胸部に深めの刺し傷を負い、出血は酷かったものの、現在命には別状なし。トリオン供給器官に異常もなし。
ただ、意識だけが戻らない。
簡潔に報告を受けた容態は、2週間経っても変わらなかった。
情報統制によって、あの件は一切外部に知られていない。
学校では、変わらない日常が流れていた。
元から友人もほぼいないらしい海尽だ、教室にいようといまいと大差はないのだろう。

それが起きたのは、事件からそろそろ3週間が経とうという日だった。
窓を打つ土砂降りの雨と、その音に負けまいと張られる教師の声。
喧騒の中に、わずかに振動音が聞こえた。
発生源は自分の鞄。確かめてみれば、珍しく、ボーダーの連絡用端末がこんな時間に鳴っている。
一言断って、湿気に満ちた廊下に出た。
教室から離れて、通話を繋げる。


「もしも、」
「そっちに海尽はいるか!?」
「は、はい?」


返事すらろくに言い切らない間に、東さんの声が耳を刺す。
いませんが、と混乱しつつ返すと、向こう側で息を吐く音がした。


「そうか、学校にもいないか……いきなりすまない」
「あの、何かあったんですか」


学校"にもいない"、あまりに不穏な言葉が響く。
心臓が跳ねる音が、足元で水が跳ねる音と混ざる。


「海尽が、病院を抜け出したらしいんだ」


ああ、またあいつは非常識な真似を。


「朝方、看護師が訪ねたときには部屋から消えていたそうでな。
病院内、基地、警戒区域、自宅、どこにもいなかった。
それで学校にいないとなると、他に心当たりはないか?」


あいつの、行きそうな所。
思い入れのある、あの家にはいなかった。
あいつが他に行きそうな所は、どこだ?


「………高い、場所」
「ん?」
「病院から見咎められずに行ける範囲で、一番高い所、どこですか」


言いながら、すぐそばの階段を登る。
直感だけが、足を動かす。
屋根を抉るような雨音が近づいて、通話が聞こえ辛くなっていく。
踏みつけた足の下で、段に残された小さな水たまりが鳴る。


「あの辺りなら、病院自体の屋上か、デパートの屋上か……デパートは今日は休業日だな。病院にもいなかったし……」


蒸し暑い踊り場で、そこだけが冷えたドアノブを掴む。
べたりと濡れたそれを回して、鉄の扉を開く。
吹き込む雨に、目の前が霞む。


「……見つけた」


その声は豪雨にかき消されて、座り込む人影には届かなかったらしい。
気づかない間に、端末が手から滑り落ちる。


「海尽っ!!」


大声で呼んだ名前に、濡れた髪の張り付いた顔が振り向いた。
三輪くん、と色の悪い唇が動く。
それきり微動だにしないので、こちらから歩み寄る。


「探しにきたの?東さんの指示?」


掠れた言葉が届く距離で、力なく問われた。


「お前がここにいると思ったから、俺自身の意思で来た」
「私のこと、嫌いなくせに」


あの宿泊区画で見せた、嘲笑うような顔。
それも今日はどこか弱々しい。


「…………雨だね、三輪くん」


脈絡なく、雨音に紛れた声が言う。


「あの日みたいだね、私が死にかけた日もだけど」


何もかもが滅茶苦茶に壊されたあの日。
大切なものをなくしたあの日。
あの雨音は、いつまでも耳を打つ。


「お兄ちゃん、私をかばって死んだんだ、倒れこんだ私の上にかぶさって、そのまま。
助けが来るまでずっと、しんじゃってからも、ずっと。
心臓の音が消えていって、雨の音だけがしてたの、自分が刺されて思い出したの」


自分自身に兄を重ねて、思い出す必要のないものを思い出した。
それはきっと、俺が、血を流す海尽を姉に重ねたのと同じように。

俺たちは、どうしようもなく似通った同類だ。
大切なものをなくして、近界民を憎んで、武器を、力を手にすることを選んだ。


「私さえいなければ、お兄ちゃん死ななかったのに」


そうして、自分自身も憎んだ。
ただ、その衝動が駆り立てる行先は違った。
俺は、力を手に復讐することを。
海尽は、無力だった自分を殺すことを。

コンクリートの床にしゃがみ込むと、あっという間に服に水が染み込む。
いつにも増して冷えた腕を、掴む。
点滴を無理に抜きでもしてきたのか、よく見れば少し血が流れていた。


「海尽」


自分にもたれかからせるように引き寄せた身体は、想像していたよりもずっと細くて、軽い。
雨音と濡れた服の感覚が、また感覚をあの日へと引き戻す。
雨に奪われて消えていく、二度ともどらない体温。
とうに止まった鼓動。


「……死ぬな、お前は、死ぬな」


わずかなぬくもりと、心音。
海尽が生きていることを示すそれに、縋り付く。
この体温は、鼓動は、消えていかない。
俺が、繋ぎ止めている限り。


「お前なんか、嫌いだ」


だったら、と言い返されるより先に言葉を続ける。


「嫌いなのに、死なれたくないんだ、海尽、だから、死ぬな」


雨が目に入り込んで、視界を歪める。
寒さからか、声まで揺れる。


「お前が思うことも苦しみも全部はわからない、けど、死なれるのは嫌だ、嫌なんだ」


まるで、子供の理屈だ。
自分が嫌だから死ぬな、なんて。
けれどこれ以上に、自分の心を表す術がわからない。
兄はそんなことを望まないだとか、死人の意思を騙るのは簡単だ。
だがそれが通じないのは、誰よりも知っている。
そう思ったとき、東さんに言われた言葉の意味が、ようやくわかった気がした。
海尽を救えるのは、同じとは言わずとも、どこまでも近くにいる俺だけだ。


「俺がいる、だから死ぬな」


冷たい腕が、背中に回る感覚が伝わった。


「三輪、くん」


細い腕に、力が入る。
隔てられていた、わずかな空間が消える。


「……俺だって、姉さんの代わりに、だとか思わなかった訳じゃない」


海尽が息を呑む音がして、真下から濡れた目に見上げられた。
その目から、雨と別の液体が溢れ出す。
ああなんで、お前が泣く。


「たまたまそれより、復讐したい気持ちが勝っただけだ。
お前にもその道を行けなんて、今はもう言うつもりはない」


ただ死ぬな、と繰り返した。


「死ぬな、海尽、」
「三輪くん、」
「死ぬな、俺がいるから、東さんも、加古さんも、」


うん、とくぐもった声とともに、小さな頭が頷く。


「知ってた、知ってたの、いっぱい見てくれてる人がいるの、でも、そういう優しいの、信じるのが怖くて」


両親に裏切られた傷が、すぐに癒えるはずもない。
震える声が、さらに言う。


「三輪くんは、私のこと嫌いだって言うから、そのほうがずっと信じられた。
そういうところは好き、なのに、時々世話焼くようなことするから、それは本当に嫌いだったの」 
「……ああ」
「だから、見つかって、嫌で、でも良かったって思ってっ、」


涙の幅が、増していく。
しゃくりあげる声が、大きくなっていく。


「死にたかったのに、全部嫌いだったのに、っ、なくなっちゃえばいいって、思ってたのにっ…………!!」


後は言葉にならずに、泣き声だけに変わる。
雨音でも消せないほどに、高く響く。
思えば、泣いた顔を見るのは初めてだ。
ぼろぼろに歪んだ、どこか子供じみたそれは、いつもの笑顔よりずっと好きになれそうな気がした。

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