「やってらんねえ」
重苦しい溜息を吐き出し、ぶらりと足を歩かせる。歩行するふたつの脚は引きずるような様で、革靴の踵が足の長い絨毯を蹴っていた。
とある会社の創業記念日。それにちなんだ祝いの席。そんな会場の給仕に宛がわれたひとりが、この男である。
会場の設置や食膳の整理、参加者の案内や、救護が必要になった際の医療設備。大企業のパーティー故にやるべきことは山ほどある。参加者の中には誰もが知る有名企業の社長や貴族の当主まで存在するのだ。その者らにドレスコードを課したとなれば、生半可なバンケットでは許されるはずもない。
陰ながら、雑務係がこの日の準備に追われていた。その中でも日々の仕事は変わらずあるのだから忙しないことこの上ない。
ぴくりとも動かぬ表情筋を重たそうにこさえながら、男は重い足取りを続けていく。
パーティー会場では決して眼にもできない姿だが、今は休憩中で、ここは会場から少し離れた廊下である。パーティー中はいつどんなところであろうとおもてなしの心を忘れずにと、グリーンドレスのメイド長から言い聞かせられているものの、こうも疲弊がたまっていては心もへったくれもあったものではない。心はみな同じなのか、厨房から表情をなくしたまま休憩へと出て行く男を窘める者は誰もいなかった。単に、男がそのような不備を起こす者ではないと存じられていたためやもしれないが。
「ハァ〜…………」
もはやぴくりとも動かないのではないかと危惧すべき口から、足取りと同じく重苦しい息が溢れ出る。もはや声と言って差し支えない嘆息は無音の廊下へ溶け消えていく。ここから廊下を三度曲がり、真っすぐ歩いた末に辿り着く大広間では未だ絢爛たるパーティーが続いているのだろうが、こうも離れてしまえばその喧噪も届かないものだ。
安堵する心地と、休憩が明けるころには再び戻らねばならぬ憂鬱と、どちらも抱え持ったまま男は歩く。
ポケットには煙草とライターがあり、この休憩中はそれをゆっくりと吹かす予定だ。出来れば人気のないところがいい。テラスに続く窓辺はなかったろうか。
疲弊のためぼんやりとする頭で考えながら、男は足を働かせ続ける。
「…にしても」
懐に手を突っ込み、手癖のように煙草の箱を握りながら、男の口から声が零れる。感慨の色を帯びたそれは、瞼の裏に浮かび上がった光景から生じた声音であった。
先程までシャンデリアから光を散々と浴び続けた眼は、薄い皮膚に隠された今もその光源を思い出す。男からすれば忌々しいとすら思える光の様だ。けれども胸裏とは裏腹にその面持ちは柔かった。
それはひとえに、光の中に存在するひとりの男の故であった。
「(あの男、そこらの女優よりお綺麗な顔してたな)」
赤い長髪の男。忌々しい光の中、男の眼差しを捉えたのはたったひとりその男であった。
黒いジャケットに首元を緩めた黒いシャツ。軽く結わえられたリボンタイとネックレスは程よく洒落っ気を醸し出していた。
鮮やかな長い赤色の髪は緩くポニーテールに結ばれており、長めの前髪がその妖しい目元に影を落としていた。
その美貌に男は思わず瞠目としたものだ。それに気づいたのだろう。長い睫毛が瞬いてこちらと目が合うと、「…どうも」とぽつりと呟き浅く会釈をしてくるりと背を向けた。
「………ふー…」
だからといって、どうすることもない。このパーティーが終わればいつも通りの屋敷での日常に戻るのだ。その中でゲストと使用人が密に関わることなど稀であるし、特に男はゲストと関わろうとしない者である。
