新たに出来た傷は、いくら手を尽くせど、完全には消えなかった。
何年、何十年と経って、他の面々が内在闘争を終えてなお、目を覚ましさえしなかった。
本人の霊圧がまだ存在している、それだけが救いだった。

少しでも回復の助けになるよう、外より霊子を濃くしてある特別な空間。
そこに足を踏み入れて、わずかな呼吸音を聞くたびに、伏せたままの瞼を見つめるたびに、変質した霊圧を感じるたびに、押し潰されそうになる。責任感か、後悔か、罪悪感か、何にかはわからない。

場違いの穏やかな寝顔を目にして、このまま眠らせておこうかと思ったのも1度や2度ではなかった。
それでも、実際にそうすることは出来なかった。
虚化を制御しなければ、いずれ内側から喰い尽くされて、処刑されるよりもずっと凄惨な末路を辿るのは明らかだった。

だが、起こしたところでどうなるのか?
今後も戦いは避けられないだろうし、ただの人間として暮らさせるのも限度がある。
しかし戦うにあたっても、彼女は致命的な怪我を負ってしまったのだ。
このことは、他の皆に伝えなければならない。
重い脚で入った先に、先客がいた。


「ひよ里サン」


ボクを一瞥さえせず、何も言わないひよ里サン。
その隣に座ると、ひよ里サンが何かを持っていることに気づいた。
本来、鈴音サンが袂にしまい込んでいたはずの紙切れだ。
それが、彼女にとって紙切れ以上の価値を持ってしまったものであることは、ボクが一番よく知っている。
透けて見える文字列が、ボクを責めたててくるのだから。

現世に逃亡してきてから少し経った頃、検査の際に偶然この紙切れを見つけ、衝動的に破り捨てそうになった。
ボクが与えたはずのものは、たかが紙切れ、たかが文字、命に代えようもない、たかが役職だったのだ。
それを歪めたのは、彼女の気持ちに気づくのが遅すぎたボクで、彼女の性格を知ってなお過信していたボクで。
その末路が、今だ。


「……ウチの、せいや」


赤茶けた紙が、ぼたりと落ちてきた雫に、その色を濃くした。


「ひよ、」
「ウチがもっとしっかりしとって、藍染も他のヤツらもボッコボコにして、虚化してもうた拳西も白も止めたって、鈴音のことも斬らんかったら、戦えたのに」
「ひよ里サン、」
「鈴音だけとちゃう、シンジも、リサもハッチもラブもローズも、……ッ喜助、かて」


何か言おうにも、咄嗟に言葉が出てこない。
ひよ里サンが言うようになっていれば、確かにそれは最善だったかもしれない。
現実には、それを実現させるための方策はすべて潰されてしまった。
いや、そのことさえ予想の範疇だった。


「……ただ、全てが最悪の展開になってしまった、そういう話っス」
「なん、やねんそれ」
「ボクも、そうとしか言えないんスよ」


思っただけのつもりが、声に出ていたらしい。
ボクが想定したあらゆる選択肢が、全て最悪を選んで進んでしまった。
鈴音サンが巻き込まれ、虚化してしまうことさえも、想定はしていた。
想定そのものに、誤算は一切なかった。それだけが誤算だった。
だから、


「誰かに責任があるとすれば、それは」
「強いて言えば、全員とちゃう?」


邪魔すんで、なんでもないようにそう言って、平子サンが結界内に立ち入る。
ひよ里サンが「どないしてん」と目元を拭いながら尋ねれば、「別にィ」とまたいつもの調子で言葉が返ってくる。


「喜助がなーんかえらい形相でココ向かっとったからなァ、つい後つけたくなったんや」
「そんなカオしてましたかねぇ……」
「しとったから言うとんねん」


呆れ声で言いつつ、平子サンがひよ里サンの頭に軽めの手刀を落とす。


「泣くなボケ、せめてそれ鈴音に返してからにせぇ、さらにボロボロんなっとるやんけ」
「……うっさいハゲ」


ヤケのようにまた目をこすってひよ里サンが、弱弱しく平子サンを小突く。
悪態をつきながらも、紙切れは鈴音サンの枕元に返された。
ややあって、平子サンが再び口を開く。


「誰が悪いとかいう次元、とっくに越えてもうてるんやから、何言うたってしゃーない」
「それはそうかもしれないっス、けど」
「自分のせいやとか言おうとしとったやろ、さっき」
「……ええ、事実でしょう?」
「アホか」


ひよ里サンのときと違う、容赦なしの手刀が落ちてきて、目の前に星が散った。
何を、と反駁するより早く話が続く。


「オレらがあの夜にあの場に向かったんも、
鈴音がムチャしよったんも自分刺したんも何もかも、
結局はオレら自身で決めたことやねんから、
結果どうなろうがオレら自身の問題やっちゅーねん」
「……たとえ、それでもッ!!」


叫んだ途端、眠る鈴音サンが呻いた気がして、次の声を飲み込んだ。
それはあくまで気のせい、だったらしいが。

自責も何もかももっと先で出来ると、そうすべきだとあの夜に封じ込めたすべてが、この空間に、鈴音サンのそばにいると、蓋を開けてしまいそうになる。
その時はまだ先だと、ボクが今やるべきことは他にあるとわかっていても尚。
文字通りに行き場をなくした声が、ただの空気になって喉を揺らした。


「オマエがオマエをどう責めようと、それをいつ吐き出そうと自由やけどな、オマエが1番謝りたい相手が誰なんかは、自分でわかっとるやろ」


いつか四番隊舎の廊下で言われたのと似たような言葉に、歯噛みする。


「情けないっス、ねぇ……」


似たようなことを繰り返して、繰り返し傷つけて。
ここから何をしても、また傷つけるかもしれなくて、その恐ろしさに飲み込まれそうにさえなっているのだから。
それでも、本当に飲まれてしまうわけには、足を止めるわけにはいかない。
進むしかない現実を噛み締めて、無意識に伏せていた顔を上げた。


「さっさとねぼすけ起こして、そのボッサボサの頭でもなんでも下げたれや」
「随分と簡単に言ってくれるじゃないスか」
「どうせ手筈は整っとるクセに何言うとんねん。えらいカオしとったんもそのせいやろ?」
「なんなんスかもう……逃げ場消そうとしないでくださいよ」


滲みかけていた視界を拭って、息を吐く。


「仰るとおり一応、とっくに鈴音サンの内在闘争の準備は出来てます。
ただ、説明しておかないといけないことがありまして」


あの夜、鈴音サンが刺した箇所。
死神にとって、最重要と呼んでいい箇所。


「鈴音サンの鎖結の6割は、ほとんどの機能を喪失してるんス。
霊力量は、悪い意味で過去の比じゃありません。
さらにもうひとつ」


霊力が少ないということは、虚の霊力に乗っ取られるまでの時間も必然的に短くなる。
それはつまり。
もうひとつ、息を吐いた。


「そこから計算すると、内在闘争にかけられる時間は長くて20分。それ以上は」


死神としての力のある程度の存続も、朱野鈴音としての自我も、命さえも。
頭の中で列挙したすべては、声にならなかった。


「……ッ、何も、保証できなくなります」
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