Goodbye, decent me



「アルカディアちゃ〜ん」

「彼氏のところ帰れるかな〜?」

「いっぱい可愛がってあげるからね」

男たちの笑い声。無数の手が体に伸びてくる。
必死に抵抗しても体には力が入らなくて、されるがままになってしまう。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

「はい、お口あーん」

「開けないと痛いよ?」

体を這う手が増える。服の中にまで入ってきては好き勝手暴れまわる。
やめて。触らないで。嫌だ。助けて。
誰か……!



「​​──ッッ!」

ばちっとアルカディアの瞼が開いた。荒く息をして胸を抑える。全身汗びっしょりだった。

「(夢……)」

ゆっくりと起き上がって隣を見るといつも通りクラウディオはもう居なかった。
まただ。最近同じ悪夢ばかり見る。
先日、知らない男達に襲われてからずっとこうなのだ。
クラウディオが隣にいると悪夢なんて見ないのに。彼が仕事に行った後、ベッドに一人になると必ずこの悪夢を見るのだ。
今日もそうだった。
気持ち悪い。思い出すだけで吐き気がする。
アルカディアは無意識のうちにがりがり爪を立てて自分の腕を引っ掻いていた。あの男達に触れられた腕が、体が、全てが穢されたような気分になる。
汚くて醜い。自分という存在そのものが汚れてしまったように感じる。
ぐらぐらと視界が揺れた。呼吸の仕方を忘れてしまうほど苦しい。
どうしようもない恐怖心に襲われる。自分が自分で無くなってしまうような感覚。
​​──大丈夫。俺は大丈夫。
自分に言い聞かせるように何度も繰り返す。
しかし、体は言うことを聞かない。震えは止まらず涙が出てくる。怖い。

「くす、り…」

サイドテーブルに置かれた薬に手を伸ばす。カプセルに入った白い錠剤をいくつも手に取ると水なしで飲み込んだ。
これでいい。これで自分は正常に戻るはずだ。
なのに何故だろう?全く落ち着く気配がない。むしろどんどん酷くなっているような気さえした。
頭が割れそうなくらい痛み出す。喉の奥が焼け付くようだ。

「ふ、ぅ…は…ッ」

息が上手くできない。苦しい。
怖い。辛い。

「く、ら…でぃお…」

助けて欲しい。今すぐ会いたい。会えばきっと彼は優しく抱きしめてくれるはず。
早く帰って来てほしい。そしたらこんな悪夢だって忘れられるのに。

​​──アルカディアちゃ〜ん

「……っ」

どこかから聞こえてくる男の声。その声を聞いた瞬間、ぞわりとしたものが背中を駆け抜けた。
耳鳴りが激しくなる。ガンガンと頭の中で何かが鳴っているみたいだ。
ぼろぼろ涙を流しながらアルカディアは耳を塞いだ。

​​──可愛がってあげるよ

「ゃ…やめ、て」

──大丈夫だよ、優しくするから

やめて。お願いだからもう何もしないで。
男の手が伸びてくる。いつの間にか周りには何人もの男達がいて逃げ場などどこにもなかった。

──そうそう、良い子だね

男達はニヤニヤしながらこちらを見つめてくる。
やめて、やめて、やめて、触らないで、気持ち悪い。

「……はっ、ぁ、う、」

呼吸ができない。
アルカディアはパニックになってベッドから転がり落ちた。
それでもまだ苦しさはなくならない。寧ろ悪化している気すらする。

──どこ行くの〜?

ずりずりと後ずさる。
男達の視線から少しでも逃れたかった。
しかし、すぐに壁にぶつかる。これ以上逃げる場所はない。

「ゃだ…やだ…やだ……っ!」

アルカディアはそのまま寝室を飛び出した。
後ろからは複数の足音が聞こえる。追ってくるのだ。
嫌だ。怖い。助けて。

「くらでぃお……っ!」



今日は早く帰ってくることが出来た。
あの事があってから、アルカディアのことがさらに心配になってしまった。仕事中も気が気じゃなくて集中出来なかった程だ。
玄関を開けて寝室を覗いてみるが、そこにアルカディアの姿はなかった。
今日は起きているのかもしれない、そう思ってリビングへ向かうがやはりいない。