けれども瞼の裏で思い出すくらいは許されてもいいだろう。男はそうも思う。例えばこれから煙草を吹かすとき、吐き出した煙の中にあの姿を見て、感慨にふけるくらいの気持ちは。
「……ぁ、……ひ…」
彼の耳が音を拾ったのは、そこがあまりにも静かだったためだろうか。それとも漠然と回顧に飛んでいた意識の幾割かが聴覚へと注がれていたのだろうか。
「……っ、ぅ…、…、……ぁ…」
定かでないが、音を拾った。人の声だ。息をつめたような声音で、何かを堪えている。そんな声である。
「……………」
男は最初、聞こえなかったふりをしようと考えた。このまま通り過ぎて、何もなかったことにしようと。
なにせやっとの休憩なのだ。会場の設置から案内、配膳から好みの激しい上流階級相手の謝罪と食事の交換まで、ありとあらゆる気苦労と労働を微笑みを張り付けて行い続けた。そんな最中で与えられた数十分である。大切に大切に過ごしたくてわざわざ足を延ばしたのだ。そんな中でも仕事をするなど考えたくもない。
しかし、男は疲れていたのだろう。意志に反し、彼の足はぴたりと歩くことを止めていた。仕事人間の精神というよりかは、異変に察知した感覚が起こした無意識下の行動だったに違いない。
そのために、男はその声を再び耳にすることとなった。
「……っ…ぁ、…ぅ、ぐ…、…っ!」
喉につっかえるような苦し気な声には、荒々しい息も混じっている。聞こえる声はいよいよ無視することができないまでとなった。
否、誰が吐こうと倒れようと業務時間外だからと無視をしてしまえばいいのだが、男はそうまで不真面目ではなかったのだ。
なにせここでパーティーの参加者のひとりが倒れたとなれば、今日の予定に影響が出る。パーティーの進行に際し弊害は少ないことに越したことはない。
なにより仮に倒れた参加者を放置したことが露見すれば、男は大目玉どころでは済まないだろう。他からの評価を一際気にする社長からの罰則など考えるだけでもおぞましい。
男は己の保身を考えられないほど思考をすり減らしてはいなかったし、愚かでもなかった。
それだから、心底億劫に思いながら声の出どころを探し始めた。
「……ッ、ぁ……、ひ、ぃ゛…っ…ぁ……」
窓辺を探していた目線を屋内へ、意識を廊下の方面へと傾ける。耳を傍立てながら声のよく聞こえる方へと足を向ける。
苦しげな声は、どうやら随分奥まった箇所から聞こえるらしい。扉の向こうではなく、もう少し先に進んで脇道をそれた箇所だ。行き止まりになっており、とりいって主要な部屋もない場所である。
誰かに気遣って隠れたのだろうか。だとしたらいい迷惑だ。早々に係員に申しつけさえしてくれれば、なんとでも対応するというのに。
「(めんどくせえ)」
行き止まりの廊下に差し当る一歩手前まで来たとき。男は重い溜息を今一度つきながら、まず肩をぐるりと回した。体調不調者であるなら早々に駆け寄るべきなのだが、今はそんな焦燥感が持てなかった。
休憩中に業務対応をするのだ。これくらいの嘆きは許して欲しい。
そう思いながら、腹を決めて曲がり角を覗き込んだ。
そして、男の目が丸みを帯びる。
「ん、ぅ゛♡…っ♡ぁ、ぁ…♡……〜〜っ♡♡ふ…っ、ぅ……♡…ぁ゛♡♡」
行き止まりとなった通路の突き当り。照明すら碌に灯されていない薄暗がりから甘ったるい声が漏れ出している。
少しばかりくぐもった声音には羞恥が滲んでいるものの、所々抑えきれていない媚声には悦びと快楽がありありと滲んでいる。
「っ……ぁ゛♡っ♡ひ、ぅ♡…♡〜〜っ♡♡く、ぁ゛…ぃお…♡」
男は最初、気のせいだと思おうとした。聞き間違えだと誤認し、そうっと踵を返して何も見なかったことにしようと…概ね理解した上で目を逸らそうとした。
