クラウディオが漸く、自身の正体についてアルカディアに話したのがつい先月のこと。
──グラン・ヴィダーツ。
この世の死を司ると言われる最悪の魔物。それこそがクラウディオの正体だった。
何十年も前に死に、怨念によって蘇った正真正銘の怪物。長らく人間の振りをしている、おぞましい不死の化け物。
アルカディアと同じ人外の身だとしても、ディスクーシャという神聖なる魔獣と醜い魔物とでは訳が違う。
さすがのアルカディアも、それを聞いてはクラウディオと共にいることを拒絶するかもしれない──そう思わざるを得なかった。
しかし、全てを話した上でも尚、アルカディアは変わらずクラウディオの傍に居た。慕って、愛して、共に居ることを望んだ。
「俺どんなくらでぃおも大好きだよ」
屈託の無い笑顔で、何の躊躇いも無くアルカディアはそんなことを言った。
──どんな姿でも、どんな種族でも、どんな存在でも、貴方が大好き。
「俺ね、ずっとくらでぃおが先に死ぬの怖かった」
クラウディオが化け物であると知って、それでもアルカディアは恐れるどころか喜ぶように受け入れた。
「でももう怖くないね。何千年も一緒に居られる」
だからずっと俺を愛していてね。
そう言って笑うアルカディアに、クラウディオは目を見開いた。
…あぁ、やはりこの子供は壊れていると思った。どれだけ深く溺れさせれば気が済むのか?そして、自分が壊れている自覚は無いのかと。
「──馬鹿だなお前は」
クラウディオは苦笑して、愛おしげに目を細めた。
「こんな化け物を好きになるな」
「もう無理。くらでぃお居ないと駄目になった」
アルカディアは、まるで子供が親に甘えるようにクラウディオに抱きついた。その柔らかい身体を抱き留め、背中を優しく撫でてやる。
…クラウディオはもう、この子供を手放せなくなっていた。
愛しいと感じてしまった時点で手遅れだったのだと思う。
この脆くて、儚げで、純粋で、美しい子供を守りたいと思った。誰にも触れさせたくない、穢されたくないと強く思った。
きっと最初から惹かれていたのだろう。そうでなければ説明がつかないくらい執着している自分が居るのだ。
これでよかった。自分の決断は間違っていなかったと、クラウディオは確信した。
「ねぇ、」
「…ん?」
「くらでぃおの今の姿は、本当の姿じゃないの?」
アルカディアは、じっとクラウディオを見つめて尋ねた。
好奇心に満ちた、キラキラした目だ。
クラウディオは目を細めると、アルカディアの髪を撫でて答えた。
「まぁ…そうだな」
「じゃあ、他の姿があるの?」
「……ああ」
クラウディオは頷いた。アルカディアはそれを聞くと、ぱぁっと顔を輝かせた。
嬉しそうに微笑み、ぐいぐいとクラウディオの手を引く。その目が「早く見たい」と雄弁に語り掛けていた。
クラウディオは、少し迷った。
だがあまりにもきらきらとした目で見られると、断ることが出来ない。
クラウディオは苦笑すると、「分かった」とアルカディアの手を取った。
──それが、良くなかった。
「ねえねえ」
あれから1ヶ月が経ったある日の夜。
夕食後、煙草に火をつけたクラウディオに、アルカディアは声をかけた。
「何だ?」
「くらでぃおの尻尾、触りたい」
途端、クラウディオは深いため息と共に煙を吐き出した。どことなくうんざりとした表情でアルカディアを見やる。
アルカディアはクラウディオの本来の姿とも言える、影に包まれた九本の尻尾を持つ巨大な狐のような姿を、心底気に入ってしまったのだ。何度無理だと言っても諦めず、暇さえあれば「触りたい」「また見せて」と言い寄ってくる。あまりにもしつこいので一度触らせてやったのだが、それ以来ずっと尻尾への執着が晴れないのだ。
「……駄目」
「なんで?」
クラウディオが拒否すればアルカディアは「なんで?なんで?」と詰め寄る。
その目は期待に満ちており、尻尾に触るまで引き下がるつもりは無いことが見て取れる。
「おねがい〜!」
「駄目」
普段クラウディオはずっと人間の姿をしていて、あの姿は数える程しか見たことが無い。尻尾に触れたのも、たったの一度きりだ。
ふわふわでもふもふの、あの感触が忘れられない。
尻尾に顔を埋めたい。
毛並みに沿って撫でたい。
なんならブラッシングもしてみたい。
アルカディアは、あの姿でのクラウディオをすっかり気に入ってしまったのだ。
だって大好きな人にたくさんの尻尾が生えるなんて最高じゃないか。触らせてくれた時の、いつもの人間の姿のまま尻尾だけ生えた姿もかっこよさと可愛さが絶妙にマッチしてて、最高だった。
だからもう一度見たい。
アルカディアはクラウディオに抱きついて、「お願い!」と駄々を捏ねる。
「お前な……」
クラウディオは呆れたようにため息をつくと、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「お願い〜!見たい!触りたい〜!」
「あのな、」
「くらでぃお〜」
「……はぁ……」
見せなければよかった、触らせなければよかった。
クラウディオは心底後悔しながら、しがみついてくるアルカディアを見下ろした。
「くらでぃお」
うるうるとした瞳で上目遣いで見上げては、くいくい、とシャツを引っ張って期待に満ちた眼差しを向けてくる。
その目には「おねだり」の色が見えていて、クラウディオは眉間に皺を寄せた。
……結局、クラウディオは折れた。
アルカディアのおねだりに弱い自覚はある。惚れた弱みというやつだろうか?この目に見つめられると、どうしても甘やかしてしまう。
クラウディオは諦めたようにため息を着く。そして次の瞬間、ゆらりと彼の体から黒い影が滲み出たかと思うと、ぶわりと九本の巨大な尾が現れた。
「わ……」
その美しさに、思わず声が漏れる。
九本もの尻尾が、クラウディオの背後でゆらゆらと揺れる。それぞれ意志を持っているかのように動き回り、時にうねって絡み合い、一つの生き物のように躍動する様は圧巻だった。
アルカディアは目を輝かせて、そっとその尻尾に触れた。
ふわふわ、もふもふ。まるで高級な絨毯のような触り心地に、思わず頬が緩む。
「すごい」
うっとりと呟いて、クラウディオを見上げた。
しかし当のクラウディオはというと、なんとも微妙な表情をしていた。琥珀色をしていた瞳は金色に輝き、瞳孔が縦に細長くなっている。
「満足か?」
「まだ」
ひと房だけ手に取って、優しく撫でてみる。
さらさらとした触り心地に、アルカディアは恍惚とした表情を浮かべた。
この尻尾に包まれて寝たい。ふわふわで、もふもふで、きっと気持ちいいに違いない。
そんなことを考えながら、アルカディアはそっとクラウディオの尾に頰を寄せた。すりすりと頬擦りし、甘えるように身を寄せる。
「…………あ」
しばらくそうしていたが突然がばりと身を起こしたアルカディアに、クラウディオは目を丸くした。
「どうした?」
「ちょっと待ってて!」
アルカディアはばたばたと走ってリビングを出て行った。もう元に戻っていいだろうか、とクラウディオは尾を戻そうとしたが、思い留まる。
…結局、クラウディオは尻尾を出したままアルカディアを待つことにした。
「くらでぃお!」
すぐに戻ってきたアルカディアが、ぱぁっと表情を輝かせた。ソファーまで走って戻ってきたアルカディアは、クラウディオの眼前に手にしたものをずい、と突き出す。
「ブラッシングしたい!」
「……は?」
「ブラッシング!」
その手にあったのは、なんだか高級そうなブラシだった。どうやらわざわざ用意していたらしい。
彼のやる気に満ちた目に嫌な予感がしてぞわ、と尾を揺らめかせる。
「やらせて!」
「嫌だ」
「なんで!」
「勘弁してくれ」
「大丈夫!」
「私が大丈夫じゃない」
「大丈夫!」
アルカディアは無理矢理クラウディオの手を引いて、ソファーに押し倒すように寝転ばせた。そしてその上に跨ると、さっそくブラシを持ち直して構える。
「大人しくしててね!」
「……本気か?」
「本気」
アルカディアは真剣な眼差しでクラウディオを見つめると、ブラシをそっと彼の尾に当てた。ゆっくりと梳くように動かすと、ふわりとした毛が擦れ合ってさりさりとした感触が伝わる。その感覚に、アルカディアは顔を輝かせた。
「きもちいい!」
クラウディオの口から呆れたようなため息が漏れるが、そんなことはお構いなしだ。
ずっと触りたかった、憧れの物体に触れることができてとても嬉しいのだ。にやける表情を抑えられない。そしてそのまま、ブラシを優しく動かし続ける。
「(ふあ……すごい)」
ふさふさとした毛に覆われた九本もの尾は柔らかくしなやかで、まるで上等な絹を撫でているような心地だった。
「んー……♪」
鼻歌交じりに、アルカディアはうっとりとした表情でブラシを動かした。時折ぽんぽんと軽く叩いてやると、それに応えるように尻尾がゆらりと揺れるのも可愛らしい。
「……はぁ」
やがてクラウディオは何度目かになる諦めたようなため息をつくと、大人しくされるがままになった。その体勢のまま、じっと目を瞑っている。
アルカディアはふと彼を見やり、その姿に見蕩れてしまった。
真っ黒の影が、クラウディオの体を包んでいる。ゆらゆらと揺れる影は時折形を変えて、まるで生きているかのように蠢いていた。
ソファーで無防備に寝転んでいる姿はいつもの彼とは余りにも印象が異なる。どこか気だるげで、艶めかしく見えるのは気のせいだろうか?
ただじっとしているだけなのに、何故か目が離せない魅力があった。
まるで一枚の絵画のような美しさがそこにある。
一本ずつゆっくりブラシで梳いてやると、ゆらゆらと尾が揺れる。それがなんだか可愛らしく思えて、アルカディアはくすりと笑みを漏らした。
ブラシを通す度に、きらきらと毛艶が輝いて見える。
アルカディアは夢中でブラシを動かし続けた。九本全てブラッシングするにはかなりの時間を要したが、アルカディアは満足げな顔で手を動かし続けた。
「……あれ」
やがて、アルカディアは何かに気づいたように声を上げて手を止めた。
すぅ、と小さな寝息が聞こえる。どうやら寝てしまったらしい。
「くらでぃお?」
小さく名前を呼んでみるが、返事はない。ぐっすり眠っているようだ。
意外と気持ち良かったのだろうか?それなら大成功だが、まさか寝てしまうとは。
アルカディアは苦笑しながら、クラウディオの頰を指先でつついた。しかし起きる気配は無い。
「(疲れてたのかなぁ?)」
ふわんと尻尾が揺れる。九本もあるので、それぞれの尾がゆらりゆらりと揺れる様子がなんだか面白い。
猫のように尻尾に感情が現れたりするのだろうか。そんなことを考えながら、アルカディアはクラウディオの尻尾を優しく撫でた。
「あ、そうだ」
せっかくこの姿のまま無防備に眠ってくれたのだから、こっそり写真に収めておこう。
中々この姿になってはくれないし、今のうちに撮っておかなければ。テーブルに置いていた端末に手を伸ばし、カメラアプリを立ち上げると、すぐにカシャリとシャッター音が響く。
「ふふ」
上がる口角を隠そうともせず、アルカディアは撮った写真を見返して目を丸くした。
「え、」
自分は確かに、眠るクラウディオを撮ったはずだ。
しかしそこに写っていたのは、誰も居ないただのソファー。
今目の前にクラウディオは居る。写真に写っているソファーに、クラウディオは横になって眠っている。
アルカディアの視界と写真は一緒の画角だ。シャッターを押すまでは、クラウディオの姿はきちんと画面に映っていた。
それなのに、撮った写真には誰も居ない。
確かに写したはずなのに、何故。
混乱しながらもう一度シャッターボタンを押した。しかし、やはりそこには誰も写っていない。
アルカディアは呆然としながら、もう一度写真を見返した。何度確認しても、クラウディオの姿は何処にもない。
「(なんで?どうして?)」
頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
とにかくたくさん撮ってみたが、結果は全て同じだった。彼の姿が何一つ写っていないのだ。
「く、くらでぃお」
慌てて、眠る彼の体を揺すり起こす。
クラウディオは薄く目を開くと、気だるげに目を覚ました。眠そうな目で眉間に皺を寄せ、アルカディアを見上げた。
「……どうした?」
「あの、あのね」
しかし何と言えばいいのだろうか?写真にクラウディオが写らないのだと言えばいいのか?それとも、クラウディオが消えてしまったと言うべきか?ぐるぐると思考が巡る。言葉が出てこない。
「ん?」
「う、うぅ……えっと」
アルカディアはぐるぐると目を回し、言葉にならない声を上げながら縋るように彼の尾に抱きついた。
こっそり写真を撮ろうとしたことを叱られるかもしれないが、今そんなことを気にしている余裕はなかった。
「何、どうした?」
「しゃ、しゃしん…」
「写真?」
「くらでぃおが、写らない…」
アルカディアは泣きそうな顔でそう言うと、震える手で端末を見せた。そこにはソファーだけが写っていて、クラウディオの姿はどこにもない。
それを見たクラウディオはすぐに「ああ」と納得したように呟くと、そのままむくりと体を起こした。アルカディアの背をぽんぽんと優しく叩きながら宥めてやる。
「大丈夫だ」
「……でも、写真に写らないよ?」
「それが普通だ」
「え……」
クラウディオは優しい笑みを浮かべながら、諭すようにゆっくりと言葉を紡ぐ。アルカディアは困惑の表情でクラウディオを見上げた。
「この姿では写真に写らない。これが遮断するんだろうな」
そう言って自身を包む影を人差し指でちょん、とつつく。
「幽霊みたいなものだと思えばいい」
「……そう、なの?」
「ああ」
クラウディオが頷くと、ようやく安心したのかアルカディアは息を吐いた。そしてそのまま、クラウディオにもたれかかるようにしてぐったりと脱力した。余程驚いたのだろう。小さく震えながらじっと動かないでいるその姿に苦笑し、その体を優しく抱き寄せた。背中をぽんぽんと叩いてやると、「うぅ〜」と小さく呻くのが聞こえてくる。
「びっくりした」
「魔物がそんなあっさり写真に写るのもおかしな話だろう」
「んん〜…」
アルカディアはちょっぴりむすっとして、ぎゅっとクラウディオの尻尾を鷲掴む。感触を楽しむようににぎにぎと触れていると、また少し影がゆらりと蠢いた。
「こら」
「いつでも見れるように写真撮りたかったのに」
「それは残念だったな」
クラウディオはくつくつと笑いながら、尻尾でアルカディアの腕をペしりと叩く。
「お詫びに俺が見たい時にこの姿になってよ」
「なんで私が詫びるんだ。盗撮は感心しないぞ」
「堪能したい〜〜」
ぼふんっと音がしそうなほど勢いよく、アルカディアはクラウディオの尻尾に顔を埋めた。そして駄々をこねる子供のようにぐりぐりと顔を押し付ける。
「もっとブラッシングしたい。尻尾布団にして寝たい。匂い嗅ぎたい〜、いっぱい触りたい〜」
「変態」
「そんな尻尾してるくらでぃおが悪い」
ふわふわとその尻尾が頬を撫でてくる。思わず手を伸ばせば、ひらりと尻尾は逃げていく。
追いかけるように手を伸ばすが、何度もするりとすり抜けていってしまう。
くすくすとクラウディオの笑い声が降ってきた。
「んぶ」
枕にしていた尻尾が突然ぱっと消え、アルカディアはソファーに顔から突っ込んだ。がばりと身を起こすと、クラウディオは見慣れた姿に戻っていた。
「あー!戻った!」
「もう満足しただろ」
「まだー!」
ぶーぶーと文句たらたらのアルカディアに、クラウディオは小さく息をつくとぐいっと彼の顎を掴んで引き寄せる。
「こっちの私は嫌いか?」
とびきり甘い笑みで囁けば、アルカディアは途端に顔を赤く染めて固まった。
「き、嫌いじゃない…」
「ん?」
「だ、い…すき」
消え入りそうな声でそう告げると、そのままソファーに倒れ込んだ。
クラウディオは満足げな笑みを浮かべると、その頭を撫でてやった。
「なら良かった」
「うう……」
アルカディアは悔しそうに唸りながら、ソファーの上で丸くなった。
ずるい男だ。
あんな甘い顔で、いい声で、あんな台詞を言われたら、何も言い返せなくなってしまう。
「くらでぃお」
名前を呼び、そっと手を差し伸べる。すると彼は目を細めて微笑み、アルカディアの手をとった。そのまま引き寄せられると、軽いキスが落ちてくる。それだけでぽかぽかと心が満たされるような気持ちになった。
そのままぎゅっと抱きつこうかと思ったが、腕に力を入れる寸前でクラウディオがするりと逃げていったので空振りに終わった。
「……いじわる」
「これは失礼。構って欲しいんだな」
くつくつと笑ったクラウディオはアルカディアの肩を掴んで引き寄せると、まだほんのり赤いその頬や額に口付けを落としていった。
「……ずるい〜」
むくれながらクラウディオを見上げると、彼は嬉しそうに微笑んでいる。
その表情を見てしまうと、アルカディアは何も言えなくなってしまった。
やっぱりずるい男だ、と心の中で呟くことしかできなかった。