「三輪くんは、ほんとに律儀だね」


スポーツドリンクを飲ませて、書類を渡した後、予想どおりの言葉が発せられる。
悪かったな、と反射で返すと、耐えきれなかったような笑いが聞こえた。


「悪くはないよ、嫌いなだけ」


血色の悪い唇が、震えながら言う。
そういえばこの部屋は、妙に寒い。
隙間風のせいにしても、寒すぎるくらいだ。
それ以外にも、いくつか気になることがある。
先程から感じている不穏さが、外で見た落書きのせいだけでないのは、理由がなくとも確信できる。
ひとつひとつ聞かなければ、気がすまない。

なぜ自分が坂頼のことにここまでこだわるのか、それこそ理由がなかったし、見つけてはならない気がした。
俺は、こいつが嫌いなんだ。


「三輪くん、悪いけど開けてくれる?両手が塞がってて」


背後のドアのむこうから、加古さんの声。
それがなんとなく違って聞こえるのは、1枚隔てているせいか。
言われたとおりドアを開けると、湯気が視界を埋めた。


「お待たせ、食べられるだけでいいから食べてちょうだい」
「あ、ありがとうございます……」


一人用土鍋と蓮華を受け取る声は、なぜか非常に不思議そうで。
見たところ普通の白粥の、何がそんなに疑問なのか。
冷ましつつ頬張る手は止まらないので、味が妙という訳でもないらしい。


「ごちそうさまでした、加古さん」


食べられるだけでと言われたが完食し、息をつく坂頼。
結局、何が疑問だったのかはわからずじまいだ。


「洗い物してくるから、海尽ちゃんをお願いね三輪くん」
「洗い物くらい俺が、」
「こういうのは最後までやりたい主義なのよ、よろしくね」


また部屋の中が、俺と坂頼の二人になる。
流れかけた沈黙を、スポーツドリンクのボトルが立てる音が一瞬で破った。


「外、見ちゃったよね」


当然ながら、疑問でさえない問に肯定を返す。
ここに来たのだから、見ていない訳がない。
空になったボトルを玩びながら、ぽつりぽつりと坂頼がこぼしはじめた。


「知ってるでしょ、この辺りで過激派アンチボーダーの人たちが活動してるの。
どこからか私が隊員だってバレちゃって、それ以降、帰るとよくあんなことになってて」


笑い声が、言葉に交ざる。
嫌いなそれを止めたいのに、口を挟める雰囲気ではなかった。


「このアパート私以外誰もいないから、他の人に迷惑かからないのはラッキーだけど、」


ひとりの名前だけが記された表札、靴箱すらない玄関、人の気配のしない冷えた部屋。
誰もというのは、つまり。


「後片付けも一人なのは、ちょっとしんどいかな」


家族さえも、ここに住んでいないということ。

頭の中に、昨日の東さんの声が蘇る。
『今日"も"本部に泊まっていくそうだ』と言っていた。
それだけじゃない、あの日、理由もなく遅い時間まで学校にいたのは。
この家に、帰りたくなかったんじゃないか。


「何か、この家を手放したくない理由でもあるのか」


帰りたくなくなるほど嫌がらせを受けても、家族と離れても、こんなところに住み続けるなど、それしか考えられない。
俺が、警戒区域に入ってしまった元の家から離れがたかったように。


「……つ、だよ」


小さな声が、繰り返した。


「罰だよ、私への」

ALICE+