けれども鼓膜を震わせた声によって、その足が止まった。
男は振り返って、今一度行き止まりを見やる。薄暗がりの只中にあるため色が判別しにくいが、まず目立って見えるのはボルドーのスーツだ。それにより、舌ったらずな声は間違いなくクラウディオと呼称したのだと知れる。
なにせ大広間でボルドーのスーツを纏っていたのはクラウディオ・ハルトマンのみであった。
ボルドーのスーツ、ベストに黒いシャツとネクタイというシンプルな出で立ちであったが、不思議と目の惹かれる様となっていたものだ。深紅の色合いは苛烈ながらも品を伴って彼に寄り添っていた。兼ねてからの姿勢の良さにより立ち姿は凛としたものとなっており、その深い色が妙な程に似合っていたことを覚えている。
その赤は今、前屈みになっている。男の居る廊下側に背を向ける形で立っているのだろうことが解る。そしてそれが具合が悪いだとか、酔っぱらってぼんやりとしているだとか、そういった理由でないことは明らかだ。
なにせ甘ったるい声は赤色の向こう側…その男の腕の中から聞こえている。
「ぁ♡ぁ♡ぁ♡…っ♡ぅ、あ♡ッ♡ぁ〜…♡♡」
酷く感じ入っている声だ。上擦って掠れたそれは高い音であるものの、男のものだろうとは察せれる。
余程深く入り込んでいるのだろう。ボルドーのジャケットの裾で覆われたクラウディオの腰は緩慢と前方に揺れ動いており、打ち付けるというよりも擦り付け、捏ね回すような素振りだ。ぐりゅ…♡ぐにゅ…♡ぬぢゅ…♡♡と、そんな音が聞こえてきそうなほどゆっくりとしながらも深い愛撫である。雌に自身を知らしめるような、否、種付けを欲する雌の本能を喜ばせるような、そんな動きに違いない。
最奥への入口を捏ね回される圧迫感すら気持ちいいのだろう。抑えようとしていたはずの声は、徐々に徐々に快楽への忠実さを露見し、溢れ出していっている。
男の足を止めさせた理由は、その声にあった。妙な程に耳に入る声音であったのだ。パーティー会場に集ったほとんどは顔見知りのようなものだから、聞き馴染まない声だったからというのは少し違う。印象深い声だったのだ。
まるで脳裏に腰掛けていた人物であるかのような。そう、先程まで瞼の裏側にいたかのような。そんな声だと思った。
「声、漏れてるぞ」
「ぃ…っ♡♡ぅ゛…♡…ッ♡♡ぁ、って…♡♡」
クラウディオのグレーの頭部がやや擡げられ、前方にいるだろう人物の頭…より正確に言えば、耳にあたるだろう所に擦り寄る。
対し、感じ入る音を零し続けていた声はほんの僅かに詰まらせて、けれどもすぐに非難じみた声が上がった。聞かれることなどないと考えている節もあるのだろう。現に、ここは滅多に人通りのない場である。男がたまたま多く休憩を貰い、煙草の時間を求めてふらりと立ち寄らなければ、この現場を見つけることもなかった。
それを知ってか知らずか、クラウディオはこうも続けていく。
「後ろからするの、よさそうだな」
「ん♡ん♡んっ♡♡〜〜…っ♡♡は、ぁ…ぁ…♡」
「それとも外でするのが好きか?」
「…〜〜ッ♡ば、か…♡♡ばか、ぁ…♡」
呂律の回りきらない罵声と共に、頭が左右に振られる。快楽に蕩け切っているのだろう。明るい赤色の頭部は非難を示すつもりなのだろうが、その緩慢とした様は擦り寄るようにしか見えなかった。
クラウディオ自身、誰よりもその愛らしさを理解しているだろう。彼は寄せた己の口で相手の真赤い耳朶にぢゅっ♡と口づける。
「嘘だよ。可愛いな」
「ん、ぅ♡〜〜…♡♡ぁ、ぁ♡ぁ♡♡ぅ…♡♡」
