真夜中のことだった。なんの物音もしなかった。もしかすれば、階段を下りる足音が耳朶を撫でたのかもしれない。けれどそれを想像するしかない程には静かな夜だった。
シヴァは暗がりの中、緩慢と瞼を擡げた。窓を隠すカーテンは月明かりを薄く通すばかりで、暁の気配さえ遠い。人は寝静まる頃だ。
魔力の塊だが人間として、人間と同じように生きているために、シヴァは一応は夜も眠る。しかし瞼の裏から脱し、外気に晒された瞳は難なく眼前を映し、意識は普段の目覚めより幾らも早く冴えていった。
なぜ瞼を擡げたのか、シヴァには解らなかった。物音は何も聞こえず、無論のことだが、何者かに体を揺さぶられもしていない。この家にはシヴァと、アル以外には誰もいない。
シヴァは不可思議を抱えたまま、暫く暗がりを見詰めた。すっかりと見慣れた天井が自分を眺めている。上半身を起きあがらせると、サイドテーブルの明かりを灯し、両足をベッドの外へと出して、足の裏を床につける。肌色の素肌は柔らかなラグに受け止められたため、底冷えする夜の寒さを軽減しながら立ち上がることができた。
瞼を瞑ってひと眠りすることも出来なくはない。しかし不思議と、そうしたくないと思った。
ひとまず起きて、少し過ごそう。ココアを飲んでもいいかもしれない。静かな夜を過ごす案を頭に燻らせながら、シヴァはカーディガンを羽織る。暖かく甘い飲み物は、きっと夜に取り残された体を包み込むはずだ。今肩から羽織る、アルから譲り受けた大きめのカーディガンと同じように。
ドアノブを捻り、扉を開ける。シヴァはなるべく音が立たないようにその動作を行う。
階段を下り、眼前にリビングを認めたとき、紫の瞳は丸みを帯び、瞬いた。一度、二度と、不必要なほど繰り返す。そして長い睫毛を揺らしながら、瞼が擡げられたとき。虹彩に変わらず映る姿に、シヴァは動揺した。咄嗟に、夢を見ているのではないかと自問した。
リビングは夜の寒さを湛えている。そんな冷たい暗がりの中、ソファに腰掛ける誰かの姿がある。
人間や精霊の目であれば、それは薄ぼんやりと映る何かとしか解らなかったろう。恐怖心の強い夢想家であれば、もしかすれば幽霊とすら疑ったかもしれない。けれどもシヴァは魔力で、夜にも馴染む体を持っていた。加えて、強く正確に何もかもを映す瞳をも持ち合わせていた。それだから眼前に映る、リビングのソファに腰掛けた誰かが何者か、現実的に考え得るその人でしかないことが……今は寝ているはずの人でしかないことが……あまりに正確に理解できた。
「アル…?」
シヴァは信じ難いと言わんばかりの声音で名を紡いだ。この家に住み始めてからこの方、こんな声音で彼の名を紡いだことはなかった。シヴァがその名を呼ぶときは、いつも慈しみと愛情に満ちた声音を紡いでいた。
もしかしたら、幽霊かもしれない。呼びながら、シヴァは思った。もしくは、自分が思い描いた幻覚かもしれない。静かで冷たい夜を過ごすのに、彼が共に居てくれるならばどれほど幸せだろう。そういった願いが作り出した夢のようなものだとすれば。
まるで現実逃避のように行われた思考は、暗がりの中の影が揺れ動いたことによって停止し、霧散する。影は確かに、彼の形をしていた。微かに身を揺らして、その顔が擡げられる。夜の中に浮かぶ青い眼は、いつものように美しい。林の中の木々を映し込んだ湖のような瞳だ。だが今晩、その湖には雨が打ち付けているようだった。
「……シヴァ」
瞳同士が合わさってからややあって、アルは声を零す。それを聞いただけで、シヴァは彼が寝起きたばかりか、ひどく弱っているかのどちらかだと確信できた。彼の口はいつも最低限の動きで言葉を紡ぐけれど、その声が儚く消えることはなかった。いつも明確な音を放ち、言葉を形作った。だが今聞こえたのは、夜に溶け入りそうな声だった。
シヴァはそうっと、慎重にアルの側へ歩み寄った。音を立てれば、彼が壊れてしまうのではないかと錯覚したからだ。実際には、シヴァが隣に立ったとき、アルは壊れもしなかったし、泣きもしなかった。一度シヴァと合わさった瞳は、もう宙へと移ろっている。シヴァは身を屈めて、ソファに浅く座った。
「どうしたの、こんな時間に」
「……ああ」
頭の中に容易く思い浮かんだ疑問に対して、答えは返ってきた。けれどもそれは相応しい答えとは思えない。返答は肯定を示す声の連なりだ。しかし今は肯定も否定も求めていない。シヴァはただ、彼が電気も灯さずに夜のリビングに佇んでいた理由が知りたいのだ。
