼットを開いた。
そこにあるのはクラウディオの衣服ばかりで、自分の物は殆ど無い。
だから、今日は彼が使っているワイシャツを借りる事にした。
袖を通すと、ほんの少し大きい。けれど、気にしない事にした。ズボンも履いて、自分の上着を羽織って、完璧に着替え終える。
それから、アルカディアは玄関に向かい、ドアを開けて外へ出た。
太陽の光が眩しい。外はこんなにも明るかったのか。
久しく外に出ていなかったから、忘れてしまっていた。
クラウディオの会社はどこだっけ。アルカディアは記憶を辿り、歩き出した。
足元が覚束無い。けれど、なんとか転ばないように気を付けなければ。
陽の光が強くて頭が痛い。アルカディアは額を押さえた。
「……くら、でぃお」
愛しい人の名前を呼ぶ。
すると、何故だか心が落ち着く。
そうだ、彼に会えば元気になれるはず。
だから、頑張ろう。
アルカディアは懸命に足を動かし、目的地を目指した。
だがいくら歩こうと、彼の会社には辿り着けなかった。
途中で道に迷ってしまったのだ。
おかしいな、と首を傾げる。
「…くらでぃお」
名前を呼んでも返事が無い。
ここがどこかわからない。周りも知らない人ばかり。どうしよう。
不安が押し寄せてくる。
アルカディアは街中にぽつりと立ち尽くしてしまった。頭が痛い。体が怠い。視界が霞む。呼吸が浅くなっていく。
「(くらでぃお)」
助けて欲しかった。
ここに居ない彼を求めて、その名を呼び続ける。
すると、背後から誰かの声が聞こえたような気がした。
「お兄さ〜ん」
振り返ると、3人の若い男たちがこちらに向かって歩いてくる。
「ねぇ、お兄さん一人?」
「暇なら俺らと遊ぼうよ〜」
彼らは馴れ馴れしく話しかけてきた。
アルカディアは眉を寄せる。
何なのだ、この人たちは。どうして自分に声をかけるのだろうか。
「……だれ…」
「お兄さん綺麗だね〜、一緒に楽しいことしようよ」
男の1人がアルカディアの腕を掴んだ。
その瞬間、全身を悪寒が駆け巡る。
アルカディアは咄嵯に手を振り払った。
「やっ…」
「遠慮しなくていいからさぁ」
「ほら、行こうぜ!」
「……っ!」
強引に腕を引っ張られ、引き摺られるように連れて行かれる。
アルカディアは恐怖を覚えた。
怖い。嫌だ。離して。
抵抗するも、今のアルカディアでは男の力には敵わない。
そのまま路地裏に引きずり込まれてしまった。
薄暗く誰も通らないような場所。
「お兄さん細いね〜、力入れたら折れちゃいそう」
「隈も出来てんじゃん。眠れないの?可哀想に」
男達はヘラヘラと笑っている。
そして、アルカディアの顎を掴むと無理矢理視線を合わせようとする。
「お兄さんの目、すげぇ綺麗」
「マジで人形みたいだね〜」
「……」
「黙っちゃった。可愛い」
気味の悪い笑顔を浮かべる彼らを見て、アルカディアは怯えていた。
嫌だ。触るな。気持ち悪い。
アルカディアは必死に抵抗を試みるが、全く意味は無い。
「…やめて……」
「やめませーん」
「お兄さんの事、可愛がってあげるよ」
「俺たちと仲良くしよっか」
「……やだ…」
がくん、と力が抜けてアルカディアはその場に座り込んでしまった。片腕は掴まれたままで、もう力も入らなくて、逃げられない。
今までの自分なら、簡単に捻り殺せそうな相手なのに、今は振り払う事さえ出来なかった。
「可愛いなぁ、本当に女の子みてえ」
「やべぇ、興奮してきたわ」
「やだ……」
弱々しい声しか出ない。
アルカディアは必死になって首を横に振ったが、無駄だった。ぽろぽろ涙を流す姿すら愛らしいと言われてしまう。
男の1人がアルカディアの耳元に唇を寄せて囁いた。
「大丈夫だよ、優しくするから」
「ひっ……」
首筋に生暖かい吐息がかかる。
嫌悪感で背筋が凍り付くようだった。
「くら…でぃお…」
助けを求めるように名前を呼んだ。
しかし、彼はここにはいない。
きっと、まだ帰ってこないだろう。
分かっている。理解している。
でも、それでも。
「くらでぃおぉ…」
泣きじゃくりながら、彼の名前を呼ぶ。
けれど、当然のように返事は無かった。