耳の裏側にべろりと舌を這わせながら、歯を立てて甘く噛む。そうすれば、零れ出る声はいっそう甘ったるく、感じ入ったものとなる。耳が弱いのだろうか。クラウディオの前方に垣間見える脚ががくがくと震え、今にも崩れ落ちかねない様が見て取れた。
それを誰よりわかっているに違いない。ボルドーのスーツを纏った腕が、腕の中の体躯をぎゅうぅっ♡と強く抱く。
「可愛いな…アルカディア…」
「…♡♡ぁ♡♡ぁ♡〜〜…♡♡く、ぁ…ぃお…♡♡」
背中側から強く深く抱擁し、耳に唇をすり寄せ、そうして紡がれた甘ったるい声音。それによって形作られた名称に、男は目を丸くする。頭を横殴りにされたかのような、酷い衝撃が脳に響いている。
妙な程に印象深い声。大広間で自分に会釈した時のあの低い声。聞こえる声は上擦ってはいるものの、確かに、瞼の裏にいるあの男の声ではないだろうか。
「アルカディア…ぎゅってしたい?」
「ん♡んっ♡♡した、ぃ♡くぁ、ぃお♡ぎゅって♡し、て…っ♡〜っ♡」
男が喫驚と衝撃を受けていることなど、無論ふたりは知る由もない。甘やかな囁きの後、クラウディオは身じろいだ。おそらく腰を引き、抱擁する腕の力を緩めたのだろう。人気のない静かな廊下であった故に、ぐちゅ♡ぬぢゅぅ…♡♡といった淫猥な音は男の耳によくよくと届いていた。
「ぁ、あ♡♡ぁ、っ♡♡ゃぁ…♡♡ぬかな、れ…♡♡ゃ…っ♡ッ♡あ゛!♡♡♡」
己の体に収まっていた剛直が引き抜かれていく。その感覚を耐え難く思い、悲痛な色を帯びた喘ぎが溢れる。けれどもそれはほんの瞬きの間のことで、すぐに声音は移り変わった。
クラウディオの逞しい両腕が、抱いたままの体躯をぐるりとひっくり返したためだ。背を向けて立たされていた相手と、真正面に向き合う形となる。
そして紅い両腕はそのまま、臀部と腰を抱いて持ち上げた。
抱かれたその者が息を呑んだのと同時、男も息を呑む。クラウディオの紅い肩口から、よもやと想像した通りの顔…アルカディアの面持ちが覗いたために。
「んあ♡♡あ♡♡ぁ゛♡♡ひゅッ、ぅ♡ぅ♡〜〜っ!♡♡ぁ、あ!♡あ〜〜…っ♡♡♡」
鷲掴まれた臀部はそのままクラウディオの腰元…局部へと降ろされる。己の自重と手の拘束によって挿入はより深く、より離れ難いものと成った。
深く突き刺さる雄の象徴に、アルカディアは喉を晒す。あられもなく声を溢れさせ、目を蕩けさせて感じ入る。
美しい顔立ちは、今やすっかりと雌の快感に塗れている。大広間で目にした時とはまるで違う様相だ。それが実に厭らしい。
「ほら。ぎゅってした方が…気持ちいい、な」
「〜〜っ♡♡ッ♡〜っ!♡♡ん…ッ♡きもちぃ…♡♡あ、ぇ♡っ♡ぁ゛ぅ♡ッ♡きもち、ぃ♡♡」
クラウディオ・ハルトマンという男はただの企業の社長ではなかったらしい。
抱き上げられる男自身が両手と両脚でもって強く抱擁しているとはいえ、絶頂し脱力した状態にある人間を抱き上げるのは相当に苦労のいることだ。それを易々とやり遂げるどころか、自身の意のままに体を揺らし、持ち上げ、落としている。ずっちゅ♡ぐちゅ♡ぬぢゅ♡ぱちゅ♡という音は、彼の力の表れそのものでもあった。
そして肩口に覗く面持ちの様からして、アルカディアは既に深い絶頂に陥っているのだろう。垂れ下がる眉は快楽に打ちひしがれており、瞳は蕩け切り、眼前を認識できていない。見えていれば男の姿を捉え、静止のひとつでもかけたろうに、それが露程もないのだ。
よほど感じ入っているに違いない。それは溢れ出る声音からも理解できる。その声は上擦り、舌たらずで愛らしい言葉ばかりを紡いでいた。
