目が覚めた瞬間から、なんとなく嫌な予感はしたのだ。視界に入った天井がくるくると模様を変えていて、胃の奥が嫌な感じにざわつく。
また発作か、とため息をつきながらアルカディアは体を起こした。
体がだるい。手足に力が入らない。この感覚は久しぶりだった。
「……くらでぃお〜」
助けを求めようと声を上げながらも、なんとか自力でベッドから降りようとしたのだが、そのまま力が抜けてべしゃりと滑り落ちた。
シーツや布団を巻き込んで床に突っ伏す。
「…もぉ〜」
煩わしさを感じながら体を起こそうとすると、頭の奥でぱちん、と何かが弾けるような音がした。
「…?」
ぱちんぱちん、と軽い音が繰り返される。視界が弾けて、意識にもやがかかってくるような不快感がある。
「ぁ…?ぇ、ぁ?」
なにこれ、と呟いたはずの言葉は声にならずに消えた。口もうまく動かないし、声も出せない。
こんなの知らないぞ、とどこか他人事のように思っていると廊下の方から足音が近づいてきた。
「どうした」
扉が開いて顔を出したのはクラウディオだった。アルカディアが床に転がっているのを見て驚いた顔をする。
「……くぁぃお」
呂律の回らない声で名前を呼ぶと、クラウディオは顔をしかめて駆け寄ってきた。
「…気分悪い?発作か」
優しく抱き起こされてそっと頭を撫でられると、その温かさにほっとする。背中をさする手の動きに合わせて呼吸をすると、少しずつ落ち着いてきた。
「なんか、めが、おかしい」
「目?」
焦点がうまく定まらない。視界に映るものがぼやけているし、色もどこかおかしい気がする。
「ぱちぱち、してる」
「…私のことは見えてるか?」
問われて、目の前の顔をじっと見つめる。ぼやけてはいるが綺麗なローズグレイの髪と琥珀色の瞳。見慣れた美しい顔立ちがそこにあることに安心して、アルカディアはこくりとうなずいた。
「痛い?」
「いたく、ない」
その間もずっとぱちぱちと弾けるような感覚があって、アルカディアはぎゅっと目をつぶった。
視界が暗くなると、それ以外の感覚が鋭くなるような気がする。クラウディオの息遣いや体温を感じるたびに頭がふわふわして、なんだか気持ちいいような気さえした。
アルカディアは無意識のうちに彼の胸に頭を擦り付けて甘えていた。そんなアルカディアの様子を見て、クラウディオは苦笑しながら背中をぽんぽんと叩いてやった。
「立てるか?ベッド戻ろう」
よろよろと体を起こそうとしたが、完全に力が入らない。最早首の座っていない赤子と大差なかった。
「うええ…たてない…」
クラウディオが支えていないと、すぐにぐらりと倒れてしまいそうになる。首だって勝手に上を向いてしまう。
「わかった。抱えるぞ」
「ん」
こくりと小さくうなずいたのを確認して、クラウディオはアルカディアを抱き上げてベッドの上に横たえてやる。
「頭痛とか吐き気は?」
「ない……」
軽い症状の発作にも見えるが、ここまで力が抜けているのはあまり見たことがない。
アルカディアの顔を覗き込むと、真っ赤な瞳がゆらゆらと揺れていた。焦点が合っていない。
「…アルカディア」
名前を呼んでみるが、反応はなかった。ただぼんやりとした目で天井を見つめているだけだ。
「アルカディア」
もう一度名前を呼んでみても、やはり反応はない。つい先程まできちんと受け答えできていたのに、急に黙り込んでしまった。
クラウディオはどうしたものかと考えながら、アルカディアの頬を優しく撫でてやった。
「大丈夫か?」
休むことなくゆらゆらと揺れるアルカディアの瞳を見つめ、その焦点が自分に合うのを待つ。
しかし彼は何も映さない瞳でただぼんやりと天井を見ているだけだ。
「………ぅ」
アルカディアの唇がわずかに動く。何かを言おうとしているのかもしれないが、声にはならなかった。ただ息が漏れただけだ。
意識があるのかどうかも分からない。それでもクラウディオは声をかけ続けた。
優しく頭を撫でてやりながら、彼の名前を呼ぶ。何度も、何度も繰り返し続けるとようやくアルカディアの視線が動いた。
「くぁ、でぃお」
声にも力がなく、弱々しい。しかしクラウディオはほっと胸を撫で下ろした。とりあえず意識はあるようだし、会話はできそうだ。
「どうした?」
そう聞くと彼は少し考える素振りを見せた後で口を開いた。
「……そこ、いる?」
アルカディアはクラウディオが居るであろう場所に手を伸ばした。彼がちゃんと存在しているのかどうか不安になっているらしい。
