休日のキッチンから、ときたま甘い香りがしてくることがある。
それに釣られて階下に行くと、姉さんがクッキーを作っていて。
焼けるまで、くだらないことを話して待って、焼けたクッキーを食べて。
取り留めもない時間が、甘い味が好きだった。



 不意にそんなことを思い出したのは、教室のあちらこちらでチョコだのクッキーだのが交換されている、見慣れない光景のせいだろう。
陽介もなぜか、大量の飲み物を抱えている。本人いわく全て貰い物。


「今日バレンタインじゃん?
で、オレにはチョコよりこっちのがいいだろって、いろんなヤツがくれた」
「……バレンタインか」
「あ、忘れてた?」


まあそのほうが秀次らしいかーと、笑いながら変に納得された。
実際バレンタインに興味はないから、認識に別に不服はない。


「秀次はさぁ、海尽からもらわねえの?」
「さあな、今日本部に来るかも知らない。
……というか、なんでここで海尽が出てくるんだ」
「……え、付き合ってんじゃなかったっけ?」
「……ない!!」


思わず大声が出て、それに驚いた陽介の持つ飲み物が揺れた。


「びっくりしたー……え、マジで?
付き合ってねぇの?」
「どこからそういう発想になった!!」
「なんとなく?」
「なんとなくで決めるな!!」
「えー、わりと有名なんだけどな」


他にも同じことを思っている奴がいるのかと、色々な面々の顔が浮かんで頭が痛くなる。
ただ、加古さんは絶対面白がっている、それだけは断言できる。


「……間違いだって言っといたほうがいい?」
「当たり前だ!!」
「オッケーオッケー、とりあえず落ち着こうぜ、な」
「ッ……」


俺が息を整える間にも陽介は、マジかーと繰り返す。
何がそんなに意外なのか、まったくわからない。


「海尽のこと、けっこートクベツ扱いしてると思ったんだけどなー」
「それとこれとは別問題だ」
「なるほど、秀次はそういう派か」
「……普通じゃないのか?」
「んー、別に人それぞれで良いんじゃね?」


そういうものなんだろうか、よくわからない。
海尽への感情は、恋だの愛だのでないのだから、考える必要もないか。

 握っていたマフラーを巻いて、冷えた廊下に出る。
こんな寒い時期に大量の飲み物をもらって、処分に困らないのだろうかと、隣を歩く陽介が少し心配になったが、どうせランク戦の後にでも大量消費するんだろう。


「……なあ秀次」
「どうした?」
「あれ、見てみ」


指さされたのは、階段のほう。


「……仁礼、か?」
「いやその後ろ」


注視すれば、仁礼が誰かの手を引いている。
人目を避けているのか、顔を下に向けているせいで、判別ができない。
……気のせいか、俺たちを目指して進んできているような。


「あーホラホラいた!! おーい!!」


俺たちの後ろには誰もいない。
何の用なんだ、と思いながら軽く手を挙げて応えた。
こうでもしておかないと、愛想悪いなーとかなんだとか、仁礼が後からうるさい。
仁礼は、話せる距離までやって来ると、後ろにいた人物を前に放り出した。
というか、その表現が適切になる勢いで、腕を引いた。
放り出された当の本人は、もちろんよろけた。


「……なんでお前がここにいる……」
「あ、やっぱ海尽じゃん。
なんで仁礼と一緒にいんの?」
「門の前にいたから、連れてきたんだよ。
見られたら困るし、かるーく変装もしてさ」


言われてみれば、海尽は自分の制服の上から、仁礼のカーディガンを着せられている。
上下がちぐはぐなせいで、正直変装としては違和感しかない。


「ホラ海尽−」
「うん、あの、ありがとう光ちゃん」
「いいっていいって。それより早く用事済まさないと、今度こそ見つかるぞー」


促されて海尽が、鞄から何かを取り出した。
小さな袋に詰められた、クリーム色と茶色の、板のようなそれは。


「……クッキー、か」
「いつもお世話になってるから、そのお礼」
「別に、世話ってほどのことなんかしてないだろう」
「じゃあ、単なるプレゼントってことで、ね?」


言いくるめるように、リボンのついた袋が差し出されて、微妙な重みが掌に乗る。


「海尽が作ったのか?」
「味見はしたから、食べられないってことはないと思うけど……
もしかして、手作り苦手だった?」
「……そんなことはない、から、もらっておく」


手の中のものを、潰さない程度に握る。
よかったーと笑う海尽に、自分の口許も少しだけ緩んだ。


「あ、陽介くんのもあるよー」
「おー、ありがと」
「光ちゃんのも、はい」
「え、アタシも貰っていいのか?」
「もちろん、ここまで連れてきてもらったし」


鞄の中から、俺に渡されたのと同じものが次々出てくる。
ちらりと見えた中にも、まだまだ同じものが。
一体いくつ作ったのか。ともかく、俺の分だけではなかったらしい。


「……三輪ー?」
「なんだ、仁礼」
「……いややっぱなんでもない、うん、アタシは何も見てないぞー」
「オレもなんも見てない……」
「陽介までなんなんだ……?」


海尽は鞄を閉めなおしていたようで、こちらに視線は向けていなかった。
俺と同じく、何があったのかわからないと言いたげな顔をしている。


「……さ、見つかる前に帰るかー!!
三輪たちは?今日本部くんの?」
「行く行く、任務あるし」
「おー、じゃあ全員そろって行くぞー!!」


なぜか先導していく仁礼に、仕方なくついていく。
今日は全体的になんなんだ。
ため息が出そうになったが、鞄の中身のことを思うとその気が失せた。



たとえ自分のためだけでなくても、何かを貰うのは幸せなことだ。
昔だってそうだった。
姉さんから貰えるのは、大体誰かに渡す分の余りのクッキーだけだったけれど、幸せだった。

そのはずなのに、今までは感じなかった、妙な燻りが消えない。
胸の奥底から、重たい何かが離れない。

家でひとり、リボンを解いて、袋の中身を口にした。
甘い味が、任務終わりの頭にしみる。
ほんの少しだけ後味が苦かったのは、わずかに焦げた部分のせいだろう。


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