「誰?彼氏?」
「泣いてんの可愛い〜まじ好みだわ」
「お兄さん、名前はなんて言うのかな」
男が問い掛けてくる。
答えたくない。答えるのが恐い。
アルカディアは震えながら口を閉ざした。
「教えてくれないと酷い目に遭わせるけど、良いの?」
「…………っ、」
びく、と体を揺らした。
何をされるのだろう。想像もしたくなかった。
涙で濡れる頬を撫でられる。
「ほら、言ってごらん」
「……あ……う……」
「言えないの?」
「お兄さんが素直になるまで、もっと意地悪しちゃおうか」
男たちは愉快そうに笑う。
どうすれば解放してくれるのだろう。
わからない。何も考えられない。
アルカディアは体を小さく丸めて膝に顔を埋める。そんな様子を、男たちは楽しげに見下ろした。
「お兄さん、恥ずかしいの?はは、そういう所も可愛いね」
「…やだ…」
「ねぇ、こっち向いてよ」
「……」
「無視しないで」
「…あぅ…っ」
髪を引っ張られて、無理矢理顔を上げられる。
痛くて苦しい。
また、ぽろりと大粒の雫が零れた。
「泣かないでよ、虐めたくなるでしょ」
「ほら、お兄さんが素直になるだけで良いんだよ」
「ちゃんと言わないとお仕置きしちゃうぞ〜」
「──ッ」
グイッと胸ぐらを掴み上げられて、壁に押し付けられる。
何本もの腕が伸びてきて、服の中に入ってくる。肌に直接触れられて、鳥肌が立った。
怖い。止めてほしくて、アルカディアは咄嗟に自分の名前を口にしていた。
「ぁ、ある…かでぃあっ…」
名乗った瞬間、ぴたりと男たちの動きが止まった。
男たちは嬉しそうににんまりと笑う。
「お兄さんアルカディアって言うんだ」
「可愛い名前だねぇ」
「アルカディアちゃん、よろしくね」
「っ……」
アルカディアは恐怖を覚えていた。
男たちの手が自分の体に触れている。それがとても不快で、気持ち悪くて仕方がない。
早くこの場から逃げ出したかった。
だが、それは叶わない。
男たちが許してくれない限り、アルカディアはずっとこのままだ。
怖い。助けて欲しい。誰か、誰でもいいから。
「……くらでぃおっ…」
もう一度彼の名を口にすると、男達は更に機嫌を良くして笑みを深めた。
「彼氏のこと大好きなんだね」
「妬けちゃうなぁ」
男達の手が、どんどんと下へ伸びていく。
アルカディアの体が小刻みに震え出した。
「彼氏のところ帰れるかな〜?」
「いっぱい可愛がってあげるからね」
「やだぁ……」
アルカディアは弱々しく抵抗するが、男達は全く気にしていないようだ。
彼らは好き勝手に手を動かし始める。
ぞわぞわと体を悪寒が駆け抜けた。
「彼氏とするみたいに、気持ちよくしてあげようか」
「やぁ……」
「大丈夫、俺たち上手いから」
「アルカディアちゃんのこと、とっても満足させてあげるよ」
「ん、ぐ…っ」
無理矢理口の中に指を入れられ、舌を引っ張られた。
気持ち悪い。吐き気がする。
「噛まないでね〜」
「ふ…ぅ……」
「そうそう、良い子だね」
喉の奥まで突っ込まれ、苦しさに涙が滲む。
吐きたくて堪らないが、吐くわけにはいかない。吐いたらきっと、もっと酷い事をされてしまうだろう。
「やば、シコっちゃお」
「俺も〜」
男たちはズボンの前を開けると、自身を取り出して扱いていた。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
嫌悪感で頭がおかしくなりそうだ。
上顎の弱い部分を擦られると、ビク、とアルカディアの肩が小さく跳ね上がる。
「ここが良いの?」
「ん……んぐ…」
「可愛いなぁ」
口の中で男の指が好き勝手に動き回る。歯列をなぞったり、頬の内側を撫でたり、舌を押し潰したり。
息が出来なくて苦しい。
アルカディアの目尻から涙が流れ落ちた。
「んぅ、ん…んっ」
ぐりぐりと舌を弄られる。
上手く息が出来ないせいで、頭もぼんやりしてきた。
意識が飛びそうになった時、ようやく解放される。
アルカディアは咳込みながらその場に倒れ込んだ。
息を整えながら、必死になって酸素を取り込もうとする。
