世界の始まり


暗く狭い、部屋と呼ぶのもはばかられる場所。
足元と頭上に四角く切り取られた空間から見える、わずかな地面と空。
たったそれだけが、彼女のセカイのすべてだったらしい。


あれはもう、150年以上も前の真夜中。
虚が突っ込んで崩落した蔵、瓦や天井の破片が散らばるその中に、ボクを見つめる影があった。
胸元に因果の鎖はない、生きた人間。
恐怖するでもなくただぼんやりと、ボクに視線を注ぎ続けている。
なぜこんな蔵に、こんな子供がいるのか。
何か悪さをした折檻、とかだろうか。
というか、霊力があるのか、この子供。

声でも掛けようかと思ったとき、突如その子が動いた。
おぼつかない足取りで近づいてきて、ボクの死覇装を掴む。


「……くろ」


死覇装のことか、夜闇のことか。
それきり何も言わずに、布地をもてあそぶ小さな指。


「……楽しいスか?」


動くに動けず、我ながら頓狂な問いかけをしてみた。
すると、彼女の手が止まる。
小さな頭をかしげて、たのしい、と繰り返す声。


「たのしい……って、なに」
「何って言われたら、なんなんスかね……」
「わからない、これは、たのしいの?」
「難しいこと聞きますねぇ」


さてどうしたものか、と思ったところに、瓦礫の中で斬り落とした虚の足が動くのが見えた。
子供に当たらないよう、角度を調整して紅姫の斬撃を飛ばす。
今度こそ、虚は完璧に活動を止めた。


「……わあ」
「今の、怖くなかったんスか?」


驚いたような言葉と、無表情と、行動(相変わらず死覇装をいじっている)が一切合っていないのが気になって、質問をつい重ねる。
これも答えはなく、首をかしげるばかり。
任務が終わった以上このまま突っ立っているわけにもいかず、背を向けようとすると、一際強く裾を握りしめられた。


「くろいひと、あの、ね」


安直すぎる呼称に、思わず苦笑が漏れる。
この話だけ聞いてから帰るのでも、悪くはないか。
まあ多分、怒られはしないだろう。


「……こわい」


遅れて恐怖が来たかと思ったが、表情は相変わらずの無。


「なにが怖いんです?」
「わからないこと」


今までになくはっきりとそう言って、子供はボクを見上げた。
そしてぽつぽつと、話しだす。


「母さまがいなくなってから、だれも、なにも、教えてくれないの」


初めて、この子に感情が見えた。
悲しげで、それでいて悔しそうな、そして恐ろし気な。


「……どうして、わからないことが」


怖いんスかと続けようとした途端に、人間が複数人近づいてくる気配。
ボクとしては話をしても構わないが、この子が奇異の目で見られるのも困る。
握られた裾を振りほどいて、瞬歩でその場を去った。
去り際、短く上がった声が、少しだけ気にかかった。







翌日、あの家を通りがかってみた。
決して私情ではなく、虚が一度狙った場所を見回るのは、まあよくある話。
明るい中で見れば結構な豪邸で、蔵のひとつやふたつの崩落程度では、大した打撃にもなっていなさそうに感じる。
あの子は、この家の令嬢だろうか。あれからどこに行ったのか。

まだ少し虚の霊圧が混ざる、崩れた蔵。
そのすぐそばの、離れらしき建物の縁側に、目当ての人物はいた。
何やら、ぼろぼろの麻紐であやとりに興じている。
昨夜は気づかなかったが、服は屋敷と釣り合わない質素なものを着ていた。
令嬢ではなくて、下働きなのか。
いや、それにしては、くつろぎすぎている気もする。


「……くろいひと」
「どーも、おはようございます」
「おは、よう」


ボクに気づくと、紐はあっさり打ち捨てられて、興味も視線もすべてボクに向けられた。
普通に子供らしく、移り気な面もあるらしい。


「昨日聞こうとしてたこと、今聞いてもいいっスか?」


また人がやって来る前に、気がかりなことをなくしてしまいたかった。
こくり、と頷いたのを確認して、問う。


「どうして、わからないことが怖いんスか?」
「……こわい、のは」


まばたきを、みっつ。
息を、ふたつ。
もう一度、口が開く。


「わからないと、しんじゃうから。
母さま、だれも、なおし方、"わからなかった"。
だから、しんじゃった」


この子の母は、何かしらの不治の病で命を落としたらしい。
治し方がわからなかったから死んだ。
責があるのは、天命でも、神懸かりでもない。
大人でも珍しいほど、随分と理性的な考え方をする子供だ。

なおも途切れ途切れの語りは続いて、次第に熱が入っていく。
ボクを見る目が、ぞっとするような光り方をした。
どす黒く爛々としたそれを、ボクは知っている。


「わからないと、しぬ。
しぬのはこわい、から、わからないこともこわい。
だから、しなないために、たくさん、ぜんぶわかりたい!!」


楽しいことが何かはわからない。
知っているのは、死と恐怖。死への恐怖。
そして、すべてを知りたいという傲慢な願い。
子供らしからぬ暗い目の奥底に宿るのは、狂気に近しい、知への渇望。


「……キミは、賢い子ですねぇ」


そして同時に、哀れな子だ。
本当に何も知らないままでいられたなら、こんな望みを持たずに済んだのに。
知ってしまっては、戻れない。


「名前、なんていうんです?」
「わたし?」
「ええ」
「……久夜。
母さまのほかは、だれもよばなかったけど」
「じゃあ、久夜サン」


ボクと同類の、幼い子。
すべてを知りたいと願うこの子に、ボクが知るすべてを与えよう。
この子が、知らぬ何かに殺されないように。


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