「居るよ」
安心させるようにその手を握る。
弱い力できゅ、と握られた。
「め、みえない」
ぱちんぱちんとうるさい音だけが頭の中に鳴り響いている。視界が真っ白で何も見えない。
そういえば、この感覚は初めてじゃないな、とぼんやり思った。
「……なんか…」
「うん?」
「なかで、いっぱい、いった時とおんなじ…」
アルカディアの言葉にクラウディオはきょとんとした顔をした。
中で、いっぱい。つまり、腹の中でたくさん絶頂した時と似たような感覚だと言いたいらしい。
クラウディオは困惑しながらも、アルカディアの頭を撫でた。
「めちかちかして、まっしろなってる……いったとき、と、いっしょ」
「…気持ちいいのか?」
「よくない…へんなきぶん」
そう言いながらもアルカディアの表情はどこか恍惚としていた。まるで情事の時のような甘い雰囲気を漂わせている。
「いつもの発作と違うな。大方魔力の不調だろうが…」
「ん…」
甘い吐息が溢れる。アルカディアはもぞもぞと身じろぐと、クラウディオの手に頰を擦り寄せた。
この状態が続くようなら色々調べないと不味いな、などと考えながらもクラウディオはその行為を止めさせようとはしなかった。
甘ったれの彼を見ていることは嫌いではないし、むしろ好ましく思っているほどだ。
「んぅ…」
それにしても、アルカディアの様子の変化が著しい。先程までぐったりしていたのに、今ではまるで酩酊しているかのようだ。
「アルカディア」
「ん、んぅ?」
名前を呼ぶと、彼は嬉しそうに返事をしてこちらを見た。とろんとした瞳は潤んでいて、頰も紅潮している。
辛くはなさそうなので少し安心したが、これはこれで心配だ。
「ん〜、えへへ…」
クラウディオの腕にじゃれついてふにゃふにゃ笑っている。その様子をじっと見つめて、クラウディオは目を細めた。
「お前、自分の魔力に酔ってるな?」
「なにぃ〜?」
自身の魔力に酔うなど聞いた事がない。
他者の魔力が流れ込んで酔ってしまうことはあれど──。
「…………いや、私の魔力か」
昨晩、アルカディアと愛し合ったことを思い出す。中に出して欲しいとねだられて、そのまま中に出したのだ。
その時にクラウディオの魔力が身体に流れ込み、アルカディアが過剰に摂取してしまったと考えるのが妥当だ。
「んふふ、くぁぃお、おれのあたまなでてぇ」
甘えた声を出して自分の頭を指差す。言うことを聞いてやれば嬉しそうに笑った。
今までクラウディオの魔力に酔ってしまったことは何度かあったが、その時のアルカディアはいつにも増して甘えん坊になってしまう。
目が合うたびにおねだりされるし、何をやっても喜んでくれる。
確かに心臓が持たないくらい可愛いのだが、困ったことにその状態のアルカディアは少しだけ、いやかなり面倒臭いのだ。
「もう目は見えるのか?」
「んー、ばっちぐ〜」
「……なんだそれは」
「れいすが言ってた」
確かに先程より焦点ははっきりしているし、会話もできている。しかし、まだどこかぼんやりしているようだし完全には回復していないようだった。
「みえるよ〜くらでぃおかっこい〜、かっこいい」
「……そうか」
「んふふ〜かっこいー!」
嬉しそうに笑いながらクラウディオの腕を引き抱きついてくる。クラウディオは彼に覆い被さる形でその体を抱き留めた。
こちらを見上げたアルカディアとぱちりと視線が合うと嬉しそうに笑う。
「みえてる〜」
そう言いながらぎゅっと抱きついてくるので、頭を撫でてやる。すると気持ち良さそうに目を細めた。
「んふふ、なかよしなかよしー」
無邪気に笑いながらすり寄ってくる姿は正直かなり可愛いが、それを口にすれば調子に乗るだろうから心の中に留めておく。
「そうだな」
代わりに肯定の返事をするとアルカディアは嬉しそうに頬擦りしてきた。どうやら正解だったらしい。
そのまましばらく甘やかしていると、アルカディアはいきなり何かを思い出したかのようにぱっと顔を上げた。
「あ」
「……どうした?」
「おみず、ほしい」
どうやら喉が渇いたらしい。そういえば起きてから水分を摂っていなかったなと思い出し、クラウディオはアルカディアの体を離してベッドから降りた。
「待ってろ」
それだけ言い残してキッチンに向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して寝室へと戻った。