明確でない答えも、どこか気のない声も、アルには珍しい様子だ。シヴァは僅かに首を傾げて、彼を見つめ続ける。質問が悪かったのかもしれない。ただ理由もなく起きてしまうこともあるだろう。シヴァだって、今夜は同じように起き出してしまったのだから。
「お腹空いた?」
「ああ」
「…眠れない?」
「うん」
返答は紡がれている。今度は意図を得た答えであったが、けれども、これは先ほどと同じような返事なのだろうとシヴァは思った。彼はきっと、空腹には喘いでいない。
視線は交わらず、それらしい返答は得られない。会話を放棄した応対だ。けれどもシヴァは、それでもいいと心持ちを切り替えた。寂しさはどうしても感じてしまうが、彼にだって会話をしたくないときはあるだろう。そして明確な答えがないまま眠れない夜だって、きっとあるのだ。シヴァは口元を優しく綻ばせる。それなら、出来ることは限られている。
「…おまじない、掛けてあげる」
「……」
先程と同じような返答が得られるかと思った問いかけには、予想に反した呼応が返ってきた。沈黙という、音がないからこそ何よりも音を発する返答。聞こえなかった、ということは、この静かな夜のリビングにおいてあり得るはずがない。何より、宙を眺めるアルの青い眼が翳りを帯びたことからも、その無音は何よりの返答に違いないと解った。
まじないは、アルがよくシヴァに行う行為のひとつだ。眠る前、願いを込めて額に口付ける。よく眠れるように、悪い夢を見ないように。
それがどれだけシヴァに効果を発揮しているか、彼は知らないでいるのだが。
いつものお返しとでも言うように、シヴァはそう口にしたのだ。
「……嫌だった?」
「いや、……」
シヴァは内心で少し……実のところかなり怯えながら問いを口にした。善意が、相手に、よりにもよって愛する人にとっては鬱陶しいことだと判明することを恐れた。
けれどもアルは即座に否定を口にする。それは無垢な善意を救うためについた取り繕いではなさそうだ。彼は無為なことはしない。今晩では何より明確な言葉として口からついて出る程度には、その否定は真実なのだろう。
けれどもそれ以上は、言葉が出てこないようだった。彼の唇は微かに動いた後、またすっかりと閉じて、暗闇を飲むばかりとなってしまった。
アルは両膝にそれぞれの腕を置き、合わさった掌同士をきつく握り合わせている。さも祈るような姿だ。音もなくとったその格好に、シヴァは眉尻を下げた。不思議と、隣に座るひとりの男が、迷子の子供のように頼りなく見えたのだ。
シヴァは黙したまま逡巡して……その手を、アルの手へと伸ばした。握り合わせた手を撫でるように、覆うように、そうっと手を宛てがう。こうすることで何になるのかと、胸の皮膚の裏側で鼓動が問うた。何にもならないかもしれない。もしかすればこのまま立って、何も見なかったふりをするべきなのかもしれない。しかしこのまま放っておくには、愛情が募り過ぎていた。
「……」
不安に鳴るシヴァの鼓動とは裏腹に、アルは存外早々と握り合わせていた両手を解き開いた。そしてシヴァの手へと指を伸ばすと、慣れた手つきで絡め握る。仕舞いには離さないと言わんばかりに強く、痛みが生じない程度の力を込めた。
普段重ね合わされる時よりも強い力に、シヴァは内心驚いて、瞼を数度瞬かせた。しかし、嫌がられていないならばこれほど幸いなことはない。安堵を抱きながら、シヴァは自分からも手を握り返す。
そして待った。夜の沈黙と冷たさをたっぷりと食みながら、アルを待った。
このまま何の答えもなくとも、アルがもうひと言も口を開かずとも、シヴァはよかった。
ただ、この状態のアルをひとりにしないのなら、彼と共に居られるならば、それだけでもよかった。
「……怖い。寝るのが」
沈黙の終わりは静かなものだった。夜の中に零れ落ちたその声は、静寂の中に溶け入りそうだった。シヴァが隣に座っていなければ、聞き取れたかどうか怪しい程に。
「だから、寝たくない」
「じゃあ、そばにいるよ」
シヴァは言う。言葉は考える間もなく喉を通り、舌の上に乗っていた。
「怖いことはしなくていいよ。私も、一緒に起きてるよ」
