自宅にある扉の前。突き当りに存在する角部屋。寝室の前だ。随分と慣れた光景である。
だのに彼は人知れず深く呼吸をして、それからドアノブを握る。
動揺を堪えるために、衝動を落ち着かせるために、そして鼓動を平常と化すために行った息の答えは、扉の向こう側に存在していた。
「……♡……ん…♡…く、ぁ…でぃお…?♡」
歩み寄った先。水の入ったコップを置いたサイドテーブルの隣。ひとりに対しては些か大きな寝台の上から、甘ったるい声音が零れ出す。
クラウディオの耳は無論だとでも言うように、それを如実と受け取った。項辺りに這い上がる痺れのような衝動を、彼は唾を飲み込むことで黙らせようとする。
けれどの胸の裡で打ちたたかれる鼓動だけは騙し切れない。
「ぁ…♡くら、でぃお……♡……っ♡♡ん、ぅ…♡…おかえ、り…」
意を決してベッドに目を向ければ、入室したときから注がれていた眼差しと出会う。
寝台にある赤く蕩けた瞳は、クラウディオを映すだけでその色をいっそう深く滲ませる。伴って横たわる身はぴくっ♡と震えて捩り、悩まし気な甘い声音が歓迎の言葉を形作った。その声が喘ぎじみたものだとは、誰が聞いたとて明らかだ。
普段は男性らしく低い声音を持つ彼がこのような声音を紡ぐと知る者はただひとりしかいない。そしてそのひとりであるクラウディオは、この横たわる男が何故自身を目に映すだけで甘やかに喘ぐのか知っていた。その理由に、身に覚えすらあった。
「クラウディオ・ハルトマンが理性を飛ばしてセックスしないと出られない部屋」
そう銘打たれた部屋にクラウディオとアルカディアが押し込まれたのはつい先日のことだ。
目覚めるとふたりでその部屋に寝かされており、どれ程探索をすれどこれといった脱出手段は見当たらなかった。
充てがわれたこの部屋から出ないのならば、その間は風変わりな休日のようなものだ。そういった暫定的な判断のもとひとまず寝て過ごそうと一夜ほどのんびりと過ごし自堕落に眠りについた。
その翌朝、いつの間にかアルカディアの体に媚薬が投与され始めたことによって、穏やかな休日は終わりを迎えた。
クラウディオが腹を括り、室内に予めご丁寧に用意された"理性を飛ばす薬"とやらを飲んで、そこから先の記憶がない…などということはなく、彼はその全てを覚えている。酒に酔えど呑まれぬ質だからか、元よりそういった仕様なのかは不明だが、散々に働いた無体の全てはクラウディオの記憶にしかと存在した。
「ぁ…ぁ……っ♡…♡ん……♡く、ぁ…ぅ……♡♡」
アルカディアがこうなったのは十中八九…否、確実に、その部屋での行為のためだ。長く続いた情交を終えた後、アルカディアはベッドから起き上がれなくなっていた。最初は長いこと眠り続け、そしてやっと目を覚ましたかと思えば甘やかな声を零したのだ。
どうやら幾度も得た雌イキの余韻が残存しているらしい。不定期に甘イキが訪れるのか体は時折ぴくりと震えて悩ましげに身じろぎ、碌に立つことも出来ないでいる。
そして、それはクラウディオを前にするとよりいっそう具合を酷くさせた。目にしただけで眼差しは熱っぽく蕩け、名を呼べば甘やかに身を震わせる。優しく触れれば、堪らなそうな喘ぎが溢れ出た。
煮詰めたような快感の故か、情けなさの故か、ぼたぼたと涙を零して謝り続ける恋人を、イキ過ぎては体が辛いだろうと解っていながら優しく抱きしめ続けたのはクラウディオの記憶に新しい。
その抱擁と同じだ。自分が看病を担えば回復が遅くなるだろうことは、なんとなしに解っている。それでも今のアルカディアを自分以外の誰の目にも映すことは出来ないとクラウディオは判断した。許せないという確信まで抱いたのだ。それ程には、彼もあの部屋に毒されている。
「水、持ってきたぞ」
「ん…っ♡あり、が…と……♡っ…♡ぁ、ぅ……♡」
「飲めそうか」
「……♡♡…ぁ……♡…ん…ん、♡」
「…アルカディア、おいで」
「ぁ…ッ♡♡〜〜っ♡♡ん゛♡んぅ〜〜…っ♡♡」
ベッドの縁に腰掛けて自身の膝を軽く叩きながら言えば、アルカディアはびくん♡と身を震わせた。上半身だけでもと起き上がろうとしていた体躯は呆気なくベッドへと崩れ落ちる。額をシーツにぐりぐりと押し付け、背を震わせて声もなく達する様はどうしようもない己の身を体現しているようだ。
彼が何故達したのか、クラウディオには定かでない。顔を見つめるだけで蕩然とするのだ。要因の判別は困難を極める。それほどに酩酊する様が、なんとも愛らしい。
花の蜜に誘われる鳥のように、水面に映る月に焦がれる魚のように、クラウディオはその身へ手を伸ばす。両脚でベッドの上に乗り上げ、蹲るように丸まるアルカディアの体躯の腹部…丁度シーツと腹部の間にできた隙間に手を差し入れる。
そう、これは看病だ。蹲るままでは水分も摂れないし、彼の様子も把握できない。まずは顔を、その姿を真正面から見なければ。そう、言い訳のように脳が思考をした。
ぐっと持ち上げようとするように…しかし優しく腹部に回した腕に力を込め、空いてる片手で片側の肩を押しやる。甘イキや絶頂を続けて脱力するアルカディアの体躯は上背も相まって相応の重さを持っているはずだが、コツを把握しているのか、それともアルカディアの肉付きが悪いのか、はたまた単にクラウディオが力強いのか、アルカディアの身は容易くころりと仰向けに転がされた。
「……♡……っ♡♡く、ぁ…でぃお……♡♡」
仰臥位とされたアルカディアはうっとりと瞼を開いて、その眼を晒した。そうしてクラウディオは眼前の光景を見る。
愛欲に蕩けきった赤い瞳が自分を、自分だけを映す。未来でも過去でも見えない何かでもなく、ただただ自分だけを映している。あの部屋で愛欲の獣と成り果てながらも記憶と視覚に焼き付けた光景が、今も目の前にある。
「………、アルカディア…」
「…っ♡ぁ……♡っ…ん……♡」
ひどく優しい手つきで頬を撫でれば、身を震わせながらもこの手に擦り寄り、文字通り恍惚と目を細める。
今にも蕩け出しかねない赤い眼を前に…クラウディオはやはり、誘われるようにして甘やかな唇に口づけを落とした。ただ柔い皮膚が触れ合うだけの行為がひどく心地よく、この時が永遠に終わらなければいいと理性もなく願った。