「……アルカディア?」

何処へ行ったのだろうか。
家を出た形跡は無い。
洗面所に居たりするだろうかと踵を返そうとした所で、部屋の奥から小さな嗚咽が聞こえてきた。
急いで声のする方へと向かうと、アルカディアはクラウディオの仕事机の下で小さく縮こまっていた。

「アルカディア」

椅子を退かしてみると、彼は震えながら泣いている。
様子がおかしい。
尋常じゃない怯え方に不安になる。

「…アルカディア、どうした?」

腕を伸ばしてみると、アルカディアは恐る恐る顔を上げた。
瞳孔が開ききっていて焦点が合っていない。
口元に手を当てて嗚咽を抑えようとしているが、それも無駄な努力に終わっている。

「……く、…く…ら…でぃお?」

「あぁ、私だ」

「…くら、でぃお……っ」

アルカディアは伸ばされたクラウディオの手をぎゅっと握った。
まるで迷子の子供が親を見つけた時のような反応だ。

「大丈夫だ、私はここに居る」

「っ、ふ、ぇ…っ、えっ、」

「ゆっくり息をしろ、大丈夫、大丈夫」

「ひっ、ぅ…っ、ふ、ぅ、」

「大丈夫だ、ほら、もう怖くない」

ぐっと腕を引いて自分の胸に抱き寄せると、アルカディアは安心したようにさらに泣き出した。
クラウディオは子供をあやす様に彼の背をさすってやる。

「何があった?」

「こわ、い、」

「…………」

「きもちわるい、よぉ…っ」

「…大丈夫、もう居ない」

襲われた時の夢を見たのか。
そう理解するのに時間はかからなかった。

「おい、かけ、てくる…」

「私が追い払おう」

「さわ、て…くる……」

「大丈夫だ」

アルカディアはカタカタと体を震わせながら必死に言葉を発しようとする。
呼吸が乱れているせいで上手く話せないらしい。

「やだ、…やだぁ…っ」

「分かった、もう何も言わなくていい」

「やだ、やだ…やだ……ッ」

「大丈夫だ、もう大丈夫」

「やだ、やだ、くらでぃお…やだ…っ」

「大丈夫、大丈夫」

壊れた機械のように同じ言葉を繰り返すアルカディアを、強く抱きしめて落ち着かせる。
大丈夫、大丈夫、そう何度も言い聞かせた。

「ここには私しか居ないよ」

「っ……」

「お前を傷つけるものは何も無い」

「……」

「怖いものは全部忘れるといい」

耳元で囁きながら頭を撫でていると、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。震えも収まってきたようだ。
そのまましばらく抱きしめ続けていると、アルカディアはゆっくりと身じろいだ。
顔を覗き込むと涙の跡が残っているものの、先ほどよりはだいぶマシになっている。

「落ち着いてきたな」

「ん……」

「ソファーに行こう。私の首に掴まっていろ」

子供のようにアルカディアを抱き上げて立ち上がると、彼は素直にクラウディオの首に腕を回してきた。
その事に少しだけ安堵する。
彼を抱えたまま向かい合うようにソファーに座ると、アルカディアはテーブルに置いてあった薬の瓶に手を伸ばす。

「……くすり…」

白い手のひらにざらざらとカプセルを出していく。その量は、正気とは言えない。
クラウディオはつい、その細い腕を掴んでしまった。
アルカディアはびくりと肩を揺らしてこちらを見る。