アルは一度だけ瞬き、ようやくシヴァを見た。再び出会えた青色の眼は丸みを帯びており、色を少し取り戻している。シヴァは微笑んだまま、握り返す手の力を優しく強める。指股に通した指の腹で、筋の張った手の甲を優しく撫でてやりながら優しい声音を紡ぐ。
「して欲しいことある?なんでもするよ。例えば…ん〜…」
唇を薄く開いたまま、シヴァは考える。夜を越える為の物事は実に多様だ。この家の中だけでも、思いつくものは幾らもある。
「ホットミルクを作ってもいいし、ラジオを聞いてもいいし。他愛無い話も…なんでも。なんだってするよ。なにか、ある?」
聞けば、アルは驚いたようにシヴァを見つめたまま、瞬きさえしなかった。眼差しが出会い続ける間、シヴァは一瞬たりとて逸らしはしない。時折ゆっくりと行う瞬きですら、アルを安心させる為の行為だった。ここには何も恐ろしいものはないのだという体現。こんなにも緩慢とした瞬きが許されるのだという示しだった。
必死だな、と、我がことながらシヴァは認識する。アルを、きっとずっと夜に取り残されてきたのだろう愛しい男を、独りにしない為に。或いは、今宵偶然見つけた愛しい人の秘密を、自分ひとりが共有したいという欲望の為に。必死になっている。
穏やかなふりをして、心の中は酷く醜い有様だ。けれど醜くとも、彼が今宵を過ぎ越せるなら……眠れない夜という酷く恐ろしい暗がりを手放せるのなら、どれ程醜くてもいいと思った。
アルは唇を薄く開いて、また閉じる。彼のことを見つめ慣れていなければ気づけなかったろう微細な動きを幾らか繰り返した後、視線を再び宙へと落とした。
「なにも」
唇が微かに動き、閉じる。殆ど呼吸と変わらない開口は、今一度行われる。
「お前が、ここに居てくれるなら…他にはなにも」
言いながら、手を握る力が少しばかり強まる。まるで縋るように。告げられたのは、あまりに小さな願いだ。そしてシヴァこそが渇望する願いでもあった。
驚いて、けれどそれを表には出さないまま……出さないようにと尽力しながら、シヴァはアルを見つめた。もう唇は動かない。どうやら訂正はないようだ。この静けさの中で、聴き間違えたこともありはしない。夢のような願いは、本当に告げられたらしかった。
「…いいか?」
返事がないことが心を揺るがしたのだろうか。アルは少し不安げに、もう一度視線をシヴァへとやる。握って離されない手と同様に、否、それ以上に、眼差しは懇願を現している。
シヴァは微笑んで……少し照れたように微笑んで、手を今一度握り返す。答えなど、最初から決まっていた。
それから、シヴァがアルと寝室へと連れ立つことに成功したのは、暁には未だ遠い時間だった。ソファに座ったまま動こうとしない彼の肩に、カーディガンを掛けようとしたのだ。元々は彼のものだった上掛けは……今夜は特に……彼の身にあるこそ相応しい気がした。
けれどアルはその手を今一度絡め握ることで留めようとした。「寒いだろ」という、端的な言葉で心配を現した。「なら、ベッドに行こう?」とシヴァが口にしたのは、自然な思考の故だった。もしかすれば、明日も仕事が待ち受けている彼を寝かせてやりたいというお節介が無意識化に働いたかもしれない。けれどシヴァは極自然な流れを作るためにも言葉を続けた。
「暖まるし、横になっていた方が体も休まるよ」
アルが寝室、或いは寝台そのものに拒否感を抱いていることは、微かに強張った頬から理解はできた。けれどそれを見て見ぬふりをして、シヴァは眼差しを注いだ。折れたのはアルの方だった。「ずっと抱き締めてあげる。寝ないように起こしてあげる」と、シヴァが後押ししたのだ。「そうだな」と、ようやくと言った風に呟いたアルはゆっくりと腰を上げた。その手は縋るように……約束の反故を恐れて、何がなんでも果たさせようとするように……シヴァの手を絡めて強く握ったままだった。シヴァが彼との約束を破る訳がないと、知っているはずなのに。知っていても尚不安に感じてしまうのだ。彼はそれほどに途方もない時間、夜の迷子になっていた。
「話していい?」
暖かな羽毛布団の中にふたりで潜り込み、手を繋ぐ行為を抱擁へと移り変えて、未だそう経たない内にシヴァは提案を告げた。羽毛布団は暖かく、すぐに体へ眠たさを運んでくるだろうことは容易く予感できた。
「アルにしたい話、いっぱいあるの」