しかし、それも束の間だった。
髪を掴まれて強引に顔を上げさせられる。そして、目の前に汚らしい肉棒を突き付けられた。
「はい、お口あーん」
「…ゃ…」
「開けないと痛いよ?」
「……っ」
嫌だ。絶対に口にしたくない。
けれど、言う通りにしなければ何をされるか分からない。
アルカディアはぎゅっと目を瞑ると、恐る恐るその小さい口をゆっくり開いていく。
「そうそう、良い子だねぇ」
「はは、可愛い〜」
男の1人がアルカディアの口内に自身をねじ込もうとした時。
道路側にいた男の肩にぽん、と両手が置かれた。
「随分楽しそうだな?」
「──ッ!?うおっ!?」
音も気配もなく背後に現れた人物に、男は飛び上がって肩に置かれた手を払い除けた。
「誰だッ!」
アルカディアはハッとして顔を上げる。
この声。間違えるはずがない。だって、何度も名前を呼んでいたのだから。
「くら、でぃお……」
ぽつりと小さく呟いたアルカディアの声に気づいた男はクラウディオを見て嬉しそうな声を上げた。
「あれ彼氏?いかにも金持ってますって感じのスーツ着てるじゃん」
「アルカディアちゃんのこといくらで買ったんすか〜?」
男達はヘラヘラ笑いながら問い掛ける。
もうそんな声は聞こえない。アルカディアは呆然とクラウディオを見上げていた。ばち、と視線が交わる。
彼はいつものように、優しく微笑んでくれた。
「くら…でぃお…」
安心感からか、また涙が溢れてくる。
アルカディアは無意識に地面に手を着いて、這うようにして彼の方へ近寄ろうとした。
だが、それは叶わなかった。
「どこ行くの〜?」
「あぅっ」
髪の毛を引っ張られて、また引き戻されたのだ。
痛い。怖い。
もうやだ。クラウディオと一緒に帰りたい。
「アルカディアちゃんは俺たちと遊ぶんだよ〜」
「やだぁ……!」
「ほらほら暴れないで」
抵抗しても無駄だと分かっていても、足掻かずにはいられなかった。
すると、クラウディオが一歩前に出た。
男たちが反応するより早く、一人の首に手をかける。
「うっ…!」
男の1人が呻き声を上げると同時に、自身の体が燃えるように熱くなっていることに気がついた。熱い。全身が焼けるように痛い。
「え…?な、なんだよ…」
熱い、熱い、熱い。なんだこれ。
痛みに耐えられず、男は床に転がって悶え始める。
他の男たちは何が起こったのか分からず困惑していた。
「ぁ、ああああッッ!!熱い!だ、誰か…誰が来てくれェッ!!!」
必死に叫ぶが誰1人としてこの路地裏にやって来る者はいない。
何故?大通りの近くだ。自分の叫び声は聞こえているはずだ。なのに、どうして誰も助けに来てくれないんだ。
男は混乱しながら助けを求め続けた。
「人避けの結界、なんてものがあるんだよ。知らなかったか?」
「ぇ……あ、あ、うあああああッ!!」
やがて男の全身は燃え上がり、断末魔の悲鳴と共に灰となって消えた。
その様子を見ていた別の男たちは震え上がる。
先程までヘラヘラ笑っていたとは思えないほど怯えていた。
くるりとクラウディオが振り返る。
「……ひっっ!」
その表情を見た瞬間、彼らは思わず逃げ出した。
路地裏の奥へと走り去ろうとする。しかし、見えない壁のようなものに阻まれて逃げられない。
壁にぶつかってもがく彼らは、どんどん近づいて来る死神のような存在に恐怖する。
ゆっくりと歩いて来たクラウディオは、2人の肩にポンと手を置いた。
「た、助けて…」
「お、俺たちまだ何もしてないじゃんかよ!」
「そうだよ!未遂だよ!?」
そんな彼らの言葉をクラウディオは笑って一蹴した。
「何かしようとしたことが、私は気に入らない」
その笑顔は穏やかで優しいものだった。しかし、目は笑っていない。
男たちはガタガタと震えながら涙を流していた。
ぐ、とクラウディオの手に力が入る。
男たちの体内に、魔力を流し込んだのだ。男たちはそれに気づくことなく、怯え続けている。
「無闇矢鱈に他人のものに手を出すとこうなる。いい勉強になったな」
クラウディオは笑いながら手を離した。
何も起きない。助かったのか?