「…そんなに、たくさん飲むのか?」

「……」

「1日3錠だっただろう?」

彼は何も答えず、ただじっとこちらを見つめてくるだけだ。ゆらゆらと赤い瞳が揺れている。
アルカディアは何かを言いかけて口を閉じた。そしてまた何か言おうとする。

「…ぁ、の……」

「ん?」

「…………っ、」

「どうした?何を言ってもいいぞ」

「ぁ…ぁの……っ」

震える唇からやっと出た声は酷く掠れていた。
それでも懸命に伝えようとする姿はいじらしくて愛おしい。

「ぁ、の…っ、……ぁの…っ、く……らでぃお…っ」

「うん」

「あの……っ、ごめ、なさ……っ」

「謝る必要は無い」

「ちが…っ、そ……じゃなく、て…っ」

「ゆっくりで良い」

「あの…あの……っ、おれ……っ」

「大丈夫だよ」

「ぇ……と…っ、」

アルカディアは震える指先でクラウディオのシャツを握りしめた。再びぽたぽたと大粒の涙が零れる。

「これ…っ、…ぃじょ……だめ……?」

「駄目だ」

「な、なん…で……?」

「飲みすぎだ。これ以上は体に良くない。今でも充分副作用が出ているんだろう?」

「でも……っ、」

「心配なんだ」

「……っ」

「お前が辛い思いをするのは見たくない」

そう言うと、アルカディアはぎゅっと目を瞑った。
それからすぐに目を開けて、小さく口を開く。
しかし、そこからは声が出ない。
クラウディオは彼が握りしめている薬を3錠だけ残して残りを優しく奪い取った。

「3つまでだ。それ以上は許さない」

「……」

「約束できるか?」

小さく震える手を握ってそう聞くと、アルカディアはこくりと小さく頷いた。それを見て安心したクラウディオは、彼の頬に残る涙の跡を拭ってやる。

「いい子だ」

「……くらでぃお」

「ん?」

「ぎゅ、して」

「あぁ」

アルカディアは甘えるようにクラウディオの腕の中に潜り込んできた。
ぎゅっと背中に手を回してきて、胸に顔を埋めている。
そのままの状態でしばらく抱きしめ合っていると、段々と体の力が抜けてきたようで、呼吸も安定してきた。
アルカディアは小さな声で呟く。
それはクラウディオに向けたものではなく、独り言のような声色だった。
きっと、無意識のうちに言葉を発してしまっているのだろう。
彼は自分の言葉には気付いていないようだった。

「……く、らでぃお」

「あぁ」

「く、らでぃお……」

「ここに居るよ」

「……くらでぃお」

「私は此処にいる」

「……ぅ、ん」

「大丈夫だから」

「ぅん……」

アルカディアは何度も何度も名前を呼んだ。
まるで存在を確かめるように。
その度に返事をしてやると、次第に落ち着きを取り戻していった。
よろよろと体を起こしたアルカディアは、握りしめていた薬をゆっくりとした動作で口に含む。
水の入ったグラスを差し出すと、彼はそれを受け取ってこくこくと飲み干した。
薬を飲み終えたアルカディアは再びクラウディオに抱きつく。

「食欲は?」

「…あん、まり…ない」

「無いか。私の分を作ってきてもいいか?」

「……うん」

アルカディアは素直にクラウディオから離れるが、彼は不安そうな表情を浮かべてこちらを見上げていた。

「一緒に来るか?」

「……う、ん」

「よし、おいで」

ソファーから立ち上がったクラウディオは、アルカディアの手を引いてキッチンへと向かう。
冷蔵庫の中を確認してから料理を始めた。
アルカディアはその間ずっとクラウディオの傍を離れようとしなかった。
時折、思い出したかのように名前を呼んでくるのでその度に応えてやる。
比較的すぐに出来るパスタを作り終えて、皿に盛り付けていく。
アルカディアはぼんやりとした様子でその様子を眺めていた。薬が効いてきているのかもしれない。

「おいで」

アルカディアの手を引いてソファーに戻る。ほんの少量をフォークに巻いてアルカディアの口元に差し出した。

「ほら、口開けろ」

「…ん」

アルカディアは素直に小さく口を開けた。そこにそっとパスタを入れてやる。

「美味いか?」

もぐもぐと咀噛しながら首を縦に振る彼を見て、思わず笑みがこぼれた。たまにアルカディアに分け与えてやりながら、二人で食事をする。

「ああそうだ、アルカディア」

ゆるゆると顔を上げたアルカディアはゆっくりと瞬きをしている。眠たいのだろう。

「明日休みなんだ。どこか行くか?」

「………」

「アルカディア?」

一応こちらを見ているものの、アルカディアは殆ど反応を示さなかった。薬がだいぶ効いているようだ。もうほとんど意識が無いらしい。
このまま寝かせてあげようと思い、食べ終わった食器を持って立ち上がると服の裾を引っ張られた。