なんと浅ましく、淫猥な様だろう。脳裏で呟く己の理性の声が、実のところほんの僅かな声音となっていることに男は気づいている。自身の目が食い入るように眼前を映し込んでいることに、否が応でも気づいてしまう。
ここはシャンデリアが燦燦と輝く大広間ではない。大通りの廊下から零れた光が薄らと照らす、薄暗い行き止まりだ。けれどもこの薄暗がりこそが狂乱というに相応しいのだと…そう思わざるを得ない程に煮詰まった高揚がある。
「く、ぁ゛う♡♡いく♡んんぅ♡♡も、い、うぅ…っ♡♡」
「ああ、ずっとイってるな」
「ぁ゛♡♡♡ぁ、あ♡♡ん、ぁう…♡♡くあ、ぃおっ♡♡ッ♡ぁ♡♡あッ♡♡ん…ッ♡♡」
紅いジャケットに絡まる肌色の脚がびくっびくん♡と震える。赤い瞳がいっそう蕩け、その顔がクラウディオの首元へと埋まった。口元が首筋へと宛てがわれる。長い前髪が零れ、蕩けきった瞳を見え隠れさせた。
それと同時にぬぢゅ…♡ぐちゅぅ…♡♡と欲望が肉筒に深く埋まる音がして、あまりの淫猥さに男は口を抑える。
「ぁ♡♡ぁ♡〜〜…っ♡♡く、ぁ♡くぁう…ぃお♡♡…い、く♡♡」
「アルカディア、いい子だな。いい子……」
「〜〜ッぁ♡♡♡ぁ♡♡〜〜〜〜っッ♡♡♡〜〜〜〜♡♡♡あ〜〜〜…♡♡♡♡」
どくっ♡どくっ♡と、本来そんな音は聞こえなかったが、けれども男にはそんな音が耳に聞こえたような気がしていた。それだから、ふたりの足元にぱたた…と白濁の粒が落ちたときは、思わず息を呑んだものだ。
クラウディオの背中に回った脚は先ほどよりもびくんっ♡びくびく♡♡と震え、首元に擦り付いていた顔にはぎゅうっと瞑られた眼が見える。
「ぁ……♡♡♡〜〜〜〜…♡♡♡♡…ぅ…♡♡ん、…ぅ♡♡んぁ、…ぅ…♡♡♡ぁ…〜〜〜♡♡♡」
きつく瞑っていた瞼がとろりと擡げられ、快楽に耽溺した赤い眼が映った頃。おそらく、クラウディオが吐精したのだろう。紅い両腕が己で囲う体躯をいっそう強く抱きしめ、腰元がぐっぐっ♡と前方へと押し付けられる様から…そして嬉々として受け入れるアルカディアの声音と表情から、それが種づける行為だと察せられた。
「……♡…、……♡……」
快楽の震えも次第に収まり、赤い瞳へ再び瞼の幕が降りる。疲弊して眠ってしまったのだろう。それは誰の目からみれども明らかだ。
故に、男も行為が終わったとは解っていたのだが、如何せん足が動かなかった。まるで悪い夢でも見たかのような心地であったが、それにしては胸の裏側が激しく鼓動し過ぎていた。
「そこの君」
それだから、眼前からそんな声が飛んできた時。男の心臓はいっそう大きく跳ねたものだった。
「休憩室は右奥の廊下の先か?」
静かな、低い声だ。先程まで聞いていた。否、そう言うには、先程のような甘さはないし、随分鋭い声であるのだが。
故に、男は喫驚とする頭で必死に単語を拾った。心境を言えば、まるで竜の逆鱗を前にしたかのような心地であった。
「そうです」
「人払いを頼む。出来ればタオルも欲しい。大きめの物を頼む」
「かしこまりました」
端的に返事をし、踵を返す。
まずは使用人室に戻り、皆にそれとなく近寄らないようにと触れ回りながら、バスタオルを見繕わなければならない。
先程まで気怠さと疲弊、煙草の一服で埋め尽くされていた男の頭の中は、今や行動予定で埋め尽くされた。そうでもしなければ、竦み上がって倒れてしまいそうだった。
目にしたのはそれ程までの眼光。それほどまでの衝撃。それ程までの熱情であった。
「(あぁ〜…)」
失われた煙と休息の時間、そして瞼の裏の光景に、男は音のない嘆息を吐く。
「(やってらんねぇ)」