アルカディアはベッドの上でころころ転がっていた。先程まで完全に力が抜けていたが、もうほとんど回復したようだ。
「ほら」
「ありがと〜」
起き上がったアルカディアにボトルを手渡すと嬉しそうに受け取り、ごくごくと喉を鳴らして水を飲み始めた。上下する喉仏を見ながらクラウディオはベッドに腰掛けた。
「げんき100倍くっきーまん」
「………なんだそれは」
「アニメやってる」
相変わらず知らない間にいろんな言葉を覚えてくるものだ。ほとんど余計な言葉だが。
「まぁ、元気になったようで何よりだ」
「げんきげんき〜くらでぃおがいるからおれげんき」
そう言ってへらりと笑う。
まだ少し妙なテンションだが良しとしよう。
「お腹は?」
「すいた」
「じゃあご飯にしようか」
遅めの朝食だが休みの日なら許されるだろう。それにアルカディアが食事をしたがっているのは珍しいから、彼が満足するまで食べさせてやりたいと思うのだ。
「おれはパンをたべます」
「焼く?それともサンドイッチにするか?」
「サンドイッチ焼いて」
「はいはい」
アルカディアは嬉しそうにベッドから降りようとしてそのまま転がり落ちた。べしょりと顔面から落ちて「ぐぇ」と情けない声を上げる。
「大丈夫か?まだ足には力入らないのか」
普通に座ったり水を飲んだりしていたから気付かなかったが、足腰にはまだまだ力が入らないらしい。
伏せったままじたばたしているアルカディアの手を摑み、引っ張り起こしてやる。
立ち上がろうとするが足に力が入らないらしく、困った表情でクラウディオを見上げてきた。
「無理そう?」
「だ…だめかも…」
しゅんと落ち込んだ様子で言うものだから、クラウディオは思わず笑ってしまった。
「…抱っこする?」
「する」
即答されて、クラウディオはまた笑ってしまった。即座に腕の力だけでよじ登って来るのだから、本来のパワーは相変わらずとんでもない。
「なんのサンドイッチにする?」
「ハムとチーズとたまご?」
「わかった。卵はふわふわにしようか」
「やった〜」
ぎゅう、とクラウディオの首に腕を回して密着してくる。まるでコアラの子供のようにしがみついてくるので、落ちないように支えながらリビングへと向かった。
「ソファーに降ろしていいか?」
「うん」
ソファーに座らせてぽんぽんと頭を撫でてからキッチンへ向かう。
アルカディアの要望通りの具材を入れたサンドイッチをこんがり焼き上げ、出来上がったそれを皿に盛り付けて持っていくとアルカディアは目を輝かせた。
「熱いぞ」
「ん、ありがと」
ついでに冷蔵庫から取り出した牛乳も添えてやると、アルカディアは嬉しそうに笑った。
牛乳を美味しそうに飲むアルカディアの隣に座り、サンドイッチを一つ手に取ると彼の前に差し出す。
「んぁ」
さく、と一口齧るとアルカディアはもぐもぐと咀嚼する。そしてすぐに次の一口を要求してきたので、また口に入れてやった。
「うまいか?」
「んまい」
嬉しそうにサンドイッチを頬張る姿を見てクラウディオも自然と笑顔になる。アルカディアの幸せそうな顔を見るのがクラウディオの楽しみの一つなのだ。
「くらでぃおも」
「ん?」
アルカディアは食べかけのサンドイッチをクラウディオの口元に運ぶ。どうやら食べさせてくれるらしい。
クラウディオは小さく口を開けると、そのサンドイッチにぱくりとかぶりついた。
「あぁ、美味いな」
「くらでぃお、おりょうりじょうず」
「ありがとう」
褒められて悪い気はしない。クラウディオはアルカディアの頭をくしゃりと撫でてやった。すると彼は嬉しそうに目を細める。
「もっと食べるか?」
「ん!」
今度は自分で食べ始めたので、クラウディオは残りのサンドイッチを自分の口に運んだ。それをもぐもぐと咀嚼しながらアルカディアの食事風景を眺める。
「(幸せそうな顔して……)」
そんなことを考えていると自然と顔が緩んだ。無意識に手が伸びて、アルカディアの頭をぐいっと抱き寄せる。
そしてその髪に口付けを落とした。
「ん、くらでぃお?」
「……いや、なんでもない」
不思議そうに見上げてくる彼にクラウディオは首を横に振った。アルカディアは特に気にした様子もなく食事を再開する。
「(……我ながら甘いな)」
そんなことを思いながらも止めるつもりはないので、クラウディオはただ黙って彼の頭を撫で続けたのだった。