※片目に滾りすぎて捏造
※血戦篇後の話
※アップ日の都合上、665話の内容と矛盾あり









夕方のあたたかな日射しに、まどろむ意識。
それは突然、何かが割れる音で現実に引き戻された。
音のした台所のほうに、スリッパも履かないまま駆け出せば、しゃがんで何かの破片を拾う人影が。


「あ、入っちゃダメっスよ。ガラス散ってるんで」
「……喜助さん」


背中を向けたまま、喜助さんが私に言った。
カシャン、と軽い音を立てて、砕けたガラスがビニール袋に集められていく。
ほんのり青いそれは、少し前までコップだった物体のはず。
喜助さんが、1番よく使っていたコップだ。


「せめて飲み物入れる前でよかったっス、危うく大惨事になるところでしたよ」


軽口を叩きながら振り返った喜助さんの右目には、まだ見慣れない眼帯。

滅却師との戦いで負わされた傷は結局、四番隊やテッサイさんの回道、織姫ちゃんの双天帰盾、他のどんな手でも治せなかった。
"即死"させられたらしいんで仕方ないっスね、と彼は笑っていたけれど、合わせて笑うなんてできるはずもなくて。


「気を抜くとたまに、遠近感覚が狂うんスよねぇ……」


破片を片付け終わった喜助さんが、何かをたしかめるみたいに、右手を結んで開いて、を繰り返す。
ぐ、とのびた中指の先に、赤い滴りを見つけた。


「喜助さん、指、切れてる」
「……あらら」
「手当てしないと」
「このくらい大丈夫っスよ?」
「駄目だよ、喜助さん薬品とか扱うでしょ。そのままじゃ危ないから」


平気だ、と主張するのを押しきり、救急箱のある居間に連れていく。
喜助さんの右側に座って、箱から出した消毒液とガーゼで切れた中指を消毒する。
最後に絆創膏を貼って、終了だ。


「できたよ」
「ありがとうございます、わざわざスイマセンねぇ」


私のほうにのびてくる、手当てしたばかりの右手。
その手が、頭のほんの少し手前で止まって、空をかいた。
僅かに歪められた顔の、半分ほど伏せられた目と、私の目が合うと、気まずそうに喜助さんが笑う。


「もう少し、こっちに来てくれます?」


ぽんぽん、と畳を叩く手で示されたのは、喜助さんから見て左のほう。
ああ、そうか。私がいたのは右側、つまり。


「みえて、なかったんだね」


口に出したつもりはなかったのに。
他でもない自分自身の声で突きつけられた事実に、心を抉られる。

もう、喜助さんの両目に私を映してもらえない。
もう、あの両目に見つめられることはない。


「由里果サンっ?」


膝の上に、ぱたりぱたり、透明な滴が落ちる。
次々にこぼれて、転がっていく。

どうして、私が泣いているの。
当の喜助さんは、あれから涙のひとつも見せていないのに。
1番辛いのは、喜助さんのはずなのに。


「由里果、泣かないで」


喜助さんの指が、私のまぶたの下を拭う。
止めどなく溢れていくそれは、とても片方の手では拭いきれない。


「ごめん、喜助さん、ごめんね」
「なんで由里果が……謝らないといけないのは、ボクのほうだ」


畳の擦れる音がして、息が詰まるほど抱きしめられた。
涙が、黒い羽織をさらに色濃く濡らしていく。
ぎゅう、と私をますます強く引き寄せて、喜助さんが口を開く。
その声は、いつになく弱々しかった。


「無事に帰ってきてって言われたのに、こんな怪我して、キミを泣かせて、本当に、ごめん」


違う、無事にっていうのは、生きて帰ってきてって意味だったの。
どんな怪我をしても、生きていてくれればそれでよかったの。
そう、思っていたのに。

ただ、彼が片目を失ったというだけで、こんなにも悲しくて、寂しくて、苦しくて堪らない。

何処かで、喜助さんは無傷で勝ってくると思っていたから。


「約束を破ったことを、許してくれとは言わない……言えない、けど」


許すに決まっているのに。
余計な後悔を背負わせたのは、私なのに。


「こうやって、由里果がちゃんとボクの傍にいるって、たしかめるのだけは許して。
キミがほんの一瞬でも、ボクの見えない所にいると、怖くて仕方ない」


低く震える言葉の端に、胸を締め付けられる。


「喜助、さん」
「ごめん、ごめんね、由里果」


謝り続ける彼は、放っておくと死んでしまいそうで。


「謝らないでよ、喜助さん、ちゃんと私の所に帰ってきてくれたでしょ」
「無事じゃ、なかった」
「私だって、無傷で無事がよかったよ。
でも、喜助さんがケガさせられるような強い敵と戦って、帰ってきてくれたんだから、それでいい」
「……どうして」


喜助さんの声が、決定的に揺れた。


「1番大切な人との約束を破って、泣かせて、こんなボクに、なんでそんな優しいんスか、訳がわからないっ……どうして、好きでいてくれるんだ」


普段の作った口調と、素の口調が混ざりあうほど動揺した様子。
泣くのを堪えるように上下する背中を抱き寄せて、近づいた耳にそっと囁いた。


「喜助さんが、こういう人だからだよ。
いつだって私のことを考えてくれて、大切にしてくれる。
私がその気持ちを返したいと思うのは、当たり前でしょ」


言い終わるや否や突然、肩に重みがかかる。
見れば、喜助さんが私の肩に頭を乗せていた。


「由里果、」


ありがとう。
涙の色を帯びた呟きと同時に、じわりと肩が濡れていく感触。
お互いに何も言わずに、響くのは時折喜助さんの吐く息だけ。
いつの間にか帽子が落ちていて、こぼれた癖っ毛に指を通していると、くすぐったいっス、と喜助さんがぼやいた。


「ていうか、あんまりこっち見ないでくれますか?
今ちょっと情けないことになってる自覚はあるんスよ」
「ダメ、喜助さんいつも抱え込んじゃうから、たまには弱味見せてもいいんだよ」
「……うん、ありがとう、由里果」


ぽすり、私の頭に、大好きな掌が乗る。
今度はちゃんと、触れてもらえた。


「ボクを好きでいてくれて、ボクの傍にいてくれて、本当にありがとう」


少しだけ赤く腫れた隻眼が、笑う。
その愛しさは、目が片方だけになってしまっても、変わらない。

もう、喜助さんの両目に私を映してもらえなくても。
もう、あの両目に見つめられることはなくても。

喜助さんは喜助さんで、ずっとずっと、私の大好きな人なんだ。



欠けたるものは、
何もない。貴方がそこにいれば、それだけで十分
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