「……はち、みつ…」

「…うん?」

「……あと、いちご、の…」

ふわふわと微睡むような声音でアルカディアは何か言っている。ぼんやりとしているのか、呂律が回っていない。
もうほとんど眠っているようだし、寝言のようなものだろう。

「…ねこが……いる……お花畑……」

「うん」

くすりと笑ってアルカディアの支離滅裂な寝言に耳を傾ける。寝言を言うなんて珍しい。

「みけの…しろ、くろ……三毛猫が……たくさん……」

「そうか」

何の夢を見ているんだろう。
猫の話をしているのだから幸せな夢に違いない。

「(可愛い)」

座ったまま寝てしまったアルカディアの体をソファーに横たえて、ブランケットをかけてやる。
その間に皿を洗ってしまおうと、クラウディオはキッチンへ向かった。



ゆっくりとアルカディアの瞼が開かれる。ぼーっと天井を眺めて、ここが寝室だと理解した。
いつ寝たのだろうか。記憶が曖昧だ。

「………」

もぞりと起き上がり、隣を見るもやはりそこにクラウディオは居なかった。今日も仕事なのだろう。

「(ゆめ…みなかった…)」

随分と穏やかに眠れたような気がする。まだ少し頭が痛かったけれど、気分は悪くない。
ゆったりとした動作でベッドから降りてリビングに向かうと、アルカディアは目を丸くした。
キッチンに立つ、大好きな背中を見つけたからだ。

「……くら、でぃお……?」

掠れた声でそう呼ぶと、クラウディオは振り向いた。そしてアルカディアを見て目を細める。

「おはよう」

「お、はよ…」

「体は大丈夫か?」

「ぅん……」

「良かった」

そう言って微笑んだクラウディオを見て、アルカディアはぽかんとする。
戸惑っているらしいアルカディアを見て、クラウディオは苦笑いをした。

「やっぱり昨日聞こえてなかったな。今日休みなんだ。どこか出かけるか?」

「ぇ…?お、やすみなの……?」

「あぁ」

「ほんとに…?」

「本当だよ」

ぱっとアルカディアの雰囲気が変わった。
嬉しさを隠しきれないといった様子で、瞳には輝きが増している。

「今日は何がしたい?」

優しく問いかけると、アルカディアはじっと見つめてきた。それからクラウディオの首筋に手を伸ばして、ぺたりとくっつく。
すりっと頬擦りをして、甘えるように見上げてくるアルカディアを見て、胸が締め付けられた。
こんなにも愛おしい。守りたいと強く思う。

「いっしょに、いれるだけで…いい…」

幸せそうな表情でそんなことを言うものだから、つい抱き寄せてしまう。
アルカディアは抵抗せずにすっぽりと腕の中に収まった。

「じゃあずっと一緒に居よう。天気もいいし、散歩でもするか」

「うん……」

「食欲は?」

「ちょっと…ある」

「なら朝食にしよう」

こくりと頷いたアルカディアだが、ぎゅっと抱きついて離れようとしない。
どうやら甘えたモードに入っているようだ。

「顔洗っておいで」

「……ん」

「待ってるから」

「うん」

名残惜しげに離れたアルカディアは、とことこ歩いて洗面所へと向かった。その足取りはいつもより軽い。今日は少し体調も良さそうだ。その後ろ姿を見送ったクラウディオは、朝食の準備に取り掛かった。
アルカディアの好きなヨーグルトにフルーツを添えて、コーヒーと一緒にテーブルへ運ぶ。
ちょうどいいタイミングで戻ってきたアルカディアは少し嬉しそうだ。
ゆっくりと食べ進めているアルカディアは、ちまちまとスプーンを口に運んでいる。
その様子が小動物のように見えて可愛らしい。
食事を終え、クラウディオはアルカディアの手を引いて、ソファーに腰掛けた。
真っ赤な長い髪をブラシで丁寧にとかしてやる。ふわふわと癖のある髪に艶が出てきた。