男たちは顔を見合わせ、泣きながら走り去って行った。
呆然と眺めていたアルカディアはふと我に帰ると、慌てて立ち上がろうと腕に力を入れた。
けれど、力が入らなかった。
それどころか、上手く呼吸が出来なくなっている事に気がついてパニックになる。
過呼吸だ。
苦しい。息が出来ない。
どうしよう、苦しい。怖い。苦しい。
このまま死んでしまうのではないかと思うくらい苦しくて、涙が次々と溢れてきた。
「アルカディア」
そっと抱きしめられる感覚があった。
背中を撫でられ、優しく声をかけられると少しずつ落ち着いてくる。
「ゆっくり息を吸って、吐いて。大丈夫だから」
言われた通りに深呼吸を繰り返す。
暫くそうしていると、ようやくまともに息が出来るようになった。
「大丈夫、大丈夫だよ」
「はっ、はっ……」
「遅くなって悪かったな」
「…く、らでぃお……」
アルカディアは安心感から、ぽろぽろと涙を零した。
優しく頭を撫でられると、余計に涙が出てくる。
クラウディオはぼさぼさになっているアルカディアの髪を優しく整えながら、少し困ったように笑った。
「どうして外に?服も着替えて」
「あ、あい…たくて……かいしゃ…いこうとして、」
「うん」
「ちゃん、と…きれいにしないと…だめだって、おもって……でも、場所…わかんなくて……」
「そうか…私に会おうとしてくれたのか。私のために、身だしなみを整えてくれたのか」
クラウディオは愛おしそうな眼差しでアルカディアを見つめる。
そして、頬に伝う涙の跡を指で拭った。
「ありがとう。よく頑張ったな。偉いなアルカディア、良い子だ」
「…ぅ…っく……」
褒められたのが嬉しくて、アルカディアはまたぼろぼろと泣いてしまった。
クラウディオは苦笑いしながら、彼の目元にキスをする。
久しぶりに髪を結んだアルカディアを見た。久しぶりに、赤いコートを着たアルカディアを見た。
それが全て自分のための行動だと思うと、嬉しさで胸がいっぱいになって、思わず強く抱き締めてしまう。
アルカディアは小さく声を上げてから、恐る恐るという様子でクラウディオの背に手を回してきた。
ぎゅう、とシャツが握られている。愛おしい感触だった。
「怖かったな。これからは、一緒に外に出よう。私が守ってやるから」
優しく囁かれる言葉を聞きながら、アルカディアは何度もこくこくと首を縦に振った。
しばらく経ってアルカディアが落ち着いてきた頃、クラウディオはアルカディアの手を引いて立ち上がった。
「まだ歩けそうか?」
「……?う、ん」
「じゃあ、お前が好きだったパン屋にでも寄っていこう」
「……ぱんや」
アルカディアはぼんやりとした表情でオウム返しをした。
どうしてパン屋に?と顔に出ていたのだろう。クラウディオはアルカディアの髪を撫でながら笑った。
「せっかくお前がおめかししてくれたんだ。寄り道させてくれ」
「…!……うん……!」
ぱあっと表情が明るくなったアルカディアを見て、クラウディオは目を細めて微笑む。
路地の前に停めていた車に乗り込み発進させる。5分程度で目的地に着いた。
車を降りて店内に入ると、甘い香りが漂ってくる。
アルカディアはクラウディオに寄り添うようにして歩きながら、きょろきょろと店内を見回している。
次々とトレーに乗せていくアルカディアの姿が楽しそうに見えて、クラウディオは微笑んだ。
「食べられる分だけにしておけよ」
「うんっ」
しばらく吟味して、2人はレジへ向かう。
会計を済ませて外へ出ると、空はオレンジに染まり始めていた。
夕日が眩しい。
陽の光を浴びすぎて、少しくらくらする。
「早く帰ろう」
アルカディアの様子に気が付いたのか、クラウディオは彼の手を引いて車に乗せる。シートベルトをつけてやってから自分も運転席に乗り込むと、すぐに自宅に向かって走らせた。
漸く帰宅だ。
まだ夕方だが今日は一日が長かった気がする。
パンの袋をソファーの前のテーブルに置いて、クラウディオはアルカディアに視線を向けた。
彼はまだぼんやりとしているようだ。
「疲れたか?」
「うん……ぁの、おふろはいってくる…」
あの男たちに触れられた感触が消えない。早く綺麗にしたい。気持ち悪くて仕方がない。
「……ああ、行っておいで」
アルカディアはきっと無意識だろう。先程からずっと細い腕を掻きむしっていたのだ。