アルは頷いた。加えて「ああ」と付け足した。沈黙の中から襲い来る眠気から遠ざかる為の声を求めていたのか、はたまた、心からシヴァの声が聞きたがっていたのか……シヴァは前者だと考えたが、その実、アルは後者の心を抱いていた……。
シヴァは話し始めた。好きなテレビの話、レヴィアの話、レギオンの話。よく訪れる菓子店のこと。時折手伝いに赴く聖地での、騒がしくも嬉々としたひとつひとつの出来事。昨日見た夕焼けの色。多くのことが絶えず口に上る。どれもが青色の瞳を見つめるだけで浮かんできた。どれもが、アルに見つけてもらった時からいっそう色づいたものたちだった。
アルはそのどれもに相槌を打った。時に声で、時に視線で、時にはシヴァの頭や体を撫でる手で。注がれ続ける眼差しは穏やかで、いつまでも、そしてどこにも倦んだ様子はない。何もかも全てを愛おしく聞き入れているようだった。
アルはいつもそうだ。夕食時も同じように、シヴァの話を心地よさそうに聞き続ける。シヴァが話す日々のことを…面白みの少ない他愛のない話であっても、程よく相槌を打って聞き続ける。シヴァは度々不可思議に思ったが……種族を守る王として、人々が日々を過ごしている様を聞くのは嫌な気ではないのだろうと解釈した。それだけでないということを、シヴァだけが知らないでいる。
「寝たくない」
と、穏やかな語り部が時折声を途切れさせたとき。沈黙を互いに飲み、手と体の触れ合う暖かさに意識を傾けているとき。アルはそんな声を零す。「嫌だ」と、そう続ける声があまりにも小さなものだ。その度に、シヴァは微笑むことの少ない頬へと手を伸ばし、名前を呼ぶ。「アル、アル」と幾度も囁く呼び声は優しく穏やかなものだ。けれど霞むものではない。アルの鼓膜をきちんと揺らし、鬱屈と伏せかけていたその瞼を擡げさせる。瞳同士が出会うと微笑んで、唇を寄せて告げる。
「起きて、キスしよ」
言うや否や、唇同士を触れ合わせる。ただ触れ合うだけ。夜毎にまじないを掛けるときのように優しい口付け。それを一度、二度と行うと、アルが優しくシヴァの唇に吸い付いてくる。最初は恐る恐る。次第に自分の手をシヴァの頬に宛てがい、覆い包むようにしながら、幾度も幾度も、まるで確かめるように。
そうして、アルの目がその瞼を確かに擡げ、シヴァを見つめ直したら再び語り部が口を開く。そんなことをどれ程繰り返したのか、数えはしなかった。ただ、こんな時間がいつまでも続けばいいと互いに思っていた。
どれほど嫌がろうとも、人間も精霊も夜は眠る生き物だ。例え彼が長い夜に取り残されていたとしても、その孤独に慣れていたとしても、暖かな空間と安堵する香り、そして心地の良い声の前に、不眠の患いは無力に朽ちようとしていた。
アルの意識が微睡に溶け、キスすらも危うくなった頃。瞼が半ばまで降りることが多くなったとき。彼の瞳に不安げな色をありありと見てとることが出来た。シヴァは一度そうっと口付けると、覆い包んだままの彼の頬を撫でた。手は肉の硬い皮膚を、それから耳を、頭へと辿っていく。
「大丈夫、大丈夫だよ」
と、愛撫にも満たない穏やかな手の合間に、繰り返し告げる。
「ずっとそばに居るよ。ね、大丈夫」
アルは穏やかに、惜しむようにゆっくりと目を閉じていった。紡がれたのは信憑性も確信の証拠もない慰めの言葉だ。何が大丈夫なのか理由も告げていない。けれど今は、ただシヴァがそう告げるなら、きっとその通りだと信じるように……否、そう願うように、アルは瞼を下ろす。眠れない夜に幕を下ろしていく。迷い込んだ夜から。孤独から。
「ずーっと、いっしょ」
瞑目するアルに、シヴァは繰り返しそう告げた。まじないを掛けてやるように。或いは祈るように。それは今までにシヴァが聞いてきた中で、何より安心できる言葉だった。アルに抱擁され、そう囁かれるとき、シヴァは深い安堵を得た。あんな安寧は抱いたことがなかった。
おやすみ、とは言わなかった。眠りへと戸口を聞かせると、アルは起きてしまいかねない。そう危惧したのだ。深い沈黙が下り、髪や背中を撫でる手が布の擦れ合う音だけが微かに生じる。そうして、穏やかな寝息が聞こえ始める。もう数時間は目蓋を擡げることはないアルの面持ちは穏やかで、夢も見ていないだろうことが察せられた。シヴァは柔く息をついて、暖かな布団の中でゆっくりと目を瞑った。体は抱き寄せられたままで、離される気配はなかった。離れようとも思わなかった。
そうして、夜の迷子は暁を迎える。