「結ぶか?」

「ん……」

高い位置でポニーテールにしてやれば完成だ。散歩に行くだけだが、きちんと身だしなみを整えてやるのもいい刺激になるかもしれない。

「服はどうする?着替えるか?」

「う、ん…」

二人で寝室に移動し、適当に見繕ってやる。最後にカーディガンを着せて、準備完了だ。

「できたぞ」

「ありがと…」

ふわりと微笑んだアルカディアを見て、クラウディオは思わず頭を撫でた。するとアルカディアは気持ちよさそうに目を細めて手に頭を押しつけてくる。
本当に猫みたいだ。

「行くか?」

「…ん」

アルカディアはゆっくりと立ち上がった。手を差し出せば、素直に握ってくる。
そのまま玄関に向かい、外に出る。眩しくて目がちかちかする。
外の空気を吸ったことでいくらか意識がはっきりしてきたようだ。

「くら、でぃお…」

「ん?」

「まえの、パン屋さん…いきたい……」

「ああ、そうしよう」

アルカディアの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出す。
雲一つない青空が広がっており、絶好の散歩日和である。少し陽の光が強いが、たまにはこうして外に出るのも良いだろう。



通りに出ると途端に人が多くなった。
車の音や人々の話し声、色んな音が混ざり合って、雑多な空間を作り出している。
アルカディアはクラウディオに寄り添うように少し俯きがちに歩いていた。時折すれ違う人とぶつからないように、繋いだ手を軽く引いて誘導している。

「アルカディア」

「?」

「大丈夫か?」

「……だいじょぶ」

大丈夫と言う割に、アルカディアの体は震えていた。視線は地面に向けられたまま、なかなか上を向こうとしない。

「あははっ!それでさ〜」

すれ違った若い男達の声が耳に入った瞬間、アルカディアはびくりと肩を揺らした。
フラッシュバックするあの声。体が強張って動けなくなる。呼吸が浅くなって、視界が滲んだ。

「アルカディア」

「…っ、ぁ……」

「大丈夫だ。落ち着け。ゆっくり息をしろ」

過呼吸気味になったアルカディアの背中を摩ってやりながら、優しく語りかける。

「少し休もう。ベンチがある」

「…っ、ぅ……」

通りに設置してあるベンチに腰掛ける。アルカディアはカタカタと小さく体を震わせて怯えていた。

「ほら、深呼吸」

「っ……は…は……」

「そうそう上手」

「は、ぅ……」

暫く背中をさすっていると、次第に落ち着いてきたのか、アルカディアは深く息を吐いた。それと同時に体の力が抜けていく。
まだ微かに震えているが、先程までの恐怖心は無くなっているようだ。
それを確認したクラウディオはそっとアルカディアの頭を撫でてやる。

「あれ、社長?」

突然背後から聞こえてきた声で、クラウディオは動きを止める。視線を向けるとそこには、よく知った顔があった。

「ああ、お疲れ様」

クラウディオの会社の女性社員だった。彼女は笑顔で駆け寄ってくる。

「お疲れ様です!お出かけですか?」

「この通りのパン屋までね」

ふと彼女の目がアルカディアを捉える。
クラウディオにもたれかかっているアルカディアを見て、女性は首を傾げた。

「その子確か、社長が一度会社に連れてきてくれましたよね。古いお知り合いっていう」

「ああ、覚えていてくれたのか」

「そりゃ忘れませんよこんな綺麗な子!…ちょっと顔色良くないですけど大丈夫ですか?」

「…病気がちでね。少し人や外が怖いみたいなんだ」

縮こまるようにして座っているアルカディアの頭を撫でてやる。
安心させるように微笑みかければ、僅かに表情が緩むのが分かった。
しかしそれでも不安なのか、ぎゅっとクラウディオの腕にしがみついてくる。そんな様子が可愛くて、クラウディオは思わず笑ってしまった。