爪を立てて皮膚を引っ掻いているので、その真っ白な肌に赤い線が幾つも出来ていた。その光景は、少し痛々しい。
アルカディアはこくんと頷いて、浴室へと向かって行った。
クラウディオはため息をつき、ソファーに腰を下ろして煙草に火をつけた。
ふわりと煙が広がるのを眺めながら、なんとなくテレビを点けた。夕方のニュースが流れる。
『速報です。先程、グレイヴェーラの首都エルメンヒルデで、若い男性二人の体が爆発するという事故が発生しました。付近にいた目撃者によると、突然体が破裂したとのことで、警察は魔法による殺害事件とみて捜査をすすめています。また、男性二人は随分と怯えていた、との証言から二人が何らかの事件に巻き込まれた可能性があるとしています』
ニュースを聞きながら煙を吐き出す。
クラウディオが逃がしてやった、あの男達だ。
彼らの体に魔力を流し込み、時間差で爆発するように仕向けた。アルカディアにはバレないように。
無様に死んでくれたようで何より。
「……可哀想に」
呟いて、自嘲気味に笑う。
何を言っているのか。欠片も思っていないくせに。
彼らが死んだのは自業自得だ。誰のものに手を出したと思ってる。彼らはアルカディアを傷付けた。だから、報いを受けたのだ。
かちゃん、とドアが開く音がして静かにテレビの電源を落とした。
アルカディアがちょこちょこ歩いてきて、クラウディオの隣に座る。
「髪、まだ少し濡れてるぞ」
「乾かすのつかれる…」
「はは、確かに長いからなあ」
アルカディアのふわふわの髪をかき上げるように撫でつける。現れた綺麗な顔に、そっと口づけた。
「……あの…」
「ん?」
「なんで…おれのばしょ…わかったの…」
不思議そうに尋ねるアルカディアに、クラウディオはにっこりと笑みを浮かべた。
頭を撫でていた手を耳に移動させ、きらりと光るピアスに触れる。
「お前にプレゼントしたこれ」
「うん」
「私の魔力が入ってる」
「くらでぃおの…魔力…」
「それを辿れば、例えお前が迷子になっても見つけられる」
耳元でそう囁けば、アルカディアは驚いたように目を見開いた。
それから、嬉しそうな笑顔を見せる。
「じゃあ、どこへでもいけるね…」
「ひやひやするからあまり迷子にはならないでくれよ」
わしゃわしゃとその頭を撫でて、紙袋からパンを取り出して渡してやる。アルカディアは小さなメロンパンを両手で持って、嬉しそうに頬張る。
何か食べてくれたのは久しぶりだった。
今日は色々あったが、外に出たりパン屋に行ったりといい刺激もあったのだろう。アルカディアはいつもより元気そうに見えた。
美味しそうにもごもご口を動かすアルカディアの様子が嬉しくて、彼の細い肩に手を回して引き寄せる。
「…っ」
驚いたのか、アルカディアはびくりと体を震わせ見上げてくる。
「気にせず食べてくれ。私はお前を可愛がってるから」
もう片方の手でアルカディアの頭を撫で回す。アルカディアは戸惑いながらも、再びパンを口に運び始めた。
精神がぐちゃぐちゃになってから、どうしてクラウディオは自分を傍に置いてくれるんだろうと疑問だった。
どうして見捨てないでいてくれるんだろう。どうして優しくしてくれるんだろう。
そんなことばかり考えていた。
けれど、その理由が今分かった。
この人は、自分を愛してくれている。大好きだと全身で表現してくれる。
それが、とても嬉しい。
もっと、好きになって欲しい。
もっともっと、自分だけを見ていて欲しい。
アルカディアはそろそろとクラウディオを見上げた。彼は優しい眼差しを向けてくれている。
「……あの」
「ん?」
「おれ……」
「…うん」
「……くらでぃおがもっとすきだって、おもってくれるように、なりたい…」
「……」
「おれのこと、いっぱいあいしてほしい。ずっと一緒にいたい」
「……」
「くらでぃおが、だいすき」
アルカディアが微笑むと、クラウディオは無言で彼を抱きしめた。
苦しいほどに強く。
「私も同じだ」
掠れた声が聞こえてきて、アルカディアはぎゅうと抱きつく腕に力を入れた。
ああ、幸せだ。
このまま時間が止まればいいのに。
いつまでも、こうしていられたらいいのに。
アルカディアは目を閉じて、クラウディオの温もりを感じながら微笑んでいた。