「…そうなんですか…。あの…少しだけお話しても平気でしょうか」

「構わないよ」

「ありがとうございます!」

女性はアルカディアの前にしゃがみこみ、目線を合わせた。
なるべくアルカディアを怖がらせないように、優しく話しかける。

「こんにちは。私ね、アルカディアくんが羨ましいんだ」

「……?」

「だって社長のこと独り占めできるんでしょう?いいなー」

無邪気に笑う彼女を見て、アルカディアは少し緊張が解けたようだ。
こてんと首を傾けて、不思議そうに女性のことを見つめている。

「社長にたくさんわがまま言うんだよ〜。社長はなんでも叶えてくれるからね!」

「…うん」

こくりとアルカディアは素直に返事をした。
警戒心を解いてくれたことが嬉しかったようで、女性は満面の笑みを浮かべている。

「また会社に遊びに来てね。待ってるから。あ、あとこれあげる」

鞄の中から取り出したクッキーを手渡すと、アルカディアはぱちぱちと瞬きをして、受け取った。

「美味しいから食べてみて。社長、ありがとうございました!では失礼します!」

「ああ、ありがとう」

女性は一礼すると、アルカディアに手を振って去って行った。

「良かったな」

「ん……」

貰ったクッキーの袋を眺めているアルカディアの頭を撫でてやる。少しだけだが、人と話すことができた。それだけでも大きな進歩だろう。

「…くらでぃお…」

「ん?」

「こんど…会社、いきたい……」

「ふふ、わかった」

甘えるような声音に思わず頬が緩んだ。
充分休憩できたところで、再び通りを歩き出す。
パン屋の前まで来ると、店内からは焼きたてのパンの良い匂いが漂ってきた。

「好きなものを選べば良い」

「ん…」

アルカディアはじっと考え込むようにパンを見つめていた。 やがて一つを手に取ると、次に二個、三個と続けて取っていく。

「今日の夕飯にしようか」

「うん」

紙袋いっぱいにパンを詰め込んだアルカディアは、満足げに口元を綻ばせていた。
店を出ると、アルカディアはクラウディオの体にもたれかかる。少し疲れたのかもしれない。

「(タクシーで帰るか)」

通りに出てすぐに、運良く空車が停まっていた。運転手に行先を告げると、車はゆっくりと走り出す。
車窓から流れる景色をぼんやりと見ながら、アルカディアは小さく息を吐いた。
その瞳はどこか虚ろで焦点があっていないように見える。

「疲れたか?」

「……すこし」

「眠っていても良いぞ。着いたら起こす」

「…………」

暫く黙り込んでいたアルカディアだったが、やがて静かに寝息を立て始めた。余程疲労していたらしい。
優しく髪を撫でてやると、気持ち良さそうに身を捩った。
それから十数分後、自宅に到着した。
料金を払ってアルカディアを起こしてやる。アルカディアはまだ半分眠っている状態で、ふわふわとした足取りで降車した。
手を引いてリビングのソファーに座らせると、そのままぽすりと倒れ込んでしまった。どうやら限界だったようだ。

「お疲れ様」

すう、と小さな呼吸音が聞こえてくる。
今日はもうこのまま休ませようと思い、寝室から毛布を持ってきてかけてやった。
アルカディアの頭をそっと撫でてやる。
安心しきっているのか、起きる気配はない。
ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。深く煙を吸い込み、吐き出す。紫煙がゆらりと立ち上っていく。
随分体力も少なくなってしまった。もう少し元気になったら定期的に外に出て体を動かすこともした方がいいだろう。そう思いつつ、そっとアルカディアの髪に触れた。
さらさらと指の間を抜ける柔らかな感触を楽しむ。
しかし今日は一度も精神安定剤を飲まなかった。いい傾向かもしれない。外でフラッシュバックしてしまったが、クラウディオがそばに居たからかすぐに落ち着いてくれた。
アルカディアはクラウディオがいなければ生きていけない。そう思うと仄暗い感情が湧き上がってくる。それは優越感だ。
彼が自分に頼り切りになろうと、依存しようと、なんの面倒も感じなかった。むしろもっと自分に依存して欲しいと思っている。
可愛くて可愛くて仕方がないのだ。

「愛しているよ」

眠るアルカディアの顔にかかった前髪をよけて、額